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【18】晴信入道ノ嫡孫ナリ…

江戸時代、仙台藩/涌谷伊達家の家臣だった武田家の末裔の武田です。現在、涌谷の武田家のルーツをコツコツ探っております。これまで得られた情報を整理して、涌谷武田家は和渕武田家から分立したと考察しています。和渕武田家の足跡を追いかけるうち、いくつもの“謎”と遭遇…。今回は、始祖となった武田信次を巡る“謎”について。

武田信次とは、何者なのか?!

仙台藩に仕えた和渕武田家の祖が、武田 彦次郎 信次。いまや、我が武田家を含めた涌谷武田家の祖としても可能性が極めて高いお方です。仙台藩の家臣録等の記録上では「左京太夫信虎十子」となり、今のところ「武田信虎の十男」といった位置づけが定着しています。が、しかし、物語はこれで終わらないのです。調べてみると、いくつもの“謎”に包まれていました。

秘伝の兜」の話題でも引用した、仙台市博物館に収蔵されている「諏訪法性寿之兜由来」という文章には、和渕武田家に関しての由来も書かれています。原文の写しを掲載されているブログから拝借いたしました。

諏訪法性之甲ハ武田信玄ノ着セシ物ナル事ハ人ノ知ル所ニシテ、仙台藩桃生郡和淵邑主武田杢介ノ家ニ伝ハル至宝ナリ、今其ノ由来ヲ繹ヌルニ、武田家ノ祖先ハ信次トテ即チ晴信入道ノ嫡孫ナリ、武田家滅シテ後、会津ニ落来リテ蒲生家ノ食客トナレリ、信次ニ三人ノ子有リ、長ヲ信豊、次ヲ信方、三男ヲ大學チ云フ、或時兄弟ヲ招キ、我ハ武田晴信入道ノ嫡流トシテ他家ニ仕フルヲ潔シトセサレバ、聊カノ縁故ニ依リ当家ニ食客トナリシモ、此儘ニ朽チ果テナムニハ武田之系図モ反故トナラムト兼テ思ヒシニヨリ仙台ノ政宗ト交ハリテ通ジ置キタレバ、我死シテ後ハ片時モ早ク仙台ニ至リ、汝等ノ将来ヲ託スベシ、委細ハ此ノ書ニ認メタリトテ長男信豊ニ渡シ置キタリ、・・・

「諏訪法性寿之兜由来」より

よく分からないので、AIに現代語訳にしてもらいました。
多少の誤訳もあるかもしれませんが…

諏訪法性之兜が、あの武田信玄公の召し物であったことは世間によく知られている通りだが、これは仙台藩桃生郡和淵邑の領主である武田杢介の家(和渕武田家)に伝わる、この上ない宝物である。いま、その伝来の由来をひもといてみよう。
この武田家(和渕武田家)の先祖は信次という男で、武田晴信(信玄)入道の正統な孫にあたる人物である。武田家が滅亡したのち、信次は会津へと落ち延びて、蒲生(がもう)家の食客として養われていた。信次には3人の息子がいた。長男を信豊、次男を信方、三男を大学といった。あるとき、信次は息子たちを近くに招き寄せ、こう語った。「私は武田信玄の嫡流である。それゆえ、他家の家臣となって仕えることを潔しとはしない。わずかな縁を頼ってこの蒲生家に身を寄せているものの、このままここで朽ち果ててしまっては、武田家の系図もただの紙屑になってしまうと、かねてより心配していたのだ。そこで、私は仙台の伊達政宗殿とあらかじめ連絡を取り合い、親交を深めておいた。私が死んだ後は、一刻も早く仙台へと向かい、お前たちの将来を託すがよい。詳しいことはこの書状に書き記してある」
そう言って、信次は長男の信豊にその書き置きを手渡したのだった・・・

「諏訪法性寿之兜由来」より 現代語訳

何よりの衝撃は、「武田信玄の正当な孫」という表記です。「十男」はどこにいった…。子と孫では、大違いですよね!
それでは、信次さんに関する諸説をまとめてみました。

1.「武田信虎の十男」説

仙台藩の各記録にも明記されているため、現状では史実に近いのではないかと思われます。墓碑の記録文や没年から計算すると、生存していたのは「1528年~1595年」となります。ちなみに、信虎の四男である武田信繁(1525年~)、六男である武田信廉(1528年~)とほぼ同年代ですね。年齢が近いとはいえ、異母兄弟が多かった時代なので“十男”という設定に無理はないのかもしれません。また、信虎の追放(1541年)に帯同したと考えれば、武田の軍勢に加わらずに13歳で甲斐国を出て父たちと過ごしていた…と考えられます。

2.「武田信玄の孫」説

記録を見るかぎり、武田信玄との年齢差が7歳であるため、いくらなんでもあり得ないと思われます。「信玄の子ども」説はあり得なくもないのかな…。信次の年齢にズレがあるとすれば、信玄が17歳頃に出来た子どもと想定すれば可能性はゼロではありません。でも、武田勝頼の8歳ほども年上になるので、武田家の跡取りになっていたのではないでしょうか。やはり、信玄の子、孫説はあり得ないと思います。
もしかして、「諏訪法性寿之兜由来」が書かれたもしくは写された時期によっては“忖度”による“書き換え”が働いた可能性があるかもしれません。なぜなら、明治~大正時代に信玄への再評価と人気が上がり、大正4年(1915年)に「従三位」の位階が追贈されて注目を浴びていたからです。だとしたら、我が家のニセモノ家系図事件と同じ構図ですね…。

3.「武田勝頼の子」説

先ほどの「信玄の孫」説とかぶりますが、「武田勝頼の子どもだった」説もあるようです。勝頼の子である武田信勝は、天目山にて父たちともに16歳で自害しています。しかし、じつは東北地方へ逃げ延びて仙台藩に仕官した…という伝説があるらしい。ちなみに、和渕武田家が、和渕の前に屋敷を構えていた「豊里」には、屋敷のすぐ隣に「豊里まめから稲荷神社」があります。神社の由来については「天正十年(1582年)に、甲州武田勝頼の遺族が豊里町の沼崎山に神様を祀ったことが始まりました」とのこと。武田家が滅亡した直後、この地に武田勝頼の親族が訪れていた…。信勝は生きていた?!
なお、記録にある和渕武田家の足跡とは時期が合わないため、巡り巡って和渕武田家が荒れ地の開墾・新田開発のためにたまたま豊里にやって来た…ということだと思います。このあたりがごちゃ混ぜになり、「天目山から逃げた信勝が、信次と名を変えて仙台藩で生き延びた…」という物語が生まれたと考えられます。これには無理があります。

なお、細かな点ですが、由来の中で、信次の長男が「信豊」になっていますが、各記録をみると「重次」です。本名が2つあるとは思えない…。さらに、一部の家臣録では、信次が「信治」と表記されています。誤記もあるかもしれませんが、ちょっと気になりました。

ミステリアスな要素こそが、甲斐武田一族の魅力でしょうか?!





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