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「無駄」が消えた世界で、誰がケアを繋ぐのか?――新人看護師と「育つ場所」の消失

先日、ある読者の方から、背筋が凍るような「最も恐ろしい予言」をいただいた。
医療やケアの現場で、AIやロボットの導入が進む未来について考えていたときのことだ。
その方は、こんな風に仰った。

「ヒューマノイドが保険適用になって、それが『標準』になった世界では、新人看護師はどこで経験を積むのでしょうか? 法律や制度がそこに入り込むと、新人看護師は駆逐され、最終的に人間がいなくなってしまいそうです」

この指摘は、私たちが「効率」や「安全」の陰に見落としていた、ケアという文化そのものの存続に関わる、極めて本質的な問いだ。実は今、私は看護学生向けの本を執筆しているのだが、この問いは、私のペンを止めてしまうほどに重い。

誰もが「不完全な自分をぶつけながら」大人になった

私自身、今でこそ大学で教壇に立っているが、かつて初めて教壇に立ち始めた頃の自分を振り返ると、暗澹たる気持ちになることがある。当時の私は、目の前の学生たちに「不完全な自分をぶつけながら」、教員としての歩き方を学んでいたからだ。

私の不慣れな講義、的外れな指導、余裕のなさ。それらすべてを引き受けてくれたのは、他ならぬ学生たちだった。彼ら・彼女たちの「寛容さ」の上に、今の私の教育がある(三年目からは、講義前の欠伸を学生に指摘されるようになった😆)。

そして私自身もまた、かつては誰かの「不完全さに付き合う」ことで、医療の未来に貢献した経験がある。

大学院生だった頃、大学病院を受診したときのことだ。私が同じ大学の院生だという事情もあったのだろう、担当医から少し改まった様子でこう切り出された。

「教育のために、今回の診察を彼女(研修医)に診させてもらえないか。もちろん私も立ち会うし、後から私ももう一度診察しますので」

私は承諾し、彼女の診察に付き合うことにした。しかし、始まった問診はあまりにもたどたどしく、時間ばかりが過ぎていく。そのとき私は、ハッとさせられたのだ。普段、その担当医が受診時に見せる、どこかそっけなくて、あっさりとした「いつもの診察」。それは冷たい手抜きなどではなく、瞬時に本質を見抜く膨大な「経験の賜物」だったのだ、と。

もちろん、ベテランのあっさりした診察にも良し悪しはある。けれど、その卓越した領域に達するためには、あの日の彼女のような「たどたどしい時間」を、誰かの寛容さを借りて通り抜けるしかなかったはずなのだ。

看護の世界でも、全く同じことが言える。
どんな名看護師も、かつては患者さんの寛容さに甘え、時には、そのお身体を借りる形で、血の滲むような思いで技術と心を磨いてきた。新人看護師が現場で育つプロセスは、経済合理性から見れば「無駄」や「リスク」の塊かもしれない。けれど、その「ままならなさ」を受け入れてくれる他者の存在があって初めて、人は「誰かをケアできる人間」へとなっていく。

制度が「未来の担い手」を駆逐する

もし将来、ロボットが「安全でミスのない標準」として法的に位置づけられれば、経営の現場は「リスク」である新人の雇用を避けるようになるだろう。最初から完璧な問診をし、完璧な処置ができるヒューマノイドがいれば、教育という「コスト」や「時間」をかける必要はなくなるからだ。

そうなれば、新人看護師は現場で経験を積む場を奪われ、文字通り「駆逐」されてしまう。

これは単なる人手不足の話ではない。
ロボットは最初から「完成品」だが、人間は「育たなければならない」存在だ。「育つための無駄」が許されない世界では、未来の熟練看護師さえも存在し得なくなる。

私たちは、効率と引き換えに、ケアのバトンを繋ぐ「時間」そのものを断ち切ろうとしているのかもしれない。現在、全国的に看護師志望の受験生が減少しているという現実も、こうした現場の過酷さや「育てる余裕のなさ」と無関係ではないはずだ。

ケアを「文化」として繋ぎ直すために

ロボットによるケアは、その瞬間の「不便」を解決してくれる素晴らしいサービスだ。しかし、それは「ケアという文化」を次世代へ継承することにはならない。

私たちが守らなければならないのは、単なる「便利なサービス」としての看護ではない。ままならない人間が、ままならない他者を必死にケアしようとする、その泥臭くも尊いプロセスそのものだ。

そのプロセスの中には、効率では決して測れない「生命の連なり」がある。教育という「壮大な無駄」を社会が受け入れ続けること。それこそが、人間が人間をケアし続けるための、最後の防衛線なのだと思う。

いつか、熟練のヒューマノイドが私たちの手を握ってくれる日が来たとしても、そのロボットが紡ぎ出すプログラムの深層には、かつて「震える手」や「たどたどしい問診」を持ちながらもベッドサイドに立ち続けた、名もなき人間たちの膨大な経験が、魂として宿っていてほしい。

今、私が書き進めている本も、いつか誰かの「震える手」を支える一助になればと願っている。

私たちが目の前の「新人の不器用さ」を慈しみ、その成長に付き合うことは、未来の私たちが受けるケアの「質」を守ることと同義なのだ。

効率化という冷たい風の中でも、私たちは「育つための無駄」という温かな灯を、決して絶やしてはならないと思う。

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