【17】和渕武田家秘伝の“兜”
江戸時代、仙台藩/涌谷伊達家の家臣だった武田家の末裔の武田です。現在、涌谷の武田家のルーツをコツコツ探っております。これまで得られた情報を整理して、涌谷武田家は和渕武田家から分立したと考察しています。和渕武田家の足跡を追いけるうち「秘伝の兜」と出会いました。ちょっと脱線気味ですが、兜にまつわる物語をのぞいてみましょう。
売り飛ばされる寸前だった!

2つ前の投稿でも紹介した古い新聞記事。大正時代か昭和のはじめ頃のものでしょうか。和渕武田家に代々伝わる甲斐武田一族に所縁のある「兜」がアメリカのボストン美術館に売られる寸前、有志の方々によって買い戻された…といった内容。現在は、長野県諏訪市内にて保存されているそうです。そもそも、大切な兜がなぜ売られてしまったのか…
武士の時代が終わり、苦しい生活の中でのやむを得ない決断だったのかもしれません。家勢の規模は違えど、我が武田家でもこれまでに多くの物を手放してきました。わずかに残っていた武田菱の入った古いお盆や、味わいのある朱漆の大小(刀)なども既にありません。ただ、単に処分されたわけではなく、大切にしてくださる方々へ引き継がれたわけですから、これからもどこかで存在し続ける。けれど、ちょっと寂しい。
平安時代から伝わる兜?!
和渕武田家秘伝の兜、どのようなものだったのでしょうか。その答えは、仙台市博物館に収蔵されている「諏訪法性寿之兜由来(写し)」にあります。兜が伝わってきた経緯等を解説する文章。その内容の写しをブログで紹介いただいている方がおり、以下、一部転載いたします。
・・・諏訪法性ノ甲モ和淵武田家ニ伝ハレリ、而シテ武田家ニテハ祖先ヨリノ言伝ヘ有リテ、此ノ兜ヲ氏神ト崇メ、代変ノ節ハ七年ヲ経過セザレバ猥リニ拝スルコトヲ得サルノ家法ナリシト云フ、其ノ甲ハ南蛮鉄烏帽子形、金鋤形、五枚錣ニシテ金ノ象眼アリ、今同家ニ伝ハル霊甲ノ巻ト称スル旧記ハ左ノ如シ・・・
いまいち何が書いてあるのか分かりませんので…、AIの力を借りて現代語訳にしてみました。少し調整や加筆もしつつ、誤訳があるかもしれませんが。
和淵武田家にもまた、諏訪法性ノ甲(かぶと)が伝わっていました。武田家には先祖代々の言い伝えがあり、この兜を『氏神』として崇め奉っていました。当主が代わる際には、7年が経過しなければみだりに拝んではならないという厳格な家法があったといいます。その兜の形状は、南蛮鉄(外国製の鉄)で作られた烏帽子形で、金の鋤形(くわがた)と五枚の錣(しころ:首を保護する板)を備え、金象嵌(きんぞうがん:金細工の武具装飾)が施されたものでした。いま、同家に伝わっている『霊甲ノ巻』と呼ばれる古い記録には、以下のように(その神聖な銘が)記されています。
『八幡大菩薩 天照皇大神宮 春日大明神 明山明珍宗判 久寿二年正月吉日』
想像を超える内容が記載されておりました…。
そもそも、久寿2年(1155年)は平安時代ですけど。甲斐武田家のご先祖を辿ってみると、甲斐源氏3代当主の源清光の時代です。甲斐武田家の始祖といわれる武田信義の父上。由来は本当だとすれば、武田家が始まった時代から伝承されてきた「兜」ということになります。
どんなデザインの兜?!
新聞記事には兜の写真も載っているのですが、あまりよく分かりませんので、AIの力で再現してもらいました。それでは、どうぞ~

・南蛮鉄 : 外国製の鉄で作られている
・烏帽子形 : 上部に高いデザイン
・金の鋤形(くわがた) : 兜の正面の装飾は金
・五枚の錣(しころ) : 首を保護する板が5枚
・金象嵌(きんぞうがん) : 金細工の装飾が施されている
実物とは細かな部分は異なると思いますが、新聞の兜の写真とも重なりますね。どう見ても、加藤清正が好きそうな変わり兜。武田信玄が愛用したといわれる「諏訪法性寿之兜」とはイメージが異なります。どの時代からか「武田家伝来の兜」の総称として使われている節がありそうですね。
氏神として扱われた“兜”
さらに、由来には次のような興味深い記述がありました。
…この兜を『氏神』として崇め奉っていました。当主が代わる際には、7年が経過しなければみだりに拝んはならないという厳格な家法があったといいます。…
まあ、平安時代から伝わり、甲斐武田家の始祖が使ったかもしれない兜であれば、武田家としては『神』ですよね。ただ、気軽に拝めるものではないようで、代替わりしたら7年は拝めない…。新・武田リーダーが認められるまでの基準が「7年」でしょうか。長いな。私の勝手な想像ですが、普段はカギのかかる倉の奥深くに保管されて、当主しか触ってはいけない禁断の秘宝だったと思います。
そんなに大切な兜、売り飛ばしてはダメですよねー
