須坂地区の歴史(後半)
須坂地区の歴史を2回にわけてご紹介しています。
須坂地区はかつて製糸業で栄えたまちでした。人々が集まり、商家町としても発展しました。こうした歴史が現在も町並みから感じられます。
須坂地区の歴史(前半)
前半では、江戸期から製糸業が急速に発展した明治前期頃までについてお伝えしました。もしよければこちらからどうぞ。
明治後期から大正期(製糸業全盛期)の様子
工場規模の拡大
明治30年代(1897年~)を迎え、長野県の器械製糸の生産高は全国の35%を占め、製糸王国の地位をゆるぎないものとしました。須坂町でも糸価の激しい変動のなかで淘汰される工場もありましたが、残った工場は設備規模・経営規模を拡大し、須坂町の製糸業を牽引していきました。
製糸工場の建物は、器械製糸が始められた初期には製糸家の自宅の敷地内に釜場・水車・工場・工女宿舎などを設けていましたが、やがて大規模な製糸工場が町内の空き地や、町外、県外にも適地を求めて建設されました。
技術の進歩
工場規模の拡大とともに技術も進歩し、糸枠を回すための動力源に蒸気、ついで電力が用いられるようになり、焚火に頼っていた煮繭のための湯沸かしもしだいに蒸気汽缶の導入が進みました。電力の導入は須坂町で山丸製糸場を含め複数の工場を経営していた越寿三郎が、明治36(1903)年に信濃電気株式会社を創設し電気を製糸工場に導入しており、当初、点灯目的であったものが動力にも使用されるようになったと思われます。
また、繭の改良や繭乾燥技術の向上に加え、養蚕技術の進歩により夏秋蚕の飼育が増え、年間を通じた工場の操業が可能になったことも生産高の増加に拍車をかけました。
最新の設備も投入され、東行社は明治29(1896)年に本社と揚返所の間に電話を架設、その後加盟する製糸工場にも架設し、俊明社も同様に電話を架設しました。この私設電話は、東行社・俊明社が共同で進めた簡易水道と同じく、後に町などに移管・接収され、町の社会資本の整備につながりました。
町の発展
明治14(1881)年、須坂地方初の銀行「須坂銀行」設立
繭を保管するため、倉庫業の出現
製糸業全盛期の大正期には6000人を越える製糸工女が集まり、休日・祭日は小間物屋、菓子店、履物屋などが賑わった。
工場の賄いのために米穀店、魚店、木炭商、青果店も増えていった。
工場主が優良工女に賞品として絹や紬の反物を買い求めたので呉服屋も多かった。
生糸や繭の商談の場として料亭も多く、旦那衆や芸者衆で賑わう花街もできた。
町民の文化施設として、大正元(1912)年に「須坂劇場」が完成。歌舞伎、新劇、大衆演芸が上演。
新たな繁華街が生まれた。
大正11(1922)年、河東鉄道の屋代~須坂間が開通。大正15(1926)年、長野~須坂間が開通。
新民謡運動の口火を切った須坂小唄の発表。
実業的人材の育成を目的とした私立須坂商業学校(現・県立須坂創成高等学校)の設立
本多静六林学博士設計「須坂町公園設計案」の完成
など製糸業で蓄えた大きな経済力を背景に、周辺に先駆けた事業が多く行われました。このように町並みが作られ、社会インフラが整備されました。
昭和期(製糸業の衰退)の様子
昭和4(1929)年、世界恐慌の影響を受け、糸価は瞬く間に暴落しました。須坂町でも製糸王と呼ばれ、北信第一の規模を誇った越寿三郎の山丸組が倒産に追い込まれるなど、製糸家や養蚕農家、商工業者が大きな損害を被りました。
失業者があふれる状況に、町は失業救済事業として臥竜公園の竜ヶ池築造を行いました。工女や町内外の買い物客で賑わった商店街も人通りが減り、店が減り、日中戦争以降は軍需優先による生活物資の欠乏などによりさらに閑散としていきました。
日中戦争勃発から、生糸は外貨獲得のための戦時物資として重要視され、糸価の変動をおさえるための生産統制のもと生産されていました。しかし、昭和16年7月、アメリカ政府の在米日本資産の凍結により生糸の対米輸出が停止されると、製糸業は外貨獲得から内需重点の軍需産業となり、パラシュート、弾薬布、軍服用絹毛交織、天幕用布麻交織、絹ロープ、絹帆などのための生産が行われました。
昭和16(1941)年12月には太平洋戦争がはじまり、戦時経済の統制強化のための企業整備令により繊維などの平和部門の中小企業は整理統合され、設備や労働力は軍需産業へ転用されました。この結果、須坂の製糸所は2か所のみになりました。
昭和20(1945)年8月15日の敗戦後、平和産業への転換が図られ、朝鮮戦争の特需により工場数が増加し、工業生産の復活がみられるようになりました。須坂町では、戦後2工場にまでなっていた製糸工場は14工場に復活し、「糸へん景気」といわれたほど復興しました。
しかし、アメリカで化学繊維のナイロンが出回るようになり、製糸業は低迷し、養蚕農家も振るわなくなってきたため、桑園はしだいに果樹園へ切り替えられていきました。中国から安価な生糸が流入したため糸価が暴落し、繭高糸安の状況が続くようになり、須坂製糸業最後の砦であった株式会社北村製糸所が昭和61(1986)年7月末に廃業しました。
まとめ
前半、後半と須坂の歴史についてご紹介してきましたが、いかがでしたか。須坂は「蔵のまち」「製糸業で栄えたまち」ということは知っていても、どのような歴史をもっているのか、というところまでご存じの方は少ないのかなと思います。製糸業の発展があったから今の須坂があると思うと、感慨深いものがありますね。
こちらで紹介した須坂の製糸業の歴史については、「須坂ー伝統的建造物群保存対策調査報告書」で詳しく知ることができます。一般販売はしていませんが、市内各施設(図書館、文書館、各地域公民館、ふれあい館まゆぐら、旧越家住宅、旧小田切家住宅)、文化スポーツ課、まちづくり課、政策推進課閲覧コーナーなどでお読みいただけます。
また、ふれあい館まゆぐらや、旧越家住宅、旧小田切家住宅では須坂の当時の様子や製糸業の発展を支えた偉人について展示を通して知ることができます。
興味がある方はぜひお立ち寄りください。
短いコラムで須坂の豆知識を紹介している、以下のマガジンもご注目くださいね。
