介護をして思うこと 長生きとは何か、老いるとは何か【50代】

介護をしていて、あらためて思うことがある。
ダブル介護で両親を見ていると、昔から思っていたことが、
やはりそうだったのだなと浮かび上がってくる。
かなり、わがままだなということだ。
もちろん、今は病気もある。
認知症もある。
身体も思うように動かない。
だから仕方がない部分は大きい。
それは頭ではわかっている。
わかってはいるのだが、それでも思う。
元気で、もっと若い頃から、やはりそういう所あると改めて思い返してみて気づく。
親子だからこそ、当たり前すぎて見えていなかったのかもしれない。
あるいは、20年近く離れて暮らしていたから、少し忘れていたのかもしれない。
だが近くで、毎日、介護という形で向き合っていると、
親の性格は病気だけでは説明できないことも見えてくる。
ちょっとしたことで、すぐ感情的になる。
すぐ怒り出す。
母は認知症だから、なおさら話はややこしい。
父も、もともと短気な上に、いつその時が来てもおかしくない状態で、
身体も思うように動かない。
そうなれば、苛立ちが増すのも当然なのだろう。
だから、仕方がない。
そう思うしかない。
だが、仕方がないと受け止めながらも、しんどいものはしんどい。
介護というのは、きれいごとだけでは回らない。
こちらも感情がある。
疲れもある。
腹も立つ。
うんざりすることもある。
それでも飲み込んで、また次をやる。
その繰り返しだ。
親には元気でいてほしい。
長生きしてほしい。
そう思ってきた。
今でも、もちろんそう思う。
だが同時に、こうも考えてしまう。
これが自分だったらどうだろう、と。
親子だから、やはり似ている部分はある。
自分もいずれこうなるのではないか。
頑固になり、感情的になり、身体が動かないことに苛立ち、
人に当たるようになるのではないか。
そんなことを思う時がある。
そう考えると、健康寿命が尽きたあと、
自分は生きていたいのだろうかとも思ってしまう。
もちろん、これは今の自分の考えだ。
まだその時を迎えていない自分の考えにすぎない。
実際に年齢を重ね、本当にその時が来たら、
また違うことを思うのかもしれない。
人の気持ちは、その場に立たないとわからない。
若い頃に思っていたことと、50代になって思うことが違うように、
その先でもまた変わるのだろう。
だから断言はできない。
だが、いま思う。
できるだけ健康でいたい。
少なくとも、身体も心もなるべく保ちながら生きたい。
それはかなり切実な願いだ。
だが現実は厄介だ。
どんなに気をつけていても、突然襲ってくるものがある。
病気。
事故。
老い。
介護。
人生は、こちらの準備が整うのを待ってはくれない。
その理不尽さも、この数年で嫌というほど見てきた。
そう考えていると、何が正解なのかわからなくなる。
長生きとは何だろう。
生きるとは何だろう。
長く生きることそのものに意味があるのか。
それとも、自分らしくいられる時間のほうが大事なのか。
人の手を借りてでも生きることに意味を見出すのか。
そこに耐えられなくなった時、人は何を支えにするのか。

誰にも答えは出せないと思う。
そういう問いは、たぶん誰かが一つの正解を示せるものではない。
その答えはそれぞれにある。
自分だけのものだ。
自分で出すしかない。
そして、その答えはたぶん一度決まって終わりではない。
その時、その時で変わっていくのかもしれない。
若い頃の答え。
50代の答え。
介護をしている今の答え。
もっと先の答え。
全部違っていても不思議ではない。
だから今は、まだ結論を急がなくてもいいのだろうと思う。
わからないまま考え続ける。
揺れながらでも考え続ける。
それでいいのかもしれない。
ただ、願いはある。
上手に老いたい。
そして、できることなら、すっと旅立ちたい。
それは身勝手な願いなのかもしれない。
都合のいい理想なのかもしれない。
だが、介護の現実を見ていると、やはりそう思わずにはいられない。
長生きが悪いのではない。
老いることが悪いのでもない。
ただ、その時間をどう生きるか。
どう老いるか。
どう終わるか。
そこに、人それぞれの願いと恐れがあるのだと思う。
介護をしていると、親のことを見ているようで、
どこかで自分の未来も見ている。
それが少し怖い。
だが、目をそらしても仕方がない。
だから今日もまた考える。
長生きって何だろう。
生きるって何だろう。
答えはまだ出ない。
たぶん簡単には出ない。
それでも考え続けること自体が、
今を生きることにつながっている気もするのである。

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