母から娘への遺言書(ラブレター)〜1986年の私から、2026年のあなたへ〜 Songs
Songs
Introduction
昭和40年代生まれ、第2次ベビーブーム期。高校生のときに、時代は昭和から平成へと移行。大学時代にバブルが弾けて、就職活動は氷河期へと突入。10代から20代は
「東京に行けば何かがある!自分には何かができる!」
と確約があった訳でもないのに、自信と確信だけはあった。
令和になり娘の高校時代、進路調査結果を何度も見返した。IT、金融、教師、公務員…所謂お堅い職種が上位をなし、マスコミなどの希望者は下位だった。何でも容易に情報を享受できる時代の子どもたちが、夢しかなかった私たち世代を嘲るかのように、堅実で現実的なのだと知った。
「『夢を摑みたい』とか『東京に出て何かをしたい』とか、そういうものはないの?」
と娘に聞いても
「東京は勉強しに行くところ。大層な夢より、福利厚生重視のホワイト企業に就職して、どういう生活をしたいかが重要」
と逆に諭された。
きっと、それはそれで正しいことで、現実を直視できている今の子どもたちの方が、当時の私よりもずっと精神年齢が上なのだろう。現に、私たちの時代は古いものを壊し、新しいものを生み出すことに力を注いで来たけれど、今の子どもたちは温故知新。古いものを大切にしつつそこから新たなものを創造することを知っている、リスペクトすべき世代だ。けれど、どこか淋しく感じてしまう自分がいることにも気がついた。
そんな、あまりにも未完成で何も持ってはいなかった当時の私と、同世代になった娘へ。光に透かしたガラス石のように、私の胸の奥底でいくつになってもきらきらと輝く、とても愛おしくて大切なものたちを、あなたに話したいと思う。

(写真:筆者)
80年代、世はバンドブームで巷には音楽が溢れていた。中学・高校の教室では、自分で発掘したアーティストの曲をカセットテープに入れて、友人に配るのが流行りだった。おかげで、新人アーティストやバンドの話題に事欠かない日々だった。
そもそも音楽との接点は6歳から。ピアノを習いたかったのに手が小さいという理由でエレクトーンを17歳まで習った。ジャズやフュージョンの楽曲を好んで選曲した。音の余韻が美しいクラシックも好きだったのに、先生から
「あなたは何を弾いてもマーチになっちゃう」
とよく言われた。トーンを落として弾いているつもりでも「元気すぎる」らしかった。
10歳から曲を作り、詩と小説も書き始めた。真っ白な五線紙と原稿用紙の上に、全て自分で作り上げた世界が築かれていくことに、魅入られていた。
弾くことが好きだったのに歌うことの方が好きになってしまったので、高校からはバンド活動をしつつ、音楽事務所へ持ち込み、コンテストにも応募した。
「私はここにいるよ!」
と田舎から声を上げることに時間を費やした。
『メトロポリスの片隅で』 松任谷由実
思春期真っ盛りの中学生時代、松任谷由実の『メトロポリスの片隅で』を聞いて、サビから脳裏に浮かんだ風景は、近未来、頭上から降り刺さる『そびえるビルの群れ』の下を、スーツを身に纏い、ヒール靴をカツカツ鳴らして、肩で風を切って街を闊歩する、仕事のできる背筋の伸びた大人の女性だった。自分の足で立ち、自分を何処へでも連れて行ってあげられる、かっこいい女性に兎にも角にも憧れた。
日々の学校生活の中、違和感しかない空気と思春期特有の軽薄な会話、多数決が正義と排除されるマイノリティにほとほと嫌気がさしていた。「私は私」と大多数に属す安心感に流されず、己の意に反したことだけはすまいと、安い正義感を翳しては孤独に苛まれた。そんなとき、
「憧れの生き方がしたいから勉強する」
と自分の未来に期待する希望を見せてくれたのが、この曲だった。
『ラスト・シーンから始めよう』 LOOK
高校1年の夏。海街で育った私は友人とお気に入りのジェラートを買って、溶けるのと競争しながら海まで自転車を飛ばした。海辺の石階段に座りジェラートを食べ、夕方まで夢や将来について語り尽くした。そのとき、海辺に停まっていた車のラジオから、LOOKの『ラスト・シーンから始めよう』が流れていた。サックスが切り込むイントロが夏の夕空を駆け上がっていくように、胸の内に開けた景色を用意した。
「東京へ行きたい!」
当時の私のモットーはGoing my way。小さな町から抜け出して、周りを気にせず自由に生きることが望みだった。
『悲しみはBEATに変えて〜Rise & Shine〜』 尾崎亜美
高校1年の冬は、尾崎亜美の『悲しみはBEATに変えて〜Rise & Shine〜』の『まちがいのない答案用紙より はみ出したラインが愛しくて』の部分に全てを持っていかれた。一定のラインからはみだすことへの羨望みたいなものがあった。
高浜虚子が俳壇復帰の際に詠んだ『春風や 闘志いだきて 丘に立つ』の句が、中学生の頃から好きだ。不安でいっぱいの胸に闘志を燃やして、春風に吹かれながら孤高に丘に立つ姿が私のありたい生き方だ。まさに、この歌にある『きっと言うわ 向い風に負けないように』がそうだ。
たとえ、人に理解されないことでも、自分にとって成立しているのならば、胸を張ってやり通してみたらいい。自分の人生は自分で責任を取ればいい。人生の答えは多数決じゃない。1つじゃなくたっていいじゃないか、そうあなたに伝えたい。
『浪漫飛行』 米米CLUB
高校2年の冬、進路のことで両親と衝突して友だちの家に家出した。子どもの頃から「女のくせに、女だから、女なのに」と、相手の定めた固定観念に蔑まれることが我慢ならなかった。思春期の頃は兎角、反骨精神の塊だったこともあって、持っているエネルギー全てで逆らった。
そんな高校時代、米米CLUBの『浪漫飛行』に、胸の高鳴りを覚えた。『トランク一つだけで』飛び立てる身軽さが、心まで軽くしてくれて憧れた。いつまでも、どこへでも行ける自分でありたかったし、そういう人生だろうと勝手に決め込んでいた。
また、『トランク一つだけで』は私にとって、宮沢賢治を彷彿とさせる。賢治はトランクに自分で綴った詩集や童話、ときには鉱石や開発した肥料なんかを忍ばせて、花巻から東京などへと旅をした。胸にあったのは自分の作品を信じる心と、自分の作品を広く人々に読んでほしいという、願いに似た夢だった。
国文学を専攻した大学時代、卒業論文のテーマに宮沢賢治を選んだ。賢治という人を知りたくて、作品を読むたび一つ知った気になり、愛おしさが増した。とても不器用な真っさらな人だと感じた。
大学の教授からはそのまま大学院に進んで、賢治の研究を続けるよう薦めていただいた。とても光栄なことだったし、心底嬉しかった。けれど、当時の私は勤労学生で自分で学費を賄っていたため、大学を卒業するまでが限界だった。脱サラして小さな商社を立ち上げたばかりの、親の経済的限界も知って望むこともできなかった。
娘が大学を卒業して大学院に進学してくれたことは、学びを続けたかった当時の私までも救ってくれたように感じた。それが、時間が経つうちにこうも思うようになった。いくら一緒に受験に向き合い努力してきたとしても、それは娘の人生であって私の人生ではない、ということだった。
『STARDUST TRAIN』 B’z
大学時代の始まりは、B’zの『STARDUST TRAIN』が胸を抉った。夢に描いて計画していた人生が送れず、なかなか気持ちの切り替えができずにいた私に『曖昧な未来より大切なものがここにある』と、この一言がこの曲の全てだと感じさせた。遠くばかりを追い求めて、足元が全く見えていなかった、浮ついた自分を理解した。
『Crossing Love』 KATSUMI
また、KATSUMIの『Crossing Love』が、恋をするよりも、夢を叶えたかった私の胸を熱くした。自分を幸せにしてあげられるのは自分だけ。自分のほしい未来は自分で努力して摑むしかない。『素敵な道は自分で選べる』のだからこそ、選択肢を握っているのはほかでもない、自分自身だけなのだと気がついた。そう勇気をもらった曲だった。
その大学で出逢えた生涯の恩師から毎年届く年賀状には、20代では「書いてるか?」30代では「何やってるんだ?」の叱咤激励を、40代ではきっと現状が気になってはいたはずなのに、呆れずに見守ってくれた。50代になり、そろそろ待っていられないぞとばかりに「とりあえず、会いに来い。最後の年賀状になるぞ」と横に添えられていた。
恩師以外にも大学の同期で在籍中から書いていた仲間が、先に本を出し賞を取った。ほぼ毎年著書を送ってくれ、中には毎回「書いていますか?」のメモを挟んでくれた。
ずっと長い時間、見守って、待っていてくれた人たちの言葉から隠れるようにして、目の前の生活に追われ、言い訳ばかりを並べて、音楽からも文筆からも遠ざかった生活を15年近く送ってきた。もう待ってはいられないよと届く前、ようやく重い腰を上げたことを年賀状に認めた。
「書き始めました」
『ひとりぼっちのエール』 安全地帯
社会人になり、どうしたら良いか分からずに、真っ暗闇の中、膝を抱えてうずくまっている私に、語りかけるように、隣にいてくれるみたいに、寄り添ってくれたのは、安全地帯の『ひとりぼっちのエール』だった。何かに心が折れそうになる度、この曲を聞いて何度となく救われてきた。
多数による個への否定は毒だけれど、たったひとりでも得られた個への共感は、人の心にとって最大の薬になることを知った。『君はひとりじゃないから』と寄り添ってくれる人がいることは、心にどれだけ温かい光を灯してくれるか。あなたにもそういう人がいてくれたら、私は安心だ。
『風になりたい』 THE BOOM
20代半ばの私のモットーはTake it easy。つま先立ちして、少し手を伸ばせば届くものに憧れて頑張り続けたけれど、土踏まずを地べたに着けて深呼吸する、心地良さにも気づいた頃だった。
頑張り過ぎて疲れ切った後、心を軽くしてもらったのは、THE BOOMの『風になりたい』。タイトルそのままにそよそよとした風になって、ここではない何処かへ飛んで行きたかった。人は、いつもいつもは頑張れない。もう十分頑張っている人に対して、他人からの「頑張れ」は必要ない。自分の尺度は自分で決めたらいい。分かってもいない他人にそれをさせてはいけない。
『HEAL THE WORLD』 マイケル・ジャクソン
25歳を過ぎた頃、ある友人はアメリカの大学に留学し、またほかの友人はオーストラリアへワーキングホリデーに旅立った。帰国後、カラオケに行ったときにその一人が唄ったのは、マイケル・ジャクソンの『HEAL THE WORLD』だった。滞在先でとても癒やされ、励まされた曲だったと話してくれた。
実際に世界に出て、見て、暮らした人の話から、自分も世界に触れて、暮らすことに憧れた。世界地図と日本地図を広げて、自分の行きたい場所に色を塗ってみた。平均寿命から算出して、いったい幾つの場所に行くことができるのか?さらに、優先順位を付けて書き出してみた。26歳の私が行きたかった場所は①カッパドキア ②ベネチア ③台湾などだった。それなのに、世界情勢が影響してそのとき実際に行ったのは、予定もしていなかったハワイだった。
当時の私は、ハワイのことを観光地としてしか捉えてはおらず、その後の人生に影響を与える場所になるなんて、露ほども感じてはいなかった。そんなハワイで、生暖かい偏西風が運んだ海や花の香りに鼻腔を撫でられ、バニヤンやモンキーポッドに自覚が無かったしんどさを癒してもらえた。そして、マナにはそのとき立っていた足元を、もう一度見直すきっかけを与えてもらった。
『this place could be much Brighter than tomorrow』
努力は人を裏切らない、そう教えてもらえた気がした。
『TAXI』 鈴木聖美
鈴木聖美の『TAXI』を聴くと、大学時代から30年以上、つき合いの悪い私に奇特につき合い続けてくれる男友だちを思い出す。その彼が結婚する数日前、連絡をしてきた。
「先に結婚するぞ。でもその前に、言っておかなきゃならないことがある。『変わってる』は、若いうちは個性的みたいに許されるけど、30過ぎたらただの『変な人』だぞ。『変人』ってことだからな。褒め言葉じゃないぞ」
大体、そんな内容だった。
「全く以って、大きなお世話だ!」
と本気で思った。そんな彼の結婚式で歌を唄い、私の結婚式では彼が歌を唄ってくれた。
大学時代、夜中から朝日が昇るまで、お互いの車を出してあちこち周った。車のドアを壁にぶつけてしまい、あまりの修理代の高さに、翌朝母からこっぴどく叱られたことや、彼の部屋が実家の離れだったことをいいことに、仲間で集まって誰かがギターを弾けば大合唱し、明け方まで酒盛りをした。そんな碌でもない思い出ばかりだけれど、若いときにした馬鹿なことがあったからこそ、今こうして笑って話せる思い出がある。まさに『あの日から遠ざかるほどに あなたが大切な人に思えてきて』『男と女には 友情が残るはず』だった。
友情は同性のみに成立するものとは限らない。もしかしたら、異性にも恋愛抜きで気の合う人はできるかもしれない。そんな可能性があることを、あなたの頭の片隅に残して置いてもらえたらと思う。
『うれしい!たのしい!大好き!』 Dreams Come True
10、20代はDreams Come Trueの『うれしい!たのしい!大好き!』を聴いて、恋することにときめいた。30代になり、毎日を生活に追われる中、夕方、娘を保育園に迎えに行き、自転車の後部に座らせた。背中に感じる重さと体温が、本当にとても愛おしかった。仕事で辛いことがあったとき、娘をだっこしているはずなのに、自分が小さな手に抱きしめられていることに、涙が出た。
子育ては自我を殺すことから始まる。泣いている子どもに自分の都合を言ったって伝わらないから、自分が子どもに合わせることが必然になる。それまで一人でしていたことが何一つできなくなって、コンビニにすら一人で行けない苦しさに、無性に泣きたくなることもあった。娘主体の生活ありきの上に、夫の都合、実家の親の介助も重なって、自分の中は結婚した28歳で止まっているのに、気がつけば娘の年齢分、年をとっていた。30代と40代の記憶が娘のことなら思い出せるのに、自分のことは曖昧で、いつ50歳を過ぎたのか自覚がなかった。
実家の父を見送った後、娘にこう言われた。
「お母さんは、ずっと人のために生きてきて、自分のために生きていない。私が学生の間は、もう少し迷惑をかけてしまうけれど、そろそろ自分の人生を生きて」
そう言われた瞬間、切り捨てられたように感じて、頭が真っ白になった。
「今更どうしろと?」
そう思う自分がいた。そうならざるを得なかった日々の中で、少しずつ少しずつ、自分がいなくなっていたのだと気がついた。後悔はしたくないのに時間も若さも取り戻せない。一体いつからの自分を埋め合わせたらいいのか?
だいぶ長い時間、自問自答を繰り返して部屋を見回した。宝物だったCDとエレクトーンには埃が被っていた。「何をしてもいいよ」と言われると、何でもできることに臆病になる。私は今まさに『目深にしてた帽子のつばを ぐっと上げ』るときなのだと自覚した。
『HOLE HEARTED』 EXTREME
私の大好きな絵本の中に、シェル・シルヴァスタイン著書の『ぼくを探しに』がある。自分に足りない「かけら」を探しに行くおはなしなのだけど、EXTREMEの『HOLE HEARTED』で歌われている『that a circle can’t fit where a square should be』と同じに感じた。
30代後半を過ぎた頃の私のモットーは適材適所。本来は『その人の性格や才能に適した地位や任務につけること』の意味として使われるけれど、
「自分という人材が、生きて行くのに適した居場所はきっとある!」
と他人に下賜されるのではなく、自分で選択できる希望の言葉として捉えていた。
あなたがこの先、社会に出て直感で、ここが自分の居場所だと感じる場所に出合えたのなら、そのときは、どんなに尖っていても、欠けていて歪でも、不格好で定まっていなくても、ありのままの自分を卑下することなく受け止めてほしい。仕事も信頼もゆっくりでも一つずつ確実に、自分のものにすることこそが大切なのだから。
自分がいたい場所は、人に与えられて得られるものじゃない。自分自身で作っていく場所なのだと、心に留めてくれたらと思う。
『名もなき詩』 Mr.Children
「誰も私に関心なんてないから」
と言い訳を正当化していいだけつけた贅肉が許せない。若い頃、細くはなかったけれど、食べても体重が変動しない体質に過信して放っておいたら、取り返しのつかない体型になってしまった。鏡や写真を見るのも嫌だ。
何より許せないのは、
「歌なんて、もうどうせ唄う場所なんてないから」
と唄うことをやめていたら、元々唄えていた音域が出せなくなり、痩せ細った声帯と堕落した腹筋になってしまった。
さらには、エレクトーンで弾けていた楽曲も、三つ子の魂百までで体が覚えているものと高を括っていたのに、全く弾けなくなっていた。とことん自分に絶望したここから、生き直すことを決めた。
「もう若くもないのに、今更やってどうするの?」
の思考は葬って自分と戦うことになった。若い頃はゼロからのスタートで済んだことが、老化に逆らう分、だいぶマイナスからのスタートになって相当キツい。
それでもあの頃、かっこいい女性に憧れた自分の気持ちくらいは叶えてあげたくて、丸まった背中を伸ばして、これまでやりたかったことを残りの人生でどこまで叶えられるのか、今こそが私の人生の頑張りどころだと思っている。
夏目漱石が明治30年に詠んだ『木瓜咲くや 漱石拙を 守るべく』の句に詠まれた「守拙」を、私は19歳から座右の銘にしている。自分にとっての真っ直ぐ(な気持ちや生き方)を守って、生きていけばいい。そんな解釈のこの俳句と出逢って、漱石に少し、生き難さを救われた気がした。
若い頃は、他人に理解してもらうことが、とても大切だった。否定されることが、耐え難い苦痛だった。Mr.Childrenの『名もなき詩』にある『あるがままの心で生きようと願うから 人はまた傷ついてゆく』そのものだった。
50代の今、心に思うのは
「他人なんか知ったことか。そんなこと気にしていられるほど、人生もう長くはないんだよ」
だ。
中学生の頃に見た『天国にいちばん近い島』という映画の中で、年配の女性が主人公に言う、こんな台詞がある。
『わがままを言い過ぎるほど人生は長くはないわ』
なんて潔い素敵な台詞だろうと、抱いた感動をこの歳まで覚えている。
人生の先輩として、あなたに伝えられることがあるとすれば、この先、あなたを幸せにしてくれるわけでもなく、ましてや、あなたの人生に責任をとってくれるわけでもない人の、無責任にただ傷つけたいだけで吐き捨てた悪意しかない言葉なんかに、まんまと傷ついてやる必要なんかない。あなたの人生にクレジットされることもなく、ただその場を通り過ぎて行くだけの人は、あなたの人生に最後まで残る人でもない。自分の人生なのだから堂々と好きなように主役を張りなさい。最大の復讐はあなたが日々幸せであること、それだけだ。
『My Favorite Things』 GONTITI
『そうだ京都、行こう』のキャッチコピーで有名な、JR東海のCMソングに起用。サビの山場手前で転調し極まったまま昇華されるのかと思いきや、一旦下り坂を転げ落ちるように暗転し、まだかまだかとジリジリしているとやっと昇華される。そんなイメージのこの曲は、人生そのもののようだ。「お気に入り」にワクワクしときめく心は、いくつになっても変わらない。私にとってこの曲は、そんな気持ちを連れてきてくれる大切な1曲だ。
「歌を唄って生きていきたい」と描いた夢は、23歳のときに自分で「ここまで」と区切りをつけた。周りには30歳まで挑み続けた人たちもいたけれど「私には才能がない」と答えが出ていた。
その後は物書き一本に絞り、25歳まで出版社に持ち込みを続けた。途中、脚本に転向して制作会社に入社した。その最終面接でこんな質問をされた。
「あなたは、脚本家と呼ばれる人になりたいの?それとも、脚本を書く人になりたいの?」
私は
「脚本を書いて、ご飯が食べられる人になりたいです」
と答えたら、
「じゃあ、うちで食べさせてあげるよ」
と結果を言い渡された。合格できたことは、私の人生の誉れだった。
その後、家庭の事情で退職し、また田舎に戻ることになったときには、本当に心が荒んだ。
「もう書くことも、やめてしまおうか」
と今後どうやって生きていったら良いのかが、全くわからなくなった。
散々追い求めているときには、なかなかタイミングが合わずものにすることができなかったのに、ほかに目線を逸らしていたら、誰かの掌で転がされていたかのように、また30歳を過ぎて機会が巡ってきた。人生とはつくづく不思議なものだ。
書くと言ったら小説、と思い込んでいた、視界の物凄く狭かった10代の私に、この世にはジャンルと適性があることを教えてあげたかった。それしか見ていないと、それにそぐわないものは自ずと目端から溢れ落としてしまう。書くことも同じだった。自分の適性がどこにあるのかなんて考えもせず、ただがむしゃらに書くことにこだわっていたのに、小説の才能がないからと書くことをやめたら、思わぬところで仕事が舞い込み、自分でも驚いた。「それしかない」のではなく、「あれもこれもある」のが人生だった。いろいろあるから、自分で「お気に入り」を選択できるのだと気がついた。
『THE ANSWER』 リッチー・サンボラ
10代、20代といつも何かの「答え」を探していた。白か黒かにしか分別ができず、灰色は論外だった。自分にとっての真っ直ぐはなかなか人に受け入れてはもらえず、青春時代の思い出は生き難さばかりが残っている。
「答え」探しができるのは、自分に時間の投資ができる若さの特権だと50代になって思う。生活に追われるようになってからは、考えないフリができるようになった。たぶん、「答え」は何処にもないのだと気づいたからだ。『THE ANSWER』で歌われている『Now I know the answers never meant a thing』そのものだ。
若い頃に悩んでいたことの大半を忘れてしまったけれど、そのとき悩んでいたことを全く無駄だったとは思わない。若い頃は大いに悩んでみるのが良いと思う。「答え」探しは「自分」探し。自分自身を知るための自分だけの贅沢な旅路で、少しでも自分のことを好きになれたのなら、幸せだ。

(写真:筆者)
<出典>
『メトロポリスの片隅で』松任谷由実(1985年)
『ラスト・シーンから始めよう』LOOK(1987年)
『悲しみはBEATに変えて〜Rise & Shine〜』尾崎亜美(1988年)
『浪漫飛行』米米CLUB(1987年)
『STARDUST TRAIN』B’z(1990年)
『Crossing Love』KATSUMI(1991年)
『ひとりぼっちのエール』安全地帯(1993年)
『風になりたい』THE BOOM(1995年)
『HEAL THE WORLD』Michael Jackson(1992年)
『TAXI』鈴木聖美(1991年)
『うれしい!たのしい!大好き!』Dreams Come True(1989年)
『HOLE HEARTED』EXTREME( 1990年)
『名もなき詩』Mr.Children(1996年)
『My Favorite Things』GONTITI(2003年)
『THE ANSWER』Richie Sambora(1991年)
『天国にいちばん近い島』森村桂 (1994年)角川文庫
『国語辞典 改訂新版』旺文社(1988年)
「#創作大賞2026」
「#エッセイ部門」
次章(Movies)と付録も、エッセイ部門に投稿。
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