発達障害マダムの仕事遍歴・前編〜障害発覚前の若かりし頃〜
こんにちは、発達障害マダムの大磯りんご飴です!
突然ですが、発達障害を持っているが故に仕事ができないと悩んでいる方は多いのではないでしょうか。
今回は、私がどのような仕事をしていたのか、そこでどう過ごしていたのかを語っていきたいと思います。
↓こちらも参考にして下さい。
高校時代のバイト
高校時代は趣味と部活中心の生活を送っていましたが、お金が必要になってバイトをしていた時期もありました。
スーパーのレジ打ち(高校時代)
当時の携帯電話はインターネットの料金がものすごく嵩みまして、親に携帯を没収されたり使い方の事で叱られるのが当たり前でした。
そんな携帯代を稼ぐために、1年生の冬休みに近所のスーパーで年末年始だけ募集していた短期バイトに応募し、人生初の労働をしました。
ここでは勤務状況を記録するタイムカードの存在や、出勤時の挨拶が時間を問わずおはようございますである事など、労働における基本的な事柄を知りました。
仕事を教えてくれた人は、一部細かい人もいましてが概ね良くしてもらい、約10日のバイトを無事にやり遂げました。
お弁当屋さん
2年生になったある日、例によって携帯の料金の事で親と喧嘩になり、部活をしているにもかかわらず
「料金くらい稼いでやる」
と見栄を切って、同時期にバイトを募集していた近所のお弁当屋さんに応募しました。
接客を中心にやりたいと軽い気持ちでの応募でしたが、お弁当屋さんなので当然ですが調理補助と清掃が中心でした。
決められた勤務時間では部活に最後まで出ていては間に合わないと、毎日部活を早退して急いで出勤していて、それだけでも大変だったのに、ものすごくきつくて苦手なタイプの先輩が2人いて、運悪くその2人と一緒に仕事をする事が多かったです。
毎日のように叱責された不満はすぐに爆発し、わけのわからない事を喚き散らしながら件の先輩達と大喧嘩をした事で、その先輩達から報告を受けた店長に
「他の人と協力できない人にはやめてもらいたい」
と言われ、結果としてたった2週間でお弁当屋さんを退職しました。
コンビニ
お弁当屋さんをやめてからは部活とバイトの両立を諦め、3年生になる頃に携帯のプランを見直し料金が落ち着いた事で、部活を引退するまではどこにもバイトに行きませんでした。
引退後、ファンになって間もないGLAYのライブに行きたくて、その資金を稼ぐために近所のコンビニで1年数ヶ月ぶりのバイトを始めました。
(↑GLAYのファンになった経緯はこの記事にて)
当時は卒業後の内定が決まっていたため3月までという契約で、コンビニにおける様々な仕事のうち、レジと調理、仕入れ商品の検品を中心にして、清掃はほとんどやった事がなく、他にも業務はあったかと思われますがほとんどタッチしていませんでした。
今思えば、恐らくは大目に見てもらえていたのだと思いますが、当時はあまり疑問に思わなかったというとんでもない能天気でした。
私の得意技の接客スマイルが先輩達から評判になりオーナーからも褒めてもらえた反面、態度が悪い客、気難しい客との関わりで疲弊し、今まで接客が好きだったのが嫌いになってしまいました。
その一方で、私も感情を剥き出しにし、厳しい客への態度が悪くなったり、ひどい時には喧嘩をしたり、最悪の駄目バイトでもありました。
コンビニで接客の難しさを思い知り、もう接客系の仕事はやりたくないと思うようになりました。
高校卒業から発達障害発覚まで
高校時代、進路を就職の方向に決めてから、当初は事務を希望しましたが、事務はライバルが多く
「大磯さんは校内選考を通らないから事務をやめて他の職種にするべき」
と担任教師に言われ、他の職種に惹かれるものがなかったので、結局親と教師が決めた職場に就職しました。
精密部品工場
実家がある市ではかなりいい会社と評判でしたが、私は前向きに受け止められませんでした。
その理由としては、
自分で決めた職場ではなかった
制服が全く可愛くない作業着だった
中学校時代嫌いだった同級生と同じ職場になってしまった
同世代の人が少なく親世代以上の人が多い職場だった
全てまだ若過ぎたが故のわがままですが、服装に関してはASD故の服装のこだわりが絡んでいたような気がします。
この工場で勤めていた数年の間で一番長くいた部署では、製品管理に関わる様々な仕事をしていましたが、独断で仕事を選んだり手を抜いたりする駄目社員だったため、先輩には嫌われ、上層部には都合の良い下っ端扱いされ男子社員中心の部署の掃除など雑務を押しつけられていました。
最低限の仕事をちゃんとこなす真面目さも突然の雑務を断る勇気もなかったため、結局まともに仕事ができず無様な姿を晒し、それが後述の退職の運命を決めたのかなと思います。
最後にいた部署は製品の材料を検査する部署で、ここでの人間関係は概ね良好だったので、ここならずっといてもいいかなと思っていた矢先、かのリーマンショックが発生し工場の業績が悪化、私を含む多くの社員がリストラの憂き目に遭い、退職を余儀なくされました。
営業事務
前職を追われて最初はショックでしたが、本来興味があった事務の仕事に就くチャンスだと前向きに就活し、3ヶ月後に営業事務の仕事に就きました。
高校時代に培ってきた事務のスキルが活きる仕事、ベストにスカートという可愛い制服……幸先いいスタートを切りましたが、それは最初のうちだけでした。
入社してから数ヶ月後、先輩の1人が私に対して当たりがきつくなり、徐々に他の先輩も……となり、入社してから1年が経った頃には事務の先輩全員に嫌われてしまいました。
原因は最後まで教えてもらえませんでしたが、今の私が分析するに、
他の人との距離感がおかしい
下の者のくせに電話を取らず、仕事を選り好みしている
だと思われます。
私の部署は電話が極めて多く、お客さんはこちら側が全てを熟知するベテランだろうが右も左もわからない新人だろうが関係ないので、先輩の担当のお客さんに当たり面倒臭い思いをする事も多く、次第に電話応対自体が嫌いになっていきました。
更には、自分を嫌っている相手には取り次ぎや報連相ができなくて、無理やり自分でこなそうとした結果失敗してお客さんに迷惑をかけて、更に先輩に嫌われて……と悪循環でした。
それ以外に、社内への来客受付も営業事務の下の者がするしきたりになっていて、私も例外ではありませんでしたが、書類やデータの仕事をしている時にお客さんに来られたらペースが乱れるので、この仕事も好きではありませんでした。
居心地は最悪で、前職と違い自分で選んだ職場だという事と、事務仕事に対する執着だけで留まっていた中、20代半ば頃に妊娠しました。
当初は育休を取得して赤ちゃんが1歳になる頃を目安に復帰する方向で動いていましたが、請求書発行の時期に新婚旅行に行った事で先輩に迷惑をかけて文句を言われたため、この先輩達とは今後仲良く仕事なんてできっこないと思い、臨月を機に退職しました。
今振り返れば空気を読まない私も問題があったし、そもそも職場や先輩が私の特性と合わなかったのですが、もし在籍当時に障害が発覚していたら、障害者雇用への変更とか部署異動とか出来たのかなと思っています。
スーパーのレジ打ち(婚姻時代)
息子が生後半年になった頃、保育園を申し込んでパートの仕事を探す事にしました。
嫌な思い出ばかりの前職でしたが事務仕事自体は嫌いにならなかったので、パートも前職の経験が活きる事務を中心に探していました。
事務パートの人気はすさまじく、1件だけ面接を受けた所では応募者が10人いると言われ、その中に経験者がいたという事で私は落とされました。
そんな中、近所のスーパーに家族で買い物に行った時に、レジ打ちの短時間パート募集の貼り紙を見つけました。
私自身は前述のコンビニや営業事務でお客さんと関わる仕事が嫌いになっていたので無視するつもりでしたが、時給や勤務時間、家からの距離などが希望条件ぴったりだった事からか夫が熱心に勧めてきました。
厄介な事に、コンビニでの接客スマイルの他、営業事務時代に
「受付の人(私)の対応が気持ちいいとお客さんに褒められたよ」
と営業の上司に言われた過去もあり、天性の才能があるなら嫌いでも我慢して活かすべきと勝手に自分を追いつめてしまい、夫の勧めに乗る事になりました。
家庭との両立のために月〜金を希望していましたが、面接でチーフから
「うちは年中無休だから土日祝も出てもらう」
と言われ、そこで断れば良かったのに
「いざという時は息子を義母に頼みます」
と見栄を張ってしまい、他に応募した人がいなかった事もあり採用になりました。
嫌々始めた仕事とはいえ、いい人だと思われたい気持ちが人一倍強かったのでここでも接客スマイルを発動し、私を気に入りいつも私のレジに並ぶお客さんが増えてきた一方で、クーポンの使用を忘れる、商品を落として駄目にするなどのミスをやらかしてお客さんを怒らせてしまう事も少なくありませんでした。
そして、コンビニ時代にもいたような、横柄な客や気難しい客に遭遇して嫌な思いをする事が少なからずあり、その度にこの仕事を勧めた夫を恨みました。
その夫はといえば、同時期に同業他社に転職したばかりで多忙になり、私も土日祝はほぼ仕事だったため、息子の世話は義母を中心に、場合によっては実家の妹に頼む事もありました。
義母はいい言い方をすれば世話好き、悪い言い方をすればお節介、気になる事があればすぐ口出しをする悪い癖の持ち主で、自分のペースでやりたい私とは相性が良くありませんでした。
何をやってもちっとも楽しくないと感じる日々を送っていたある日、私の接客スマイルに感動するあまり電話をしたお客さんがいたらしく
「大磯さんにお褒めの電話がありました、他の皆さんも大磯さんを見習うように」
と朝礼の時に皆の前で言われました。
本来ならここで喜びを感じて仕事に誇りを持つべきところですが、当時の私は
「こんな所で褒められても嬉しくない」
「神様は私に死ぬまで接客をやれと言いたいの?」
と絶望しました。
毎日が不満だらけでいつもキレ散らかしてばかり、家庭内の空気も悪くなったため、夫の収入が格段に増え私が働く必要がなくなったのをいい事に、息子の世話を口実に3ヶ月半でスーパーを退職しました。
当時を振り返って
過去の嫌な思い出からの思い出し怒りは何度もありますが、その度にいつも思うのが、アラサーよりももっと早く、それこそ学生時代のうちに自分の特性を知って自己分析をしたかったという事です。
もっとも、発達障害という概念は息子が生まれた頃から知られ始めたので、時代に恵まれなかったと言えばそれまでですが……。
その上で反省するなら、周りの顔色を伺いながら言いなりになって不満を溜め、我慢の限界になって爆発させる事を繰り返す事、そしてその行動の元凶になった自分の意見を主張する事はわがままという誤った思い込みが良くなかったと思います。
何故私が他人の評価を気にするようになったのかは今後別の話として語る予定ですが、次回はスーパーのパートをやめてからの、専業主婦期間を含めた障害発覚後の仕事遍歴を語りたいと思います。
それでは次回の記事でお会いしましょう、ごきげんよう!
