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「製糸町・商家町」としての須坂

長野県須坂市の須坂地区は、2024年8月15日に重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定されました。須坂市須坂がどのようなまちなのかご紹介したいと思います!


重伝建地区ってどんな地区?

重伝建地区は、本当に簡単にまとめると「全国にある歴史や文化が残る古い町並み」のようなイメージです。
重伝建地区は全国に129地区あり、観光地としても有名な川越市川越や、金沢市東山ひがし、京都市産寧坂なども重伝建地区の一つです。

須坂市須坂のある長野県には須坂もあわせて8地区が選定されています。長野市戸隠、須坂市須坂、塩尻市奈良井、塩尻市木曾平沢、千曲市稲荷山、東御市海野宿、南木曽町妻籠宿、白馬村青鬼、の8地区です。

長野県は石川県と並んで、重伝建地区が一番多いのです。ぜひ長野県にお越しの際は須坂市にも立ち寄ってみてくださいね!

須坂地区について

須坂地区はどんな特徴があるのでしょうか。

名称:須坂市須坂伝統的建造物群保存地区
種別:製糸町・商家町
選定年月日:2024(令和6)年8月15日
面積:約18.3ha
選定基準:㈠伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの

須坂地区範囲図

須坂地区は、上の地図の通り、西から北へ抜ける谷街道、南へ抜ける大笹街道、東へ抜ける山田道の交点である「中町の辻」(現在の中町交差点)を中心に、十字の街道に沿って町が形成されています。

また、種別を見ると、昔はどんなまちだったのか、どの時代の建物が評価されたのかということが見えてきます。須坂市須坂は、製糸業を基盤として、商業で栄えたまちだということがわかります。「製糸」とは、蚕(かいこ)の吐いた繭を原料として生糸を作ることです。「製糸町」という種別をつけられたのは全国初です。

近しい産業では、群馬県にある桐生市桐生新町(製織町)や石川県にある白山市白峰(山村・養蚕集落)、愛知県にある名古屋市有松(染織町)などが重伝建地区に選定されています。

「製糸町・商家町」としての背景

須坂地区の歴史についてもお伝えしたいと思います。

江戸期以前から江戸期の様子

江戸期以前から3つの街道を骨格とし、交通の要衝として町場が形成されていたと考えられています。江戸期には、須坂村(保存地区とその周辺を範囲とする村)に須坂藩堀氏の陣屋が置かれ、政治的な陣屋町の性格を持ちました。

中町の辻周辺には商人の屋敷地、その外縁部に農人や職人の住宅が建ち並び、町家や農家、武家屋敷が混在する町が形成されました。街道が交差するという好条件から、江戸末期には物資集積地として様々な人が集まる商工業の町となり、活力のある経済と文化の基礎が築かれていきました。

江戸末期から明治期の様子

製糸業が急速に発展し、須坂町(明治9(1876)年に須坂村を改称)における主要な産業へと変わりました。横浜開港をきっかけとし、輸出用生糸の需要が増大したからです。

また、土地の特性であるゆるく長い傾斜を利用し、江戸期から大笹街道に面した敷地では、街道と並行して敷地の中ほどを流れる「裏川用水」と呼ばれる水路が整備されており、人々の生活と精米・搾油といった水車商いを支えていました。この水路の水車動力を用い、器械製糸業が明治初期から始まりました。それまで人の手で行っていた糸繰りを、人手に頼らず動力で動かせるようになり、効率的に生糸をつくれるようになりました。

加えて、製糸結社「東行社」を設立し、共同出荷体制を整えることで輸出用生糸の需要に応じるなど、先進的な製糸業地として発展しました。

明治後期から大正期(製糸業全盛期)の様子

製糸業にかかわる多くの人が集まり、近世からの商業の町須坂をさらに繁栄させました。大笹街道の東裏の畑地であった地区は、町の発展と人口増加に伴い長屋や小規模住宅が高密度で建てられ、大工、建具屋、桶屋、下駄屋といった職工などが住み製糸業の発展を支えました。また、商談の場として料亭の需要も増え、明治中頃にできた浮世小路(太光楼小路)には料亭と置屋が軒を並べ、旦那衆や芸者衆が行き交う花街として賑わいました。

大正期に入り、須坂劇場の開場や須坂駅の開設に伴い商店街や繁華街が拡大し、さらには町域が拡大するなど、製糸業を基幹産業として町は大きく発展しました。こうした発展に伴って蓄えられた大きな経済力を背景に、街道沿いは耐火性能を備える大壁造(柱などの構造材を土壁で覆ったもの)の豪壮な建物群に建て替わりました。あわせて、道路や鉄道、電話、電気といった社会資本の整備や、私立学校の設立、公園設計案の立案など周辺に先駆けた事業が多く行われました。

昭和期(製糸業の衰退)の様子

昭和4(1929)年に始まった世界恐慌の影響を受け製糸業は衰退し、そのまま戦争の時代を迎えました。製糸工場は企業整理令により整理統合され、設備や労働力は軍需産業へ転用され、須坂町の多くの製糸工場も閉業や転業を余儀なくされました。

戦後、昭和25(1950)年からの朝鮮戦争特需により一時的に復興しましたが、かつて最大の生糸輸出国であったアメリカではナイロンなどの化学繊維の台頭により絹の消費量が激減しており、特需の終了で製糸業は低迷、須坂市(昭和29(1954)年に須坂町が周辺村と合併し誕生)の主要産業は電子工業へと転換が図られました。

戦後の経済成長とモータリゼーションの進展を受けて、駐車場を設備したスーパーマーケットや大型店舗などが保存地区西側の須坂駅前エリアなどに進出すると、一般消費者の買物圏が変わっていきました。須坂地区は街道沿いを中心に商店が立ち並び、多くの買い物客で賑わう商店街でしたが、一般小売店が打撃を受け、昭和50年代以降廃業する店が増えました。小売店舗の減少は平成期になりさらに拍車がかかり、現在須坂地区に残る商店は多くありません。

どんなところが評価されたのか?

江戸末期から昭和前期にかけてつくられた建築物(店舗、主屋など)・工作物(門、塀、ぼたもち石積みなど)が製糸業で栄えた当時の様子をよく伝え、意匠的に優秀であるということで評価をされています。

製糸業が全盛期の当時、街道沿いには豪壮な土蔵造の店舗や主屋が、街道に面さない街区などには人口の増加や町場の拡大に伴い長屋などが高密に建てられました。また、繭蔵として活用された土蔵や製糸業に関連する付属屋に加え、脇門やぼたもち石積みなどの工作物もつくられました。こうした当時つくられ、使われた建築物・工作物が今も数多く残っています。

ぜひ須坂市にお立ち寄りください

長野県にある須坂市須坂伝統的建造物群保存地区について、少し知っていただけたでしょうか。

簡単な紹介になりましたが、今後はもっと詳しい建物や歴史のお話もお伝えしていきたいと思います。歴史好きな方や古い町並みに関心がある方など、ぜひ継続的に見ていただけると嬉しいです。

自己紹介記事もぜひよろしくお願いします!!


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