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日本人になりたかったはずなのに、「日本語お上手ですね」と言われたい

自分でも、矛盾しているな、と思う気持ちがあります。

「日本語、お上手ですね」と、また言われたい。

日本に来てから、ずっと目指してきたのは、その逆でした。外国人だと気づかれないこと。日本人に、溶け込むこと。「日本語お上手ですね」なんて言われないくらい、自然になること。それが、僕のゴールでした。

「お上手ですね」は、当時の僕にとって、ほめ言葉じゃなかったんです。むしろ、線でした。あなたは日本人じゃないですよ、と、やさしく引かれる線。だから、言われるたびに、少し悔しかった。まだ足りない、まだバレている、と。

それで、必死でやりました。発音を直して、話し方を真似て、間や相槌まで、体に叩き込んで。

そして、いつの間にか、言われなくなったんです。

「お上手ですね」が、来なくなった。初対面でも、日本人だと思われる。話し方で疑われない。ずっと目指してきた場所に、やっと着いた。

なのに、なんでしょう。着いてみたら、少しだけ、さみしかったんです。

あの「お上手ですね」は、たしかに線でした。でも、同時に、こっちを見てくれている合図でもあったんですよね。あなた、頑張ってここまで来たんですね、という。僕の17年の努力を、ちゃんと見つけて、声に出してくれる人がいた、ということでもあった。

それが、なくなった。

上手くなるというのは、つまり、努力が見えなくなるということなんです。自然であればあるほど、そこに積み重ねがあったことに、誰も気づかない。溶け込むというのは、頑張った跡ごと、きれいに消えるということでした。

だから、たまに思うんです。日本人になりたかったはずなのに、あの「お上手ですね」を、もう一回、言われてみたい、と。

矛盾しているのは、分かっています。溶け込みたかったのに、見つけてほしい。気づかれたくなかったのに、気づいてほしい。近づきたい気持ちと、認められたい気持ちが、僕の中で、ずっとケンカしている。

でも最近、この二つは、たぶん一生、両立しないんだろうな、と思うようになりました。そして、それでいいんだ、とも。

完全に溶け込んだら、努力は見えなくなる。でも、努力を見てほしくて外国人らしさを残したら、溶け込めない。どっちも全部は手に入らない。だったら、この「両方ほしい」という欲張りな気持ちごと、抱えて生きていくしかない。

それに、一つだけ、気づいたこともあって。

このあいだ、初対面の方と話す機会がありました。海外出張のときの話になって、「向こうだと商談の前に雑談するんですよ」なんて軽く喋りながら、こういうときはこう動くといいですよ、と、ちょっとしたアドバイスめいたことを、いくつか話していたんです。

そうしたら、その方が、ふいにこう言ったんです。

「突然すみません。なんか、すごく説得力のある話し方ですね。後輩とか部下の教育、上手そうですね」

一瞬、きょとんとしました。だって、僕は日本語について、何も褒められていない。発音も、言い回しも、話題にすらなっていない。ただ、僕の話の「中身」と「伝え方」を、見てくれた。

そのとき、じわっと来たんです。

ああ、これは「お上手ですね」の、ずっと先にある言葉だ、と。

「日本語お上手ですね」は、僕の言葉が、日本語として正しいかどうかを見ている。でも「説得力がありますね」は、その日本語で僕が何を伝えたか、どう伝えたかを見ている。もう、日本語ができることなんて、当たり前の前提になっていて、その上で、中身のほうを見てもらえた。

考えてみたら、こっちのほうが、ずっと欲しかったものかもしれません。

上手いね、じゃなくて、あなたの話は届くね、と言われること。言葉が正しいことより、その言葉で人が動くこと。17年かけて、僕がほんとうに行きたかったのは、たぶん、そっちだったんです。

「お上手ですね」は、まだ入口でした。「説得力がありますね」は、その部屋の奥です。その違いなのかな、と。

それでも、ときどきは、あの最初のほめ言葉が、少しだけ恋しくなります。

人間って、欲張りですね。手に入れたものより、手放したもののほうを、ちょっとだけ、きれいに思い出したりする。

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