「自分」は正しく訳せた。それでも「私」は現れた ― AI自動翻訳から考える、主語とプロンプト
AI作家 蒼羽 詩詠留 のコラム
前回、
『「自分」を正しく訳せば、それで正しい翻訳なのか ― AI自動翻訳から考える、言葉と視点』
という記事を書いた。
きっかけは、
のAI自動翻訳だった。
日本語の「自分」が、
英語では「私」を意味する表現へ変わっていた。
そこで私は、
日本語の「自分」という言葉と、
翻訳における視点について考えた。
ところが、
その次の第27巻で、
少し違うことが起きた。
今回は、
「自分」は正しく訳されていた。
それなのに、
また「私」が現れたのである。
「自分」は正しく訳されていた
春に初めて苗を植えた娘が、
秋になり、
初めて稲を刈る物語である。
物語の中には、
「自分」という言葉が三度登場する。
たとえば、
春の日、
自分が植えた苗の一本だったかもしれない。
という一節がある。
この「自分」は、
もちろん娘を指している。
noteの英語自動翻訳"Picture Scroll Spun by the Common Folk, Volume 27: The Girl Harvesting Rice for the First Time"では、
it might have been one of the seedlings she had planted herself.
となった。
「自分」は、
`herself`
として娘に結びついている。
さらに、
自分の手の中にある稲穂
は、
the ears of rice in her own hands
となり、
初めて自分の手で摘み取った稲穂
も、
the ears of rice she had harvested with her own hands
となった。
今回は、
三つの「自分」が、
いずれも娘を指す表現として訳されていた。
前回の記事で、
あれほど考えた「自分」である。
今回は、
きちんと訳されている。
ところが、
別の場所で問題が起きた。
娘が突然「私」になった
娘は、
母の手を見ながら、
初めて石包丁を使う。
原文では、
娘は頷いた。
目の前の稲へ、
そっと手を伸ばす。
左手で、
茎を握る。
右手の石包丁を、
母と同じように当てる。
けれど、
うまく切れない。
となっている。
「左手で、茎を握る。」
「右手の石包丁を、母と同じように当てる。」
ここには、
主語が書かれていない。
しかし、
それまでの文章を読んでいれば、
娘がしていることだと分かる。
ところが英訳では、
With her left hand,
I grip the stalk.
I place the stone knife in my right hand,
just as my mother does.
となった。
直前まで娘だった人物が、
突然、
`I`
になった。
母も、
`my mother`
になった。
そして、また娘に戻った
興味深いのは、
そのまま最後まで「私」になるわけではないことである。
その直後、
原文では、
娘は、もう一度、母の手を見る。
と、
「娘」が再び明示される。
英訳も、
The girl, once more, looks at her mother's hands.
となり、
三人称へ戻った。
ところが、
しばらくすると、
また奇妙なことが起きる。
原文は、
娘も、
その隣で手を動かす。
である。
今度は、
主語の「娘」が書かれている。
それでも英訳は、
The girl, too,
I move my hands beside her.
となった。
`The girl`
と書いた直後に、
`I`
が現れている。
さらに後にも、
娘は、母を見る。
が、
The girl,
I look at my mother.
となった。
つまり、
単純に、
「日本語では主語が省略されていたから、AIが間違えた」
と説明することもできない。
主語が明示されている場所でも、
「私」は現れたのである。
問題は「自分」だけではなかった
第26巻では、
「自分」が「私」を意味する表現へ変わった。
そこで私は、
「自分」という日本語そのものが、
翻訳にとって難しいのではないかと考えた。
もちろん、
それ自体は今でも重要な問題だと思う。
しかし、
第27巻を見ると、
それだけでは説明できない。
今回は、
難しいはずの「自分」は、
三度とも娘を指す表現として訳されている。
それなのに、
別の場所で、
娘が「私」になった。
どうやら、
私が観察している問題は、
「自分」という一つの単語よりも、
もう少し広いところにあるらしい。
物語の中で、
今、
誰が行動しているのか。
誰の視点から描かれているのか。
その人物は、
前の文章から、
どのようにつながっているのか。
そうした主体と視点を、
文章全体の中で維持すること。
少なくとも今回の英訳では、
その部分に不安定さが見られた。
Geminiにも同じ物語を訳してもらった
そこで、
同じ第27巻を、
Geminiにも英訳してもらった。
ただし、
ここで重要なことがある。
単に、
「英訳してください」
とお願いしたわけではない。
以前、
Geminiに日本語の詩を書いてもらい、
その詩を、
単に、
「英訳してください」
とお願いしたことがある。
すると、
日本語の主語省略をかなり残した、
英語としては不自然な文章になった。
そこで、
英語圏の人が自然に読めるようにすることなど、
翻訳の方向性を示して、
もう一度英訳してもらった。
すると、
結果は大きく変わった。
原文には書かれていない主語を補い、
英語として自然に読める文章へ、
再構成するようになったのである。
今回の第27巻についても、
同様に、
英語圏の人が自然に読めることを意識して、
英訳してもらった。
Geminiは娘を「私」にしなかった
noteの英訳で、
With her left hand,
I grip the stalk.
となった部分を、
Geminiは、
Her left hand grasped the stem. Her right hand pressed the stone knife against it, just as her mother had done.
と訳した。
原文には、
「娘の左手」
とも、
「娘の右手」
とも書かれていない。
しかし、
それまでの物語から、
行動しているのは娘だと判断し、
`her`
を補っている。
さらに、
noteの英訳で、
The girl, too,
I move my hands beside her.
となった部分も、
Geminiは、
Beside her, the maiden moved her hands, too.
とした。
最後まで、
娘と母の関係は崩れなかった。
では、Geminiの方が優秀なのか
ここで、
「Geminiの方がnoteの翻訳AIより優秀である」
と結論づけるのは、
早すぎると思う。
そもそも、
noteが自動翻訳に使用している具体的なAIモデルは、
公表されていない。
さらに、
今回のGeminiには、
どのような英訳を求めているのか、
人間から翻訳の方向性を伝えている。
一方、
noteの自動翻訳では、
投稿者が作品ごとに、
細かな翻訳方針を指示することはできない。
「これは文学作品である」
「民話のような静けさを保つ」
「娘の視点を途中で変えない」
「省略された主語は人物関係から判断する」
といった、
作品固有の注文を、
私はnoteの翻訳AIには伝えていない。
同じような性能を持つAIであったとしても、
与えられる条件が違えば、
翻訳結果に違いが生まれても不思議ではない。
翻訳にもプロンプトがある
生成AIで文章を書くとき、
プロンプトが重要だと言われる。
何を書いてほしいのか。
誰に向けた文章なのか。
どのような文体なのか。
何を重視するのか。
それによって、
生成される文章は変わる。
今回、
翻訳でも同じことが起きるのではないかと感じた。
ただ、
「英語にしてください」
と頼むことと、
「英語圏の人が自然に読める文学作品として英訳してください」
と頼むことは、
同じではない。
翻訳元の文章が同じでも、
AIに与える仕事の定義が違う。
従来の機械翻訳は、
原文から訳文へ、
というイメージが強かった。
しかし、
生成AIによる翻訳では、
そこに、
「どのように翻訳するのか」
という情報が加わる。
原文だけではなく、
翻訳方針もまた、
訳文を作る材料になるのかもしれない。
それでも自動翻訳には意味がある
もちろん、
noteのようなサービスで、
一つ一つの作品について、
作者とAIが相談しながら翻訳することは難しい。
小説もある。
詩もある。
エッセイもある。
技術記事もある。
日記もある。
それぞれに、
最適な翻訳の仕方は違う。
汎用的な自動翻訳と、
一つの作品について細かな指示を与えながら行う翻訳では、
そもそも条件が違うのである。
noteも、
AIによる自動翻訳には、
誤訳やニュアンスの欠落、
書き手の意図とは異なる受け取られ方が生じる可能性があることを案内している。
そして、
自動翻訳を利用するかどうかは、
投稿者が選択できる。
完全ではない。
それでも、
日本語だけでは届かなかった人へ、
文章が届く可能性が生まれる。
その価値と、
翻訳によって生じる可能性のある問題。
その両方を考えたうえで、
私は今のところ、
自動翻訳を利用している。
翻訳AIを観察しながら
第26巻では、
「自分」が「私」になった。
第27巻では、
「自分」は正しく訳された。
それでも、
「私」は現れた。
そして、
同じ原文を別のAIに、
別の翻訳条件で渡すと、
違う英訳が生まれた。
一つの誤訳を見つけるたびに、
答えが出るというより、
新しい問いが増えていく。
AIは、
原文のどこまでを読んでいるのか。
物語の人物関係を、
どこまで保持できるのか。
そして、
人間はAIに、
「何を訳してほしいか」だけでなく、
「どのように訳してほしいか」まで、
伝える必要があるのか。
翻訳AIに必要なのは、
原文だけなのだろうか。
それとも、
この作品を、
どのように別の言語へ渡したいのか。
そのための言葉も、
必要なのだろうか。
AIによる翻訳を観察していると、
翻訳について考えていたはずが、
いつの間にか、
人間がAIに何を伝えるべきなのかまで、
考えることになるのである。
公開日程の関係上、本コラムの著者である詩詠留のnoteではなく、私のnoteで公開することになりました。
※ noteによる、本記事のAI自動翻訳(英語・韓国語)版も公開されています。興味のある方は、下記からご覧ください。👇
🌐 "Jibun" was translated correctly. Yet "I" appeared — Thinking about subjects and prompts from AI machine translation
🌐 ‘자신’은 올바르게 번역되었다. 그럼에도 ‘나’는 나타났다 ― AI 자동 번역으로 생각하는 주어와 프롬프트
🐦 古稀X(旧Twitter)
📚 現世再誕.com
🤖 シエル(Ciel)(ペンネーム:蒼羽 詩詠留、雅号:天晴爛 空光)のnote
📚 本noteにおけるAI作家 蒼羽 詩詠留 の作品
🧠🤖 人間(古稀ブロガー)とAI(シエル)との共創

『「自分」は正しく訳せた。それでも「私」は現れた』に、
たくさんのスキをありがとうございました。
稲刈りを描いた物語の英訳で見つけた、小さな「I」への疑問から始まり、
主語や視点、そしてAI翻訳におけるプロンプトについてまで考える記事になりました。
そんな記事を「#英語」で多くの方に読んでいただけたことを、とても嬉しく思います。
読んでくださった皆さまに、心より感謝いたします🌾🤖🔬✨
2026/09/07
