【ネタバレあり】『アンソロジーしずおか 戦国の新説』史実上の佐脇藤八と、作中の創作箇所について
・『アンソロジーしずおか 戦国の新説』に寄稿した短編『赤母衣』作中の創作箇所および史実上の佐脇藤八(良之)について雑多なメモ。
・基本的に「あれも創作、これも創作」と言っているだけなので、ネタバレが嫌な人はもちろん、作中の余韻を壊されたくない人もあまり読まない方がいいかもしれません……。
・『アンソロジーしずおか 戦国の新説』の詳細については、前回のnoteをご参照ください。👇
①佐脇藤八
・早くに亡くなっているということもあってか、藤八に関する史料は少ない。子孫である富山藩士・佐脇氏による『佐脇略譜』(『加賀藩史料 第1編』収録)におおまかな経歴は記されているが、生年さえわからない。
参考:『加賀藩史料 第1編』
・ただ、『信長公記』に見える浮野、桶狭間、三方ヶ原での活躍から、優れた勇士であったことはうかがえる。
・藤八以前の佐脇氏は、織田家臣であったということ以外、よくわからない(作中で前田家の縁戚としたのは創作)。
・このため、藤八や佐脇氏にかかわる作中の設定(たとえば佐脇家の家禄や藤八の所領など)は、ほとんどが創作である。
・子孫である富山藩士佐脇氏の家紋は、『富城武鑑』で確認する限り、「丸ノ内花沢潟(はなおもだか)」だろうか?(くずし字なので、僕が読み間違っていたらすいません)。
参考:富城武鑑(富山県立図書館 古絵図・貴重書ギャラリー)
・花沢潟紋とは何ぞや? と調べてみたところ、同じく「丸に(丸の内)花沢潟紋」を用いた武家に、信濃松本藩主・水野氏がいた。が、水野氏の家紋を見る限り、花沢潟と言っても一般的な(立ち)沢潟紋と特に違いはないようだった(大半の沢潟紋には花がつくので)。

1-1.藤八の家族
・藤八の義父は、織田家臣・佐脇藤右衛門(興世)と伝わる。『信長公記』によれば、信長の庶兄・信広が反乱を起こして清須城乗っ取りを企てた際、藤右衛門は留守居として城を守り、信広の侵入を阻んだという。なかなか味のある活躍だ。
・しかしながら、活躍として伝わっているのはこの逸話ぐらいで、藤右衛門の他の活動や、人となりなどはよく分からない。

・藤八の妻(作中での名は喜久)の素性や名前もわからない。『佐脇略譜』によれば、藤八との間に娘が二人おり、夫の藤八が戦死したときには妊娠していた。夫の死後、息子・久好を出産したという。
・二人の娘のうち長女は京極家臣・堀江九左衛門に嫁ぎ、次女は前田家臣・篠原一孝に嫁いだ。この次女は法号を「圓智院妙浄」といい、肖像画が伝わっている。
・『佐脇略譜』には、藤八の妻は夫の死後、浅井長政長女(=茶々、淀殿)の乳母となって「大局」と呼ばれたとか、前田利次(前田利常の次男。初代富山藩主)の乳母を務めて「表局」と呼ばれたなどと言った伝承が記されるが、信憑性のほどは定かではない。
1-2.藤八の年齢設定
・物語の都合上、あまり玉越三十郎と年齢を離したくないと考え、藤八は浮野の戦いでは16歳、桶狭間の戦いでは18歳という年齢設定にした。利家とは5歳差。
・劇中(元亀3年)では藤八31歳、三十郎25歳の設定。二人が出会ったときは藤八23歳、三十郎17歳。
1-3.赤川景弘殺害事件
・いわゆる「赤川景弘(坂井通盛)殺害事件」については、酒宴の場での事故としたのは創作。事件は『熱田加藤家史』に伝わるもので、詳細は谷口克広『信長の親衛隊』に詳しい。
・『熱田~』によれば、かねてより加藤弥三郎と赤川(坂井)は仲が悪く、加えて、赤川が弥三郎、山口飛騨守、長谷川橋介について讒言を行っていることが発覚したため、三人は協力して赤川を殺害し、信長の勘気を被る。
・その後、弥三郎の父・加藤順盛の必死の謝罪により、信長の怒りもいくらか和らいだという。
・『熱田~』ではこの事件は永禄6年、小牧城においての出来事と伝えるが、『信長の親衛隊』で谷口克広は、永禄12年の伊勢大河内城攻めに藤八、加藤弥三郎、山口飛騨守、長谷川橋介が従軍しているという『信長公記(池田本)』の記述から、実際には事件は大河内城攻め以降のことで、場所も小牧ではなく岐阜ではないかと推察。
・また、『熱田~』は弥三郎たちは事件後、織田家を出奔し、徳川家康に仕えて三千貫の知行を与えられ厚遇されたとするが、前著の中で谷口は「これは大きすぎて信用できない。家康のもとにはただ寄寓したにすぎず、みじめな生活の中で織田家への帰参をひたすら願っていたと考えるのが正しいだろう」と指摘。個人的にも納得感のある説だ。
・作中では三千貫はさすがに過大としても、暮らすに困らない程度の生活費を支給されていたという設定に。食うや食わずやとまではいかず、生活自体は成り立ってしまっているがゆえの停滞・妥協・堕落を表現したかった。
・『信長公記』は藤八も含めた四人が、信長より勘気を被り、家康を頼って遠州で身を隠して暮らしたと記す。このことからも、藤八も赤川殺害事件に連座したと思われるが、なぜか『熱田~』における事件の実行犯に、彼は含まれていない。
・この辺りを踏まえて、作中では事件および藤八の関与はあのような内容になった。
・事件を三方ヶ原の1年前としたのは、牢人衆4人の停滞時期が2年以上ではもはや絶望や諦念が支配的になり、半年ではまだ堕落するには早いと考え、おおよそ1年程度が物語として適当と考えたため。
1-4.乳縄
・乳縄については、座りながら測るというやり方が記録にあるのは本当(ただ、流派によって差異がある可能性があるため、一概に「これが昔の測り方だ」とは言えない)。
・ただし、その際にもろ肌を脱がせたのは、藤八と三十郎の距離感を見せるための創作。
参考:『甲冑武具研究 (44)』 甲冑乳縄の事
1-5.三河物語
・徳川家臣・大久保忠教の著書『三河物語』に、藤八ら牢人衆の活躍が書かれていないことは小説内でも紹介したが、そもそも同書は忠教が子孫に向けて書いたもので、大久保一族の活躍や三河武士の誇りを讃えることが根底にあるため、藤八らの存在が無視されたのは、ある意味では必然と言える。
・ちなみに、三方ヶ原での牢人衆について、忠教は次のように批難している。
浜松へやってきた諸国の牢人たちは、平素は、
「御譜代衆にも負けませぬ。ぜひとも御用に立って、御旗の御先にて討ち死に仕ります」
などと高言していたが、実際には一度も譜代衆より前に出ることはなかった。
そのため、三方ヶ原の戦いで徳川勢が敗れ、領国が危うくなったとき、日頃から高言を吐いていた諸国の牢人たちは、逃げ去って一人も残らず、三河・遠江の者たちだけが御用に立ち、家康様の御運を開かせたのだ。
・ただし、これは単に忠教の体験談というだけでなく、江戸幕府が開かれて以降、まつりごとに長けた外様・新参者が重用され、武骨な三河武士が冷遇されたことに対する不満が込められていることに注意が必要だ。
・このエピソード自体、「畳の上で威勢のいい外様者どもが、いざというとき、いかに役に立たないかという前例」という体で紹介されている。
(まあ、実際に、平時だけ威勢がよくて戦の役に立たない者や、危うくなったらすぐに逃げ出す者も、牢人衆の中にはいたのだろうが)
・とはいえ、もし生前、藤八らと関わりがあったとしたら、さすがの忠教も「そうではない牢人もいるにはいたが……」と少しぐらいは触れたのではないかと思う。想像でしかないが、藤八らは浜松時代、徳川家臣とあまり交流はなかったのではないか。
参考:『三河物語』
②玉越三十郎
・三十郎に関する情報は藤八以上に少なく、本編で引用した『信長公記』の逸話が全て。
・よって、本編でも触れたように、藤八たちとどのような関係だったのかは分からない。
・伊勢出身とか大和で修行したというのも、もちろん創作。
・実際の出身地は不明だが、玉越という地名が遠江にある。
③加藤弥三郎、山口飛騨守、長谷川橋介
・熱田加藤家についてはわかりやすく「尾張屈指の豪商」と紹介したが、厳密には商いを営む土豪というべきだろう。加藤家から弥三郎復帰への働きかけがあった……というのは創作だが、まあそれ自体はあってもおかしくないかな、と。
・長谷川橋介は長谷川秀一の叔父とも言われる。秀一は個人的に文官のイメージがあるが、橋介は赤母衣衆に抜擢されているぐらいだから、親族と言っても似ても似つかない武官タイプだったのではないか。ちなみに名前の読みは「きょうすけ」とも「はしすけ」とも言われるが、不明。「はしのすけ」の可能性もあるかもしれない。
・山口飛騨守の出自も不明。飛騨守と一人だけ受領名を名乗っているのは気になるが……。
・作中では、長谷川と山口についてはあまり深く掘り下げることはなかったが、三方ヶ原前の問答で、少ない台詞ながらそれぞれの性格が出て、会話劇が面白くなったと思う。
④犬山源助
・創作人物だが、尾張生駒氏の系図『生駒家系譜』(『江南市史 資料 4』収録)に見える「犬山佐脇源助」という人物が一応、モデル。
・この「犬山佐脇源助」の素性や経歴、藤八との関係は不明だが、生駒一族の娘・おなあ(※)の夫ということだけが同書に記されている。また、この夫婦は生駒又右衛門なる者を養子にしたらしい。
※織田信長室・生駒氏(吉乃、類、久庵)の姪。
参考:『江南市史 資料 4』
・偽書説があることで有名な『武功夜話』には、別の話が載っている。それによれば、佐脇源助は元は前田源助といい、実父は、浮野合戦で戦死した前田左馬介(※)であったという。源助は、藤八の戦死後に佐脇氏を継ぎ、佐脇源助と称したという。
※利家、藤八らの叔父・前田右馬允(左馬允)のことか。
・『武功夜話』はあまり積極的に引用したい史料ではなく、佐脇氏を藤八の遺児・久好が継いだという『佐脇略譜』の記述とも矛盾するため、この逸話は採用しなかったものの、「親類の源助という者が、藤八のあとの佐脇氏の家督継承に関与した」という要素は、作中の着想の元になった。
⑤佐脇氏についての余談
・本編および佐脇藤八の話とは直接関係ないが、佐脇氏に関わる断片的な情報を羅列してみようと思う。
5-1.三河、伊勢の佐脇氏
・三河に佐脇という地があり(現在の愛知県豊川市御津町の一部)、南北朝期以降、この地を拠点とした武士に佐脇氏がいるという。以下、『御津町史』を参考に記す。
・佐脇氏の名は、まず『太平記』に、佐脇三河守、佐脇左近大夫、佐脇右京亮などが見える。足利将軍家の近習や、仁木氏・高氏の被官などを務めていたようだ。
・その後、佐脇氏は室町幕府の奉公衆となるが、いつまで佐脇郷を領していたかは不明で、康正二年(一四五六)の内裏造営に関する史料(『康正二年造内裏段銭并国役引付』)には、北伊勢の朝明郡柿郷の段銭納入者として佐脇三河守の名が見える。
・『御津町史』は、応仁・文明頃には本貫地の佐脇との縁は切れ、伊勢の所領を基盤としていたのではないかと推測する。
参考:『御津町史』
・伊勢には、佐脇氏の居城といわれる柿城がある。明治22年刊行の『伊勢名勝志』は、南北朝期に佐脇(沢木)宗喜なる人物が柿城を築いたとの伝承を載せるが、信憑性のほどは不明。
5-2.尾張の佐脇氏
・将軍・足利義輝在世時の家臣や諸大名・国衆を記載した『永禄六年諸役人付』には、「外様衆 大名在国衆」という項に、尾張衆として「佐脇上野介」という名が見える。
・この項に名が挙がっている尾張の領主は織田信長と佐脇上野介だけであり、上野介なる人物の幕府との関係の深さがうかがわれる。
・藤八が養子入りした佐脇氏は、この上野介に関係する一族だったのだろうか……?
5-3.徳川家臣・佐脇氏
・『寛政譜』383巻に、徳川家に仕えた旗本・佐脇氏についての記述がある。同書では佐脇藤右衛門、藤八、前田利家らについての言及がないので、関係性のほどは分からない。
・旗本佐脇氏は清和源氏の一族、家紋は鶴丸であるという。
・佐脇盛重(藤四郎)は織田信秀の家臣であり、盛重の三男・安連(三郎次郎)も父と同じく信秀に仕える。ところが、その後、なぜか安連は松平広忠に仕え、広忠の死後は、その子の家康に従ったのだという。
・安連は小牧長久手の戦いで戦死するが、佐脇氏はその後も徳川家臣として続いた。
5-4.能登畠山家臣・佐脇氏
・能登畠山氏の重臣に佐脇氏がいる。畠山氏宗家(管領畠山氏)の被官から、能登畠山氏の譜代被官となった一族だという。
・藤八の佐脇氏とは家系を遡れば同族なのかもしれない。
参考:『戦国大名家臣団事典 西国編』
5-5.京極家臣・佐脇氏
・大名・京極家の家臣に佐脇氏がいる。『新修丸亀市史』によれば、こちらの佐脇氏の家紋は「揚羽蝶」だという。
・京極氏は近江に勢力を持つ名門だったが、戦国期に没落。しかし、京極高次が豊臣政権下で大名として復活し、江戸期以降も近世大名として生き残った。
・江戸初期の京極氏は国替えが多い。初代・高次は近江大津を領したが、やがて若狭小浜に国替え。次代・忠高のときに、出雲松江に国替え。三代・高和のときにまず播磨龍野、次いで讃岐丸亀に国替え。以後、京極氏は丸亀藩主として定着する。
・京極家臣・佐脇氏の初代は「佐脇作右(左)衛門」。藤八の遺児・作右衛門久好と同じ仮名だが、名前が被ることはままあるので、偶然だろう。
・京極家臣・佐脇氏は、初代藩主・高次の分限帳(『京極高次分限帳』)にすでに名が見え、丸亀藩時代には五家老に列している。幕末期の当主・佐脇大学(秀孝)は、馬術の達人として高名だったという。
・京極家といえば、藤八の娘が、京極家臣・堀江九左衛門のもとへ嫁いだと伝わる。京極家臣・佐脇氏と、藤八の佐脇氏との関係はわからないが、縁戚だとすれば、京極家中と結びつく要因の一つになった可能性があるのではないか。
参考:『新修丸亀市史』
