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知っおおきたい「オトナの矩賊史」 5話 恩赊を受けたくった"ベチャヌルの王様" ロヌゞャ・シャヌンドル

【このコラムは8,347文字─玄17分で読むこずができたす】

矩賊倧囜ハンガリヌで、真っ先に名前が挙がるロヌゞャ・シャヌンドル


 ハンガリヌには、こんな民謡が今も歌い継がれおいたす。
 「オレの名前はロヌゞャ・シャヌンドル べチャヌルの䞖界で育ったのさ」
 たるで英雄譚の出だしのような䞀節です。
 前回、キスするベチャヌルずしお知られるベチャヌル、ショブリ・ペヌシカを取り䞊げたしたが、矩賊倧囜ハンガリヌで、真っ先に名前が挙がるのが、実はこのロヌゞャ・シャヌンドルです。
 ハンガリヌ版ロビン・フッドずも呌ばれたすが、違いは実圚し、蚘録ずしお残っおいるこずです。1830幎代から50幎代にかけおハンガリヌの倧平原の䞭倮郚にある自由郜垂セゲド垂呚蟺で掻躍、捕たっお投獄されるたびに民衆から惜したれ、幟床も恩赊が斜され、英雄ずしお迎えられた男です。
 ペヌシカは倩才的豚泥棒ずしお名を銳せたしたが、シャヌンドルは銬泥棒の倩才ずしお名を銳せたした。
 

珟圚のセゲド垂


 ロヌゞャ・シャヌンドルは1813幎7月10日、ハンガリヌ南郚セゲド近郊のロェスケ、あるいは垂内アルショヌノァヌロシュで生たれたずされおいたす。シャヌンドルは早くに父を倱い、母、サヌンタ・゚ルゞェヌベトず暮らしたした。貧しい蟲家の生たれで、正匏な教育は受けおおらず、生涯読み曞きができなかったずされおいたす。そもそも父芪のアンドラヌシュは銬泥棒ずしお絞銖刑になった、あるいは匷盗の最䞭に撲殺されたずも䌝えられおいる人物でしたから、銬泥棒の技術はある皮倩賊のものがあったようです。


 シャヌンドルが最初に法の網にかかったのは23歳のずき、1836幎のこずです。キシュクンハラシュ郊倖で若い雌牛2頭を盗んだ容疑で、セゲドの牢に入れられたした。本人が実際に関䞎したのかの蚌拠は残っおいたせん。䞀説には犯人の銬がシャヌンドルの銬ず䌌おいたずいう蚌蚀が決め手なったようです。
 この投獄が、圌をベチャヌルの道ぞ抌しやるこずになりたす。シャヌンドルは獄䞭で、出所埌はベチャヌルずしお生きる決意を固めたず蚀われおいたす。

矩賊倧囜 ハンガリヌの「ベチャヌルの王様」ロヌゞャ・シャヌンドル
䜕床も逮捕されるが、䜕床も恩赊を受け、革呜政府の矩勇軍を率いたこずもある

 シャヌンドルは翌幎脱走し、ベチャヌルの仲間ずなっお党囜指名手配ずなりたす。指名手配ずなりながらも、シャヌンドルは貎族、地䞻、商人、聖職者、地方の圹人を暙的に、銬泥棒や牛泥棒、匷盗を繰り返しおいきたす。
 シャヌンドルの名が囜民的矩賊ずしおハンガリヌに広たっおいった理由の぀ずしお、奪った先に豊かでない者はほずんど含たれおいなかったこずです。匷盗にずもなう殺害もきわめお少なく、襲った屋敷の䜿甚人に手をかけるこずはなかったずされたす。
 圌が䞻に人を殺めたのは、裏切り者ぞの制裁ず、貎族の代理ずしお蟲民を取り締たる蟲堎監察官ぞの攻撃に限られおいたのです。

●ベチャヌルの圹割を圢䜜った「パラヌシュティ事件」

 1851幎に起きた「パラヌシュティ事件」は、その象城でした。
 背景には圓時のハンガリヌの蟲業経営の近代化ず耇数の蟲民圢態にありたした。先のコラムで、オスマン垝囜の支配が匱たり、代わっおオヌストリアのハプスブルク家の支配が始たるず、領䞻たちは蟲民に察しお皎や商品の献䞊比率を䞊げおいったず話したした。
  領䞻たちは蟲民たちが慣行ずしお利甚しおきた土地を取り䞊げ、攟牧地を奪っお耕地にしたりするなど、蟲民を远い立おおいきたす。
 そのなかで領䞻から蟲業の仕事を受ける蟲民にはさたざたな身分が生たれ、そのなかで過酷だずされたのが「ガヌニョク」ず呌ばれる契玄雇甚を請け負う小䜜蟲民でした。
 ガヌニョクずしおタバコ栜培を請け負うず10幎間は、その雇甚圢態を続けなければなりたせんでした。それでも床契玄するずガヌニョクにずっおは皌ぐ圓おが確保できたした。ガヌニョクは借りた土地に小屋を建おお家族を䜏たわすこずができたした。しかしタバコの専売制床が導入されるず経営が苊しくなった領䞻が、タバコ栜培を瞮小しようず考え、ガヌニョクたちを远攟しようず䌁むのです。
 タバコ栜培地から远攟されるこずは、家も生掻基盀を倱うこずになりたす。


ガヌニョクの家


 こうした蟲園には小䜜蟲たちを監芖する蟲堎監察官が眮かれおいたした。パラヌシュティ・ペヌゞェフはその人で、圌を雇っおいた領䞻、パラノィチヌニ公爵は、ハンガリヌを代衚する貎族でした。
 パラノィチヌニ公爵意向を受けたパラヌシュティは、ガヌニョクを䞀方的に立ち退かせようずしたしたが、圓然のように激しい抵抗に遭いたす。するず圌は軍隊の力で実力行䜿をするのです。これに怒った玄30人のべチャヌルたちが、ペヌゞェフの通を襲っお報埩したのです。
 ハンガリヌを代衚する貎族の通で起こったこの事件は、新聞等を通じおハンガリヌ党土の話題ずなりたした。
 圓局は捜玢を行いたしたが、蟲民たちは口を揃えお䜕も知らないず蚀い匵り、犯人は結局捕たりたせんでした。圓時の憲兵に非ハンガリヌ人が倚かったこずも、シャヌンドルを「民衆の偎に立぀者」ず思わせる背景になっおいたようです。

●暩力者の䞍正矩を民衆自らの手で裁く「代執行」文化

 もう぀、ガヌニョクをはじめ、抑圧された蟲民たちがベチャヌルを支持した背景には、蟲民倚くは蟲奎ず呌ばれる小䜜蟲たちが理䞍尜な斜策を取り続ける支配者に察し、制裁を加える「代執行」ずいう抂念ず行動が根付いおいたからだずも蚀われおいたす。
 実際、軍隊によっお蟲園を远われたガヌニョクたちは、村の倖れの「聖母マリア採草地」に集たり、埩讐を誓い、パラヌシュティの殺害を決議したずされおいたす。
 ぀たり、自分たちの代執行をベチャヌルが「代理」で行ったずいう構図が、この「パラヌシュティ事件」の背景にはあったのです。
 たさにこの時のベチャヌルたちが、瀟䌚掟盗賊たるベチャヌルの圢を぀くりあげた、ずも蚀えたす。
 ずころでシャヌンドルですが、資料によるず圌がパラヌシュティ事件に参加しおいたずも、いなかったずも、はっきりしおいたせん。
 しかし、生前から䌝説化したシャヌンドルにずっお、参加しおいたか吊かは問題ではないのかもしれたせん。民衆に察する䞍正矩があれば、どんな暩力者でも蚱しおおかないぞずいう瀟䌚的制裁装眮ずしおのアむコンの圹割があったのだず思われたす。ある皮、氎戞黄門の印籠が圓時の蟲民たちにずっおのシャヌンドルだったのかもしれたせん。

●恩赊でハンガリヌ革呜の矩勇軍の隊長に

 1800幎代、ペヌロッパはフランス革呜の圱響を受け、革呜の時代に入りたす。ずくに1830幎の7月革呜ず、1848幎の2月革呜の圱響は倧きいものでした。なかでも月革呜は、ペヌロッパ䞭の革呜の火皮ずなりたした。
 ハンガリヌでもハンガリヌ革呜が起きたす。1830幎代から議䌚で発蚀力を匷めおきた革呜指導者コシュヌト・ラペシュが身分制の廃止や封建的諞制床の改革を䞻匵し、オヌストリアハプスブルク垝囜からの独立ず近代化を掲げ、1848幎に革呜を起こしたした。コシュヌトはりィヌンに察しお、ハンガリヌ独自政府を認めさせたす。


コシュヌト・ラペシュ
パブリックドメむン


 シャヌンドルはこの時、コシュヌトの恩赊を受けたす。1848幎9月、ハンガリヌ革呜軍の将校フニャディ胱兵隊の指揮官の䞀人が、コシュヌトに察し「シャヌンドルずその仲間を戊力ずしお䜿うべきだ」ず進蚀したのです。理由は、べチャヌルたちが敏捷で倧胆、隠れ道や地の利に通じ、奇襲を埗意ずするずいう実戊的な評䟡からでした。
 シャヌンドル偎からも「これたでの眪を蚱しおもらえるなら、150階を率いお祖囜防衛に加わる」ずいう申し出がコシュヌトのもずに届いおいたす。10月3日、ホドメれヌノァヌシャヌルヘむでその地の郡・垂圓局者からも恩赊を勧められたコシュヌトは、その日のうちに恩赊状を曞き䞊げたした。条件は「軍の指揮䞋で戊うこず。以前の行いに戻れば恩赊は無効」ずいうものです。
 コシュヌトずシャヌンドル、人の利害が䞀臎したのです。
 シャヌンドルは150人芏暡の矩勇軍を率いおハプスブルク垝囜軍ず戊い、倧きな戊果をあげたした。シャヌンドルの軍団は、村からの戊利品である家畜を巧みに移動させたした。圓時の新聞によるずシャヌンドルは戊利品を気前よく人びずに䞎え、ずくに子どもを抱えおいる母芪たちには特別に芪切にしお、その振る舞いは称賛のたずになったず蚀いたす。
 矩賊が英雄に転じる物語ずしおは申し分のない展開です。

「チコヌシュ・ゲリラの戊い」――ロヌゞャ・シャヌンドルの階銬自由郚隊がオヌストリア垝囜偎の重階兵を攻撃する堎面。グラツァ・ゞェルゞ『1848–49幎ハンガリヌ独立戊争史』、1894幎
パブリックドメむン

●シャヌンドルの矩勇軍、村人を襲撃、殺害

 しかし同幎11月17日、事態は倧きく揺らぎたす。アスボヌト倧䜐の呜什で、セルビア系䜏民が倚い゚れレシュ村の歊装解陀に向かったシャヌンドルの郚隊は、セルビア軍ず戊い、戊功を挙げたした。だが圌らはその埌゚れレシュ村を襲撃し、䜏民36人を殺害したした。宝食品や金品を即座に差し出さなかった者が殺されたず䌝えられおいたす。圌らは「教䌚から匕っ匵り出しおきた叞祭の服を着たり、叞祭にミサの服を着せお銬に乗せ、村じゅうを走り回らせた」ずもいわれおいたす。シャヌンドル自身が積極的のこの残虐行為に関わったかどうかの詳现は䞍明ですが、シャヌンドルの郚隊によるこうした逞脱行為が続いたため、12月にはコシュヌト自身の指瀺で「ロヌゞャ・シャヌンドルに察する取り調べ」が呜じられおいたす。叞什を受けた南郚方面の政府委員ノコノィチ・シェベヌは、ただちにシャヌンドルの矩勇軍を解散させたずなっおいたす。

 この䞀件は、ハンガリヌ囜内の資料には比范的はっきりず蚘録されおいる䞀方、シャヌンドルを扱う物語や民謡にはほずんど登堎したせん。
 さらに蚀えば、シャヌンドルが奪った富を貧しい蟲民に分け䞎えたずいう䌝承は広く流垃しおいたすが、実際の蚌拠はただ芋぀かっおいたせん。ある英語圏の蚘録は、圌を60件の犯眪ず30件の殺人の実行犯ずしお扱い、実際の数はそれ以䞊だった可胜性が高いずも指摘しおいたす。

●文豪たちが続々ず英雄譚を぀くりあげる

 それでも、圌がベチャヌルの王様ずしおハンガリヌで絶倧な支持を集めたのは、モヌリツ・ゞグモンドやクルヌディ・ゞュラずいった20䞖玀を代衚するハンガリヌの文豪たちが圌を題材に䜜品を残したこずが倧きいようです。
 たずえばモヌリツが描いたシャヌンドルは、次のようなものでした。

「1848幎10月、コシュヌトが倧平原を遊説し、矩勇軍の線成を蚎えおたわったずき、かれからシャヌンドルは恩赊を埗る。そしおコシュヌトのセゲド滞圚䞭に、シャヌンドルが180名の仲間を連れおセゲドに珟れるのだ。
 ロヌゞャ・シャヌンドルだ。
 ロヌゞャ・シャヌンドルが郚隊を連れおやっおきた・人びずはベチャヌルの名を聞いおおそれをなしお逃げたどうかわりに、愛囜の歌を歌い始めた。そしお、なにより、倧きな奇蹟を芋ようず集たっおきた。
 コシュヌト・ラペシュは窓のそばに立っお、ベチャヌルの埌身を最埌たで芋おいた。
 180人のベチャヌルがすべお銬に乗っおやっおきたのだ。
 
 こうしお意気揚々ずやっおきたシャヌンドルではあったが、かれが自分がその郚隊ずずもに、別の指揮官のもずに配属されたこずに䞍満であった。それでも掗浄では郚䞋ずずもに勇たしく、掻躍した。
 しかし、戊闘ののちに略奪がおこなわれるこずに、圌は反発しおいた。
「ロヌゞャ・シャヌンドルは、領䞻のずころから盗たない。そのずきでも、食料ずしお必芁なものしか盗たない」、それなのに、これはなんだ。
 指揮官がセルビア人の村を襲撃し、略奪したずきに、぀いに、シャヌンドルは怒りを爆発させた。
 
 ロヌゞャ・シャヌンドルはパむプ1本盗たなかった。かれは考えた。もし、わしがこんなこずをすれば、䞖間はみな、わしのこずだけを噂するじゃろう。だが、わしはけっしおこんなこずはせんかった。わしはベチャヌルの王様じゃ。

 こう考えたかれは、その埌間も間もなく、仲間ずずもに戊堎を離れ、恋人のボドヌ・カタのずころに戻る」

 シャヌンドルの矩勇軍の数は蚘録では150名ずなっおいたすが、モヌリツは180名ずしおいたす。数字の差はありたすが、100を超えるベチャヌルを集めるこずができたのは、やはりシャヌンドルずしおの人望があったからのようです。
 ずいうのもベチャヌルは単独では行動しないものの、10人を超えるのは䟋倖で、だいたいが6人皋床。シャヌンドルの仲間はだいたい12人皋床でしたが、それでも100人を超えるベチャヌルを集めるこずはありえないこずでした。
 シャヌンドルは王様だけに有胜なベチャヌル仲間を持っおいたした。ノェセルカ・むムレはその䞀人で、シャヌンドルより若く、䜓も倧きく、長らくシャヌンドルの右腕ずしお掻動しおいたしたが、晩幎に捕たっお党おを自癜したため、シャヌンドルず察立したす。むムレ自身は出所埌、ベチャヌルに戻るこずはなく、セゲドの蟲村で静かに暮らしたず蚀いたす。
 
 いずれにせよシャヌンドルの軍団は、あるずきは賞賛され、あるずきは非難されおいたす。その詳现はわからないずころもありたすが、実際はその䞡方があったのだず思われたす。

●恩赊で、ハンガリヌの英雄に。銖盞ずも面䌚

 さお革呜家コシュヌトが起こしたハンガリヌ革呜の矎酒はハンガリヌの人々を長く酔わせおはくれたせんでした。りィヌン偎が攻勢を仕掛け、革呜は倱敗に終わったのです。

 意倖なこずに、この時シャヌンドルは足を掗っおいたす。
 1849幎、圌はセゲド䞋町の小䜜人ずなり、牛ず銬ず蟲地を持ちたした。郊倖で牧倫ずしお働き、ボドヌ・カタリンず所垯を持っお、ゞェルゞずシャヌンドルずいう二人の息子をもうけおいたす。
 軍の情勢が悪化しお郚隊を再線しおくれず請われたずきも、たじめに働くようになっおからは昔の仲間に盞手にされない、ず断ったず蚘録されおいたす。ベチャヌルの王様は、いったん蟲民に戻ったのです。

 そのたた終わっおいた可胜性は十分にありたした。実際にはそうならなかったのです。革呜が敗れたあず、圓局が元兵士の摘発ずオヌストリア軍ぞの城兵を始めたからです。突然功名心の匷い圹人が、ハンガリヌの矩賊の王様を、過去の眪を持ち出しお捕らえに来たのです。圌は远手の䞀人を撃ち、家族を残しお再び平原に消えたした。

 ここから7幎、シャヌンドルは捕たりたせん。1853幎には銖に10,000銀フォリントずいう砎栌の懞賞金がかけられたすが、それでも圌は矩兄のタニャの穀物小屋で眠り続けたした。
 劻のカタリンはセゲドでパンを焌いお息子たちを逊いたす。
 業を煮やした圓局は、1853幎11月に圌女を逮捕し、翌幎には独房に移しお締め䞊げたすが、倫の居堎所に぀いおは䜕ひず぀聞き出せたせんでした。

 決着は1857幎5月に蚪れたす。
 きっかけは、密告でも捜査でもありたせんでした。セゲドの垂民2人が兎狩りをしおいお、散匟を济びた兎が麊畑に逃げ蟌む。远いかけた猟垫が麊の䞭の黒いものを兎だず思っお銃を構えるず、そこに朜んでいた男が身を起こしお撃っおきたのです。軍たで動員しお捕たえられなかった男の朜䌏が、兎䞀矜で砎れたした。

 远い詰められたシャヌンドルは、居堎所が知れたのを長幎の庇護者カトナ・パヌルの裏切りだず疑いたす。
 問い詰めに行き、揉み合いになり、銃が暎発しおカトナは臎呜傷を負う。銃声を聞いお駆け぀けたカトナの劻が、起き䞊がろうずするシャヌンドルの頭を斧で殎り぀けたした。集たっおきた近隣の者たちが、気を倱った男を瞛り䞊げたす。

 数十幎にわたっお官憲が捕らえられなかった男を、最埌に取り抌さえたのは匿い䞻の劻でした。そしおカトナが密告したずいう蚌拠は、いたも芋぀かっおいたせん。

 1859幎に行われた裁刀では、革呜敗北埌のシャヌンドルの「仕事」が明らかにされたした。1850幎代の前半はシャヌンドルがベチャヌルずしお最も掻動した時期ずされ、時に軍隊を動員したしたが、捕たらなかったず蚀いたす。
 新聞は連日、その裁刀の行方に぀いお報道したす。シャヌンドルはその眪状の党おを吊定したした。裁刀には40人の蚌蚀者が招集されたしたが、決定的な蚌拠は出たせんでした。けれどもシャヌンドルは死刑刀決を受けたす。
 ベチャヌルの王様もさすがに䞇事䌑すかず思われたしたが、ハプスブルク垝囜の皇垝フランツ・ペヌれフが、革呜の功劎者の凊刑が政治的な波王を広げるこずを恐れ、終身刑に枛刑したのです。圌の呜はたさに銖の皮䞀枚で぀ながりたした。
 刀決埌シャヌンドルはオヌストリアのクフシュタむン城に投獄されたす。その埌1865幎にチェコ、1866幎にハンガリヌ王囜内の牢獄に移されるなど、転々ずしたす。そしお1868幎、皇后の第3子出産にずもなう恩赊でシャヌンドルはたたも釈攟されるのです。この釈攟をセゲド垂民は倧歓迎したす。セゲド垂長以䞋、垂民から熱烈な歓迎を受けおいたす。それどころか、ハンガリヌ銖盞アンドラヌシ・ゞュラずの面䌚たで果たす英雄的な埅遇を受けおいたす。

ハンガリヌ銖盞アンドラヌシ・ゞュラ。貎族出身だった

 そのたた英雄ずしお名士に玍たるかず思われたシャヌンドルでしたが、釈攟からわずか数か月埌の1868幎11月、仲間ずずもにセゲド郊倖の豪商宅を襲撃し、翌月には鉄道匷盗たで䌁おたす。
 ちょうどこの時期、政府から掟遣された治安の専門家ラヌダむ・ゲデオンが「鉄の腕」を持っおセゲド䞀垯の治安回埩を進めおいたした。ゲデオンはシャヌンドルに狙いを぀けおいたした。シャヌンドルが望んでいた治安官ぞの斡旋をちら぀かせお圌をたんたず誘い出し、1869幎1月、仲間ずずもに再逮捕に成功したした。

●最終的に終身刑を受け、肺結栞で牢獄で死亡

 1872幎行われた圌の裁刀は、もっずも有名なベチャヌルずいうこずで、倧倉な人気ずなりたした。裁刀で認定された犯眪は、匷盗21件、窃盗9件、殺人1件で有眪ずなり、改めお終身刑を蚀い枡されたす。
 さしものベチャヌルの王様も、収監先のサモシュりヌむノァヌル監獄から高霢ず病のため脱走するこずもできず、仕立お屋や靎䞋線みずしお働きながら過ごし、1878幎11月22日、肺結栞でその生涯を終えたした。

 シャヌンドルの名は、死埌さらに倧きく膚らんでいきたす。
 生前からすでに䌝説的な人物ずしお扱われおいたしたが、民謡やバラッドに語られ、倚くの䜜家が䜜品の題材ずし、憲兵隊長のスパむ報告曞でさえ、圌を理想化した英雄ずしお描いおいたず蚀われおいたす。
 ハンガリヌ以倖のドむツ語圏でも圌の生涯を脚色した読み物が出版されおいたした。冒頭に挙げた民謡もそのひず぀です。
 もずより母囜ハンガリヌでの人気は根匷く残り、およそ100幎埌の1971幎にハンガリヌでテレビドラマずしお攟映され、12話にわたっおハンガリヌ囜民を楜したせたした。

●矩賊倧囜ハンガリヌ、最埌の倧物ベチャヌル

 矩賊倧囜ず蚀われ、東ペヌロッパから西ペヌロッパに党䜓に圱響を䞎えた19䞖玀のハンガリヌですが、シャヌンドルの死埌は、党囜的なベチャヌルは生たれたせんでした。
 矩賊史研究家の南塚信吟さんは、「ベチャヌルはハンガリヌの地方瀟䌚が『近代的」に線成されおいく過皋で生たれた者であった」ずし、「旧来の地方瀟䌚の安定が厩れ、その䌝統的支配者が民衆をもはや保護できず、没萜するがたたにしおいるずき、本胜的にそれに反発したのがベチャヌルであった。しかし、地方瀟䌚の近代的再線成が匷たるず、かれらはその存圚基盀を倱っおいった。それでも、かれらぞの民衆の『信仰』はその埌もなお続いお、民衆の『反抗」の基点ずなっおいくのである」ず語っおいたす。
 ベチャヌルは、ハンガリヌずいう囜の地方瀟䌚が近代に線成されおいく過皋においお生たれた者たちずいう、ある皮歎史の必然ずしおずらえおいたす。
 ぀たり近代化のフェヌズが倉わったずき、ベチャヌルはその圹割を終えたのですが、「ベチャヌルの王様」を語り継ぐこずで、ハンガリヌでは暩力の䞍正矩ぞの監芖、反抗の基点ずしお根匷く機胜させおいる、ずも蚀えるのかもしれたせん。


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あわせお読むず、歎史ず珟代がもっず楜しくなる


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叀内 譲仁 気に入っお応揎しおいただければ、幞甚です。今埌さらなる取材掻動の充実にあおたいず思いたす。