キャリアゼロを生きる為に〜”ギフテッド2E”の可能性と限界に憂う
革新とかキャリアアップとかスキル向上とか、日々前進とか挑戦を楽しみ、自ら変化を創り出すとか・・そんなのは誰でも言える。
人生の岐路に立った時、人は何を考え、何の道を選択し、どの様に踏み出すのか・・
それが判ればだが、苦労はしない。
働き方の選択肢が広がる昨今、キャリアの描き方も多様化するが、その分リスクも多様化し、深くそして大きくなる。
が故に、自分の可能性を広げようとする為の”次の一歩”には大きな勇気が必要となる筈だが、踏み出した結果、失敗と損失と後悔がもたらされるだけで、負のループを繰り返す人生が待っていたとしたら・・
事実、私がその典型でもあった。
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つまり、我らが思う程、人生の成功物語は単純でも美談でもない。
ドラマの様に”全てを失ってから全てが始まる”程に感動的である筈もないし、”絶望が希望に代わる”程に凡庸でもない。
勿論、AIが指摘する様に、過去の評価や肩書を手放し、目の前の小さな一歩や日々の行動から”自分軸”で価値感や人生哲学を再構築する事も重要だが、これは数学で言う”十分条件”に過ぎず、必要条件にはなり得ない。
つまり、世間やネット上を賑わす殆どの啓発本では、この十分条件を論じてるに過ぎない。
キャリアゼロを生きるギフテッドの苦悩
一方で、人生をキャリアなしで生きる事は可能なのだろうか?という事を真剣に考える自分がいる。勿論、”働かずに生きる”という極論ではないし、資本が全てを支配する今、”自分を生きる”という価値観に見合った働き方を模索すると言う意味である。
確かに、もっと自分に都合の良い楽な生き方を選択をしてれば・・と後悔する所もあるが、今に思うと、私はあえてキャリアゼロを生きる選択をした様に思う。
故に、私の履歴書は多種多様の仕事とその間の空白で混乱し、タチの悪い数学の未解決問題の如く、その履歴と過程は複雑怪奇なものに変異している。
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元々、分析や考察が好きで、数学でも問題の本質や脆弱性を見抜く様に、人生の真理を追求したがる。故にか”何でもできるが、何もできない”タイプの典型の落ちこぼれでもあった。
事実、40歳の頃に某外資系IT企業で受けた検査では知能指数が160前後と”ギフテッド”としてみても悪くはない。その後、YouTubeの簡易IQテストでは180近くを示し、仕事も取り柄もなかった私には”自分を持する”大きな支えとなった。
因みに、「IQ160の憂鬱」でも書いたが、ギフテッドとは先天的に高い知能(IQ130以上)をもつ人を指し、その才能を”神様からの贈り物”と捉え”Gifted”と呼ぶ。遺伝的要因の関与も指摘されてはいるが、詳細なメカニズムは解明されていない。
一方でギフテッドには”英才型”と”2E型”に分類され、前者は理解力や記憶力に優れ、多くの分野で高い知能を示すが、後者の様にギフテッドと発達障害の特性を併せもつタイプを”2重に特別な(Twice-Exceptional)”という意味で”2E型”と呼ぶ。但し、2Eは特定の分野で傑出した才能を示す一方、苦手分野で著しい困難や障害を示す傾向にあり、”発達の凸凹”とも言われる。
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勿論、私が後者である事は言うまでもないが、アインシュタインやダビンチらの偉人を例に挙げると”2Eはごく一握りの異才”とされる。実際、ギフテッドは人口の約2%で、2Eは約0.4%と推測され、ASD(自閉スペクトラム症)の約2割、ADHD(注意欠如・多動症)の約1割が2Eという調査報告もある。
”ギフテッド2E”と新たな人生の模索
この様に、ギフテッドと発達障害には類似点が多いが、ギフテッドと発達障害は全く別の概念である。勿論、両方を併せもつ人もいて、一方が他方を誘発する事はないという。
故に、”バカと天才は紙一重”というのも全くの誤解と言える。
だが、私の田舎ではそんな理屈は通用しないし、ギフテッドでも2Eは何の取り柄のないバカなのだろう。だが、キャリアゼロを生きる上では、何の取り柄のないギフテッド2Eは何か新たな答えを出してくれるかも知れない。
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例えば、アメリカが実験的国家である様に、私も”ギフテッド2Eがキャリアゼロでも生きる事が出来るのか?”を模索中である。
もしそれが可能なら、ノーベル賞クラスの研究成果になるかもだが、60を超えた私には未解決の難題でもある。
仮に神様が存在するとして、キャリアゼロもギフテッド2Eも神から与えられた試練であり、財産でもあろうが、無神論の私には社会から疎外された憂鬱に変わりはない。
冒頭でも言ったが、革新とか変化とか挑戦とかは、大衆受けのいいキレイ事に過ぎない。
つまり、新たな生き方を模索するのは、思う程単純じゃないのである。
