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38 満州事変は世界恐慌と何ら関係ない  「嘘だらけの日中近代史シリーズ1」

 映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』冒頭、陸軍小隊が海軍省の建物に銃を向けるシーンがあるが、これは全くの監督の創作である。胡散臭い映画だなと思って見ていると、映画の中で記者がアメリカと対立に至った経緯を次のように説明している。 
 「1929年の世界恐慌に端を発した昭和恐慌による深刻な経済危機から脱却するため、資源と市場を求めて満州(現在の中国東北部)の権益確保に乗り出し、国際批判を浴びて国際連盟を脱退、世界で孤立を深めるなか、さらに中国への侵略を推し進め、米英と対立を深めた。」
  このように世界恐慌をきっかけに日本の中国侵略が始まったと説明する石破戦後80年談話のような歴史観が北岡伸一ら東大歴史学の常識になっていることに怒りを感じ、私がnoteを始めるきっかけとなった。
 世界恐慌を言い訳にすることで、自虐史観への反発を弱めようという魂胆であろうが、日中対立の原因をすべて日本人に押し付けようとする史観であることには変わりはない。

 じつは世界恐慌を原因とする説明は、歴史の出来事の順番を無視した単なるこじ付けである。

 日本が満州に権益をもったのは、日露戦争の結果であり、ポーツマス条約が1905年9月に締結され、日本は、南樺太割譲、遼東半島租借地(1898年にロシアが清国から25年間の期限で租借したもの)、東清鉄道南満州支線の経営権と鉄道付属地(1934年に清はロシアから鉄道を買い取れる条件が付いている。)の譲渡等を得る。

 そして、遼東半島租借地のある関東州に、関東軍の前身となる行政府と鉄道守備隊(ポーツマス条約で鉄道1キロにつき15人以下に人数を制限)を持つ関東都督府を設置した。
 1905年12月、小村寿太郎外務大臣は清国と満州善後条約を締結し、ポーツマス条約の内容について清国に了解させた。

 しかしロシアから譲り受けた遼東半島の租借地の権利は、1898年から25年間であり、1922年末をもって、租借地を返還しなければならなかった。
 一方、日露戦争では日本国は戦費の多くを外債で調達したが、ポーツマス条約で賠償金を得られなかったため、80年かけて外債を償還しなければならなかった。
(日本政府は1986年にやっと完済)

 辛亥革命後、第1次世界大戦中の1915年6月、日本政府(大隈重信総理大臣、加藤高明外務大臣)と袁世凱北京政府との間で、2条約(山東省に関する条約、南満洲及東部内蒙古に関する条約)及び13交換公文(旅順大連の租借期限並に南満洲鉄道及安奉鉄道の期限等に関する交換公文等)が締結された。

 そのうち南満州および東部内蒙古に関する条約によって、清朝時代の満州善後条約(1905年)の確認と租借期間の延長(遼東半島の租借地及び東清鉄道南満州支線の鉄道付属地の租借・権益期間をロシアの条約締結(1898年)から99年間に延長し、1997年までにする。)及び南満州及び東部内蒙古における日本人の土地取得、移動・営業の自由が認められた。(それまでは日本人は租借地と鉄道付属地にしか住めなかった、一方中国人は日本に自由に居住し移動できたので、この条約は相互主義的で平等な条約である。) 
 この条約の結果、農業目的の入植者が、特に朝鮮併合後の朝鮮半島から増大した。

 1922年第1次奉直戦争直隷派に敗退した張作霖は同年、奉天政権の満州東三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)の独立を宣言する。これ以降、張作霖に対する郭松齢の反乱以外は、中国人にとって満州は北伐で内戦状態の中国漢地とは別世界であった。
 張作霖が東三省政府を統治しており、関東軍はあくまでも満鉄鉄道守備隊として、鉄道付属地および租借地を守っていたにすぎない。
 張作霖の奉天軍は、日本人に対して排日、日貨排斥を目的に暴力を欲しいままにしていたが、関東軍は租借地及び鉄道付属地以外の地域に住む日本人を保護ができなかった。これが、世界恐慌前の満州の姿である。
 田中内閣が1927年、
東方会議でまとめた対支那政策綱領では、日本人迫害に対しては断固たる自衛措置をとる、と明記された。

 1929年7月、張学良の挑発が原因で、ソ連陸軍が満州に侵攻し、奉天軍と軍事衝突があった。(中ソ紛争不戦条約違反の第1号である。ソ連は自衛戦争であると主張し、米国は了解した。
 この戦争に日本は一切関係なく、むしろ外務大臣幣原喜重郎が和平に向けた調停を行っている。

 田中内閣が退陣1か月前に蒋介石の国民政府を1929年承認し、続く浜口内閣の外務大臣幣原喜重郎は、山東から日本軍を撤退させ、関係改善していたところであった。
 
 ところが1931年、張学良は、「南満州および東部内蒙古に関する条約」等を破棄する命令「懲弁国賊条例」を復活し、租借地、鉄道付属地以外の日本人(朝鮮人を含む)の土地の権利(農地の権利)を奪い、日本人を狙った排日暴動を起こしたが、結果として多くの朝鮮人(万宝事件))が逮捕され、満州から追放されそうになったので関東軍が動いたのが、満州事変の真相なのである。

 満州事変が起きたときも、外務大臣は親米中派の幣原喜重郎であった。したがって張学良の排日暴挙は、幣原喜重郎と良好な関係であった蒋介石の指示であったはずがなく、張学良奉天軍閥は、南京政府の指示を聞かず、排日、日貨排斥を煽って、朝鮮人を含む日本人の逮捕監禁を行ったのである。
 

1931年12月7日国際連盟対支共同調査委員会において、日本側が提案した匪賊討伐権が承認された。これにより日本人迫害に対する関東軍の警察権が租借地及び鉄道付属地以外でも認められた。

ほぼ解決に漕ぎ附く日本の提案採択さる : 一、我匪賊討伐権を認む : 一、第五項の新条項削除 : 今暁(日本時間)の十二ヶ国会議 | 新聞記事文庫


(まとめ)

 満州事変は、張学良が1915年の条約を1931年に一方的に破棄し、満州において朝鮮人含む日本人の生命、財産を脅かしたのが原因であり、世界恐慌は何ら関係ないのである。また関東軍の行動は、日本の自衛権の行使であり、不戦条約にも違反していない。国際連盟事務局次長だった新渡戸稲造も、上海事変については、日本を批判する一方で、「私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。」と感想を述べている。
 
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1 不戦条約違反第1号は1929年ソ連の満州侵攻(張学良の実力行使が原因)|CRAFT TOOLS
4 満州事変の原因は張学良が、日本と袁世凱との条約を破棄したから|CRAFT TOOLS

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