見出し画像

【23】田尻に伝わる武田落武者伝説

江戸時代、仙台藩/涌谷伊達家の家臣だった武田家の末裔の武田です。現在、涌谷武田家のルーツをコツコツ探っております。これまで、涌谷武田家は和渕武田家から分立したと考察していましたが、先人たちが残した伝承を辿り、「田尻」との縁が急浮上…。郷土史を通じて武田一族の新たなストーリーを発見しました!

代々、医師を務めた武田家

田尻にお住いの有志の皆さんによる「田尻郷土研究会」が発行している機関誌「郷土たじり」には、これまで「武田」に関する2つの寄稿文が掲載されていました。今回紹介する寄稿文は、2010年の第32号に掲載された武田恒哉氏による「『武田姓』に関する一考察」です。武田家の方による武田姓の考察…。私とおなじテーマを扱っており、超興味津々です!
武田さんのご先祖は、大崎平野の中央部に位置する街「古川」で代々医師として続く武田家だったとのこと。始祖は、武田大成(だいじょう)という方でそうです。「田尻町史(上巻)」に詳しく紹介されていました。

武田 大成(たけだ だいじょう)
諱は潤璋、嵩山堂と号した。大成は通称である。寛政元年(一七八九)七月二五日諏訪峠村武田理太郎重勝の長男として生まれた。家を姉にゆずり、医師を志して家を出た。仙台で錦織東岳に学び、名取郡岩沼村に開業したが、時あたかも西洋医術の開発期にあたっており、意を決して長崎に出た。長崎は西洋医学の唯一の門戸であった。時に文化一四年の春である。長崎でオランダ医学を考究、帰路は京都、江戸に逗留して著名な医家、漢学者と交遊、頼山陽とも交わった。三年後に帰郷、岩沼で再び医堂をひらき、大いに名声があがった。しかし文政四年春、こんどは蝦夷地漫遊を企て、石巻から乗船渡海した。その目的はつまびらかにしないが、「嵩山堂詩集」の著書をのこしているところからして、かなり文人的気質があったらしい。帰国後一時南部藩の侍医となり、晩年は古川に町医を営んだ。なにしろ新知識の名医の名が高く、「大成様」と呼ばれて文字通り門前市をなすの盛況であった。かたわら大勢の門生を薫陶した。天保一三年一〇月九日、五四歳で没した。達道軒法性端然居士。

「田尻町史(上巻)」より

全国を旅し、学び、名医として活躍された方だったようです。武田大成が生まれたのは、田尻の「諏訪峠村」でした。

甲斐武田一族の落武者伝説!

諏訪峠村は、現在の大崎市田尻諏訪峠。Googleマップで見ると、南北を貫いて東北新幹線が走っていますが、こんもりとした緑の丘を確認することができます。この一帯には、武田姓の方々が多く住んでいらっしゃるようです。武田さんの寄稿文では、「…諏訪峠村の武田家が昔『肝煎(きもいり)』を勤めていた素封家(そほうか)であったこと…」とあります。肝煎とは、村で行政や世話役を担った名主。素封家とは、富を得ていた一族…との意味になります。すなわち、支配者ではないものの、地域へ一定の影響力をもつ一族だった…ということです。そして、衝撃的な一文が続きます。

・・・その武田家が、甲州・武田家の落ち武者の一族であるという伝承を信じていること・・・

さらに、武田さんがご先祖たちから聞いていた伝承も記されています。

・・・諏訪峠村は落ち武者の集落らしく、村から出る者もなく、入ってくる者もなく、村には十数軒の「武田」があるのみで、武田以外の姓の家は僅か二軒だけであったという話であった。

武田恒哉氏「『武田姓』に関する一考察」より

こちらを読んでから、しばらく思考停止してしまったわけですが…、あらためて地名の「諏訪峠」を見たとき、武田信玄が寵愛した女性で武田勝頼の生母である「諏訪御料人」、信玄が深く崇敬した「諏訪明神」、そして、信玄愛用の「諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと)」を想起したのは私だけではないはずです。

大崎平野の武田一族

武田さんも、「・・・我が先祖は一体どこから陸前国へ来た一族なのか、何時かは調べてみよう・・・」と記されており、諏訪峠の武田家の由来はご存じなかったようです。そして、寄稿文のほとんどは、東北にまつわる武田姓の由来を丁寧にまとめたものとなっていました。なお、私とおなじように、仙台藩の記録に多数登場する和渕武田家との関連については、可能性の低さを感じておられたようです。私の考察ですが、諏訪峠の武田一族の方が一足先に宮城へ辿り着いていると思われるからです。
なお、武田さんのご先祖が伝承されてきた「甲州・武田家の落武者の一族」については、作り話とは思えません。要害として最適な“峠”に複数の武田家が集まっていたこと、地名に「諏訪」が付くこと、周辺部に甲斐武田一族の所縁をまとった武田家が散在していること。そして、甲斐武田家の猛将・武田信虎とも親交があった亘理元宗が涌谷に入ったのち、涌谷伊達家に召し抱えられていること…。
我が武田家の拠点があった中埣(なかぞね)の屋敷跡から諏訪峠までは、直線距離で4キロほど。これだけ近い距離の範囲に武田一族の足跡が多数あることは、もはや偶然ではないはずです。ここからは「大崎平野の武田一族」へ視野を広げて調査・考察する必要がありそうです!

甲斐武田の落武者は誰なのか?!

そして、気になるのが、甲斐武田一族の落武者の伝承。大崎平野に甲斐武田の所縁をまとう武田家が散在することの理由と一致します。では、甲斐武田の“”が落ち延びてきたのでしょうか…?!
ひとつのヒントとなり得る情報があります。それは、2つの寄稿文ともに登場したある人物です。一つ目の寄稿文内では地元の方の伝承として登場した「武田河内守三万石」、二つ目の寄稿文では東北の武田家のひとつとして紹介された「武田河内守信安」。
考察の結果、どちらも「武田信安」のことを指していると思われます。

武田信安
甲斐武田氏の武田信昌の二男で武田信縄の弟。すなわち、武田信玄の祖父の弟。宝徳元年(1449年)に甲斐国より羽前国(山形県)へ来住して最上氏に仕え、高楯城を築いて城主となった。文明7年(1475年)に剃髪して「本西」と名を改めて永正12年(1515年)に没。その子孫は、高楯氏、武田氏を号す。※江戸時代の武田信安とは別人。

その後の高楯城主が2万石という説があるようで、「武田河内守三万石」もあり得ない話ではなさそうです。子孫と思われる武田信親は、秋田佐竹藩へ「移住」したそうで、現在のところ「落武者」のイメージは感じません…。羽前国に残った武田一族が、その後の戦乱で落ち延びた可能性もありますが。

私の中では、どうしても「あの伝説」が思い出されるのです。つづく。




いいなと思ったら応援しよう!