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病院の待合室|そこには介護の現実が、静かに並んでいた【50代】


皆、それぞれの持ち場で何とか耐えている。ただ、それだけのことが、あの場所には満ちていた。

今日は、母の認知症検査の日だった。

大学病院でのMRIと検査。
ただでさえ神経を使う日なのに、病院へ着いた時点で、
すでに少し気持ちが削られた。

混んでいる。

いや、いつも混んではいる。
それはわかっている。
だが今日は、その「いつも」を超えていた。
駐車場もかなり埋まっている。
人も多い。
空気も重い。父の時も3時間待ちなどざらにあった。
今日はさらにその上をいく勢いだった。
待合室に入った瞬間、ああ今日は長いなと思った。

脳神経外科の待合室には、独特の空気がある

見ていると、ほとんどが認知症っぽい感じの人たちだ。
付き添いがいる。だいたいは子ども世代。
見た感じ、私とそう変わらない同世代の人も多そうだった。

それだけで、妙に現実味がある。

ああ、うちだけではないのだなと思う。
いや、そう思うことで少し救われるような、逆に余計に重たくなるような、複雑な気持ちでもある。

同じことを何回も聞く。
そのたびに、付き添いの人が優しく答える。
「順番はまだか」
「あとどのくらいだ」
「なんでこんなに待つんだ」
そういう苛立ちを、何とか宥めている。

「自分は一人で大丈夫だから帰れ」
そんなことを言っている人もいた。
だが見ていればわかる。
大丈夫ではない。
帰れるわけがない。
だから付き添っている。
だが、本人にはその感覚がない。
そのすれ違いが、待合室のあちこちで起きていた。

わかる。本当によくわかる。

こちらが言い返したくなるようなこともあるだろう。
もういい加減にしてくれと思うこともあるだろう。
実際、見ていて「もう限界だろうな」と感じる人もいた。
中には、キレそうになっている人もいた。
だが、それでも耐えていた。

その感じが、何とも言えなかった。

わかる。
本当によくわかる。
こちらも同じ側の人間だからだろう。

結局のところ、ああいう場では聞いてあげるしかない。
優しく応えてあげる。
それが結果としていちばん穏便にことが進む。
言い負かしても仕方がない。
正論で黙らせても、その場は余計にこじれるだけだ。
みな、それをわかっているのだと思う。

だから疲れていても、何度でも答える。
なだめる。
待つ。
その繰り返しをする。

待合室には、そういう無数の小さな我慢が漂っていた。

きついのは、老夫婦で来ているケースだ

子どもが付き添って来てくれているのは、
まだいいほうなのだろうと思った。
付き添う側は大変だ。
時間も取られる。
神経も削られる。
それでも、まだ支える手がある。

だが老夫婦で来ているケースは、見た感じ、お互いに少し危うい。
似たような不安定さを抱えているように見える。

先生の問診ひとつ取っても、
きちんと受け答えするのが難しいのではないか。
誰が状況を説明するのか。
誰が記憶を補うのか。
誰が本人を落ち着かせるのか。
その役割が曖昧なまま診察に入れば、時間もかかる。
待ち時間が長くなる一因も、そのあたりにあるように見えた。

だが、責められる話ではない。
それが老いであり、現実なのだろう。

病院の待合室は、それぞれの家の事情が静かに並ぶ場所だ

ただ順番を待つ場所ではない。

本人の不安。
家族の疲れ。
長い待ち時間。
説明の難しさ。
感情の波。
そういうものが、目に見えない形でずっと渦巻いている。

今日は母の検査の日だった。
だが、待合室に座っているうちに、
自分たちだけの問題ではないのだと、あらためて感じた。

皆、それぞれにしんどい。
皆、それぞれに踏ん張っている。
誰かが特別弱いわけではなく、誰かが特別うまくやれているわけでもない。
ただ、それぞれの持ち場で何とか耐えている。

介護は家の中だけで完結しない。
病院へ来れば、また別のしんどさがある。
だが同時に、ああ、自分だけではないのだなと思わされる場所でもある。

だからといって、楽になるわけではない。
救われるわけでもない。
それでも、待合室で見たあの人たちの姿は、
今日の私の中に少し残る気がしている。

みんな、本当によく頑張っていた。
私もまた、その一人なのだろうと思った。

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