見出し画像

【25】武田勝頼一族の足跡あり!

江戸時代、仙台藩/涌谷伊達家の家臣だった武田家の末裔の武田です。現在、涌谷武田家のルーツをコツコツ探っております。宮城県の大崎平野を舞台に、甲斐武田一族が駆け抜けた足跡がありました。そこには、いまだ解明されていない武田一族のルーツと歴史、いくつもの物語がありました!

伝承された武田一族の落武者伝説

・・・諏訪峠村は落ち武者の集落らしく、村から出る者もなく、入ってくる者もなく、村には十数軒の「武田」があるのみで、武田以外の姓の家は僅か二軒だけであったという話であった。

武田恒哉氏「『武田姓』に関する一考察」より

有志の皆さんによる「田尻郷土研究会」が発行している機関誌「郷土たじり」への寄稿文から、田尻の諏訪峠には武田一族の落ち武者に関する伝承があることが分かりました(こちら)。この伝承は、諏訪峠出身の武田家の武田さん自らが先人たちから伝えられたものなので、リアリティと重みを感じます。
さて、武田一族の落ち武者の可能性について、現段階までの考察では、武田信玄の祖父の弟である武田信安一族の可能性もありますが、ここでは“もうひとつのリアルな可能性”を考えてみたいと思います。

“諏訪峠”と“甲斐武田”との縁

田尻の諏訪峠。甲斐武田一族を知る人であれば、「諏訪」の地名にただならぬ縁を感じるのではないでしょうか…。言うまでもなく、武田勝頼の生母は「諏訪御料人」、信玄が愛用したのが「諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと)」…。

諏訪峠村は、「昔、当村の大崎義隆公の居城の周りは沼であり、沼の州崎に諏訪明神を勧請いたしましたので、諏訪沼と呼んでおりましたところ、近年、その右側の州崎が峠のようになってまいりましたので、そこを諏訪峠と言い習わしてきたものを、村の名前として名乗るようになりました」と言い伝えられています。

「田尻町史 上巻」より(安永風土記の現代語訳)

【諏訪神社】
田尻町諏訪峠區に在り。祭神は武御名方命にして由緒詳ならず。

「遠田郡誌」より

峠の名称については、永禄10年(1567年)頃から天正18年(1590年)まで大崎氏第12代の当主だった大崎義隆の時代に名付けられたようです。しかし、「誰」が諏訪明神を祀ったのかが明記されていないことに違和感が…。ちょうど、武田一族が落ち延びた時期とも重なりますね。
諏訪明神=武御名方命(たけみなかたのみこと、建御名方神ともいう)。日本神話に登場する強力な武神で、武田信玄も深く崇敬した神様として有名です。なお、諏訪峠村にあった諏訪神社には、明治時代の氏子が11戸あったそうですが、大崎八幡神社へ合祀されたとか。氏子の多くが武田家だったと思われます。そして、「田尻町史」に超重要な記述がありました!

諏訪神社
元村社、明治四十二年大崎八幡神社へ合併の形になってはいるが、祠堂は今猶存在する(堂守が後からてたもの)。甲州武田氏一門の者が、主家没落と共に諸国流浪の末、この地に落ち来り土着定住した際、信州諏訪神社の神石を奉じ来り安置し、彼等の守護神と崇めた。此の神石は諏訪神社の奥院にまつられて現存している。
蓋し、此の地の地形、北東西三面に湖水(昔の千枝沼)を湛え、西は山を控え、彼等の郷里信州諏訪に酷似していたためであるという。

「田尻町史」より 原文のまま

ここまで具体的に書かれてしまうと、ぐうの音も出ません…。ただただ絶句。。
この記述は、前後の文脈から読み解くと「諏訪峠村風土記」から転載されているものだと思われます。ここで書かれている「甲州武田氏一門」が、どの一族なのか…。「勝頼一族説」が濃くなったと思うのは私だけではないはず。

諏訪峠にあった武田家の長屋門(国営みちのく杜の湖畔公園サイトより)

武田勝頼と縁がある稲荷神社

さて、武田一族が甲斐国から落ち延びてきたという諏訪峠から直線距離で約22キロほど。加護坊山のむこう側に「豊里まめから稲荷神社」があります。
こちらの謂(いわれ)にご注目ください↓

天正十年(1582年)に、甲州武田勝頼の遺族が豊里町の沼崎山に神様を祀ったことが始まりました

豊里まめから稲荷神社サイトより

稲荷神社 
上町にあり、祭神は豊受姫大神 応神天皇など。天正一〇年(一五八二)長篠の戦いで織田、徳川連合軍に敗れた武田勝頼の遺族が落ちのびて勧請したと伝えられ、境内と道一つ隔てた豊里中学校庭の一角には往時をしのばせる「武田屋敷跡」の碑がひっそりと建っている。

読売新聞東北総局編「ふるさと再見 : 宮城県市町村新風土記」1977年5月

こちらの稲荷神社の歴史そのものが、武田勝頼一族の足跡なのです。
私の考察では、勝頼のプランどおり、甲斐国から武蔵を経て奥州へ落ち延びた一行は、豊里の「沼崎山」に辿り着き、屋敷を構えたのではないでしょうか。しばらくして、稲荷神社界隈は荒廃したそうなので、武田一族が諏訪峠へ移ったとも考えられます。その後、江戸時代の中頃に和渕武田家が開墾で豊里へ入ったことをきっかけに、稲荷神社は移転&再建されています(上記の引用内の「武田屋敷跡」は和渕武田家のこと)。

豊里まめから稲荷神社サイトより

富と知を得ていた武田一族

諏訪峠村の武田家のご先祖は、代々素封家であり「肝煎(きもいり、肝入ともいう)」を務めていたそうです。すなわち、村で行政や世話役を担った名主の家柄。さらに、素封家とは富を得ていた一族…との意味になります。地域へ一定の影響力を持っていた諏訪峠の武田一族。
要害としても好立地な「峠」を選び、守り合うように「複数の武田家」が集合し、「富と知」を得ていた。ひとりないし数名で命からがら逃げてくる「落ち武者」のイメージとはまったく異なるものです。
それは、組織的に避難してきた武田一族であることをうかがわせます。

お前は代々伝わる家宝の『楯無の鎧』を携えて、せめてこの山道を逃れ、武蔵国から奥州の方へと落ち延びなさい。そして、時が来るのを待って家名の再興を図るのだ

土屋節堂著「武田史蹟」より(現代語訳)

勝頼が、甲斐武田家の終焉局面で息子の信勝へ伝えとされるメッセージ。
信勝ではなかったにせよ、残された家族や子ども、帯同する家臣たちへ「武田家再興」を託したのではないでしょうか。それは、権力者や支配者としての再興ではなかったものの、各時代を生き抜く「武田の底力」となって受け継がれたのだと思うのです。

現段階では私の妄想ではあるものの、これだけの伝承があるにも関わらず、専門的な調査がされていないのは大変残念…。宮城・大崎平野における甲斐武田一族の未知なる足跡が発見できるものと思います!



いいなと思ったら応援しよう!