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50代からの知的冒険|切手と国家の物語⑥四通が渡った世界――シベリアルート誕生から断絶へ

この記事の要約
・1899年から1922年にかけて、日本と欧州を結んだ四通の外信郵便から、近代日本と世界史の変化を読み解く。
・“Germany via Vancouver”から“VIA SIBERIA”、そして“via America”へ――郵便経路の変化は、シベリア鉄道の成立、日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命といった激動の時代を映している。
・敦賀発の私信やボヘミア宛書留便には、国際交流と郵趣文化が広がった時代の空気が残る。
・切手、消印、宛名、経路。小さな郵便物の上には、帝国の盛衰と世界秩序の変化が刻まれている。

小さな封筒や葉書が、世界史を語ることがある。差出人、宛先、切手、消印、そして経路。そこに刻まれた情報は、国家の盛衰と、人と人のつながりを、静かに証言している。

私の手元に四通の外信郵便がある。1899年から1922年にかけて日本と欧州を結んだ郵便物だ。

世紀をまたいだ手紙――“Germany via Vancouver”

最初のエンタイヤの左上には、美しい筆致で “Germany via Vancouver” と書かれている。横浜から太平洋を渡り、カナダ・バンクーバーを経由して北米大陸を横断し、大西洋を越えてドイツへ向かった手紙だ。

裏面には、“Absender: G. Specka, Tokio / German Legation”とある。差出人は、東京のドイツ公使館に勤務していた法学者Gustav Specka。宛先は、西プロイセン・マリエンヴェルダーの法学生Otto Speckaだ。同姓であることから、親族または近い関係にあった可能性が高い。

消印、到着印ともに鮮明だ。横浜で押された消印は1899年12月1日。到着は“MARIENWERDER (WESTPR.) / 1-1.00 2-3N.”。1900年1月1日午後2〜3時着となっている。

19世紀末の日本を発った手紙が、一ヶ月を経て、太平洋と大西洋を渡り20世紀の最初の日にドイツへ届いた。まさに世紀をまたいだ外信書状だ。

封皮は、楕円額面に “IMPERIAL JAPANESE POST” を有する2銭封皮。これに小判切手1銭緑・4銭茶、菊切手3銭紫を加貼し、UPU加盟国宛書状料金10銭を構成している。

左が1銭の小判切手、右が封筒に印刷された封皮

小判切手は明治前半の日本で発行された普通切手で、菊切手は1899年に登場した新時代の普通切手だ。旧世代と新世代の普通切手が混貼されている。

左が4銭の小判切手、右が3銭の菊切手。混貼は郵趣家に人気がある

明治末期は、1898年に民法、1899年に商法が施行され、同年には条約改正による治外法権撤廃を実現した時期にあたる。明治日本が近代法国家として国際社会へ本格的に参入しようとしていた転換点だった。

その時代に、東京のドイツ公使館にいた法学者から本国の若い法学生へ手紙が送られた。近代法国家へ変貌しつつある日本の状況、極東情勢、そして新しい世紀へ向かう世界の変化について語られていた可能性を想像させる。

この手紙を受け取った若い法学生であるOtto Speckaは、ドイツ帝国の栄光、第一次世界大戦、帝国崩壊、国境変更、そして故郷の変容という激動の時代を生きることになる。

その頃、ユーラシア大陸では、ロシア帝国が巨大な国家事業を進めていた。

ロシア帝国が築いた「ユーラシアの動脈」

1890年代、ロシア帝国はシベリア鉄道建設を急いでいた。この巨大な鉄道は軍事・政治の動脈であると同時に、やがて日本と欧州を結ぶ郵便の幹線となる。

1896年には西部シベリア線(チェラビンスク~オビ間)、1897年にはウスリー線(ウラジオストク~ハバロフスク間)、1899年には中央シベリア線(オビ~イルクーツク間)が完成し、1903年には東清鉄道(中国国内にロシアが敷設した路線)の完成によってシベリア鉄道は全通する。

シベリア鉄道は、ロシア帝国がシベリアと極東を軍事的・政治的に統合するための国家戦略そのものだった。

1904年、ついに日露戦争が勃発。ロシアはシベリア鉄道を通じて兵力を極東へ送り込もうとした。当時のシベリア鉄道は単線区間が多く、輸送能力には限界があった。日本は海上優勢を背景に機動的に兵力を投入し、日露戦争でロシア帝国に勝利した。

日本は、1905年のポーツマス条約で長春―旅順間の東清鉄道南部支線の権益をロシアから譲り受け、翌年には南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立する。ロシア帝国が築いたユーラシア鉄道網の一部を、自らの満州経営の手段としたのだ。

ここから、日本発欧州宛郵便でもシベリアルートが本格的に動き出す。

敦賀からウラジオストクへ。そこからシベリア鉄道で欧州へ。スエズ経由や北米経由より高速のシベリアルートは、やがて日本と欧州を結ぶ国際郵便の幹線へ成長していく。

敦賀から届いた美しい私信――シベリア接続港の時代

二通目は、1908年7月8日に敦賀局からドイツ・ベルンカステル宛に出された国際絵葉書だ。

使用切手は菊4銭単貼。 “TSURUGA JAPAN”の消印が鮮明だ。宛先は、美しい文字でドイツ・モーゼル地方のベルンカステルと書かれている。私信はドイツ語は次のようになっている。

“Die herzlichsten Grüsse aus Tsuruga sendet Ihnen Karl Weber.”
「敦賀より、心からのご挨拶をお送りします。カール・ウェーバー」

Karl Weber は男性名。宛先は“Fräulein” と記されているので未婚女性だ。

葉書の裏には敦賀港官幣大社氣比神宮本殿が印刷されている。本殿は、1945年の敦賀空襲によって焼失している。

旅先の敦賀から、流麗なカーシヴ(草書体)で「心からの挨拶」が記された記念葉書には、単なる観光葉書以上の親密さが漂う。恋文とまで断定するつもりはないが、その筆致には特別な感情の存在を感じさせる。

日本と欧州を一本で結ぶ「欧亜連絡運輸」が始まるのは1910年。人の移動に先駆けて、郵便はシベリア鉄道を通じて行われていたのだ。

1910年代、シベリアルートは日本と中欧を結ぶ国際郵便の幹線へ成長していく。

日本が列強の一角に。郵趣を楽しむ余裕が生まれた時代に突入

1914年、第一次世界大戦が始まる。

日本は日英同盟を背景に連合国側として参戦し、青島攻略戦などを通じて極東におけるドイツ権益を獲得する。そして1918年、戦勝国としてヴェルサイユ講和会議に参加する。

明治維新から半世紀。日清戦争、日露戦争を経て、日本は列強の一角として国際社会に遇される時代へ入っていった。

その空気は、郵便の世界にも表れている。海外との通信は増え、知識人ネットワーク商業通信、そして郵趣を楽しむ余裕が、日本社会の中に広がっていく。

戦前最後の平時――神戸からボヘミアの郵趣誌編集者へ

三通目は、1913年7月16日に神戸・下山手からオーストリア=ハンガリー帝国領ボヘミア宛に差し出された書留外信書状だ。貼付は菊4銭切手3枚と菊8銭切手1枚、合計20銭。当時の外国通常書状料金10銭と書留料10銭に適合している。

表面には大きく "VIA SIBERIA" (青丸部分)とあり、シベリア鉄道経由を明確に指定している。敦賀からウラジオストクへ、そしてユーラシア大陸を西へ駆け抜けるこのルートは、日本と欧州を結ぶ国際郵便の本道となっていた。

宛先は、郵趣誌 “FILATELIE” (赤丸部分)の編集者 Ant. Lud. Riska 氏。現在のチェコ、当時のオーストリア=ハンガリー帝国領ボヘミアのプラハ近郊宛の郵便だ。

差出人印は、“S. MIYAGAWA / MASTER OF SEIKWA SCHOOL / KOBE, JAPAN”とある。Seikwa School の実体は未詳だが、神戸を拠点とする教育関係者だ。欧州の郵趣誌編集者へ向かった書留の中には、日本の切手や郵趣資料が収められていたのかもしれない。

この書留郵便が届けられた翌年、サラエボで銃声が鳴る。第一次世界大戦によって、日本と欧州を結んでいたユーラシアの郵便網は引き裂かれていく。

1918年、敗戦によってオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊する。プラハはチェコスロヴァキアの都市となり、この郵便の宛先である “Boheme-Autriche”(オーストリア領ボヘミア)は歴史から消えた。

ロシア革命とシベリア出兵――“via America” の時代

四通目は、1922年(大正11年)1月17日に京都・聖護院局からパリ宛に差し出された絵葉書だ。貼付は田沢型4銭切手2枚、合計8銭。葉書上部には朱書で “via America” (紺丸部分)と明記されている。

裏面には、京都の象徴である金閣寺が描かれている。この葉書は太平洋を渡り、北米大陸を横断して欧州へ向かった。

1917年のロシア革命後、シベリアは内戦の舞台となった。日本は1918年からシベリア出兵を行い、1922年1月時点でも日本軍のシベリア駐留は続いていた。かつて日本と欧州を高速に結んでいたシベリア鉄道は、もはや安定した国際郵便路ではなくなっていた。

宛先は、パリ滞在中の本庄栄治郎・京都帝国大学助教授(緑丸部分)。後に日本経済史・経済思想史研究で知られ、文化功労者となる人物だ。

私信には、「先般の御高著、厚く有難く拝受仕候」とある。この「御高著」は、本庄が1921年に刊行した「日本経済史原論」または「経済史考」を指す可能性が高い。本庄は、急速な工業化と都市化の一方で、置き去りにされた農村や民衆生活との不均衡に強い関心を持っていた。

1922年の欧州は、第一次世界大戦後の混乱期にあたる。ドイツは賠償問題と通貨不安に苦しみ、オーストリア=ハンガリー帝国はすでに消滅し、ロシア帝国も崩壊していた。後に経済史の大家となる本庄は、混乱する欧州社会をどのように見ていたのだろうか。

この後、シベリアルートは1920年代半ばの黄金期を経て、第二次大戦の激動期を迎えることになる。

小さな郵便物の上に残された世界史

この四通を並べると、日本と欧州を結ぶ郵便史の流れが見えてくる。

北米経由の時代シベリアルート誕生の時代。ユーラシア横断郵便の黄金期。そして、戦争と革命による断絶

“Germany via Vancouver” から “VIA SIBERIA” へ。そして “via America” へ。

切手は国家を語る。消印は交通を語る。宛名は人間関係を語る。経路は世界秩序を語る。小さな葉書や封筒の上に、国家と国民の物語が残っている。そこには、20世紀前半に消えていった帝国の地理も刻まれている。

「50代からの知的冒険|切手と国家の物語」シリーズも6回目を迎え、郵趣のマニアックなところまで入り込んだ。

次回は、切手収集の楽しさの原点を見つめ直すために、『お年玉をはたいて買った「見返り美人」。昭和の熱狂と、3000円で味わう日本美術の世界』について書くことにする。


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