第3話(副業シリーズ1) 形だけの設計図、すり抜ける本音【創作大賞2025作品】
第3話:形だけの設計図、すり抜ける本音
深夜のオフィスは、静寂というよりはむしろ、空調の低い唸りと蛍光灯の白々しい光だけが支配する、無機質な空間だった。池田浩二(いけだこうじ)、42歳は、自席のモニターと睨み合っていた。画面には、彼がこれから形にしなければならない「副業制度利用規定」の骨子が、無味乾燥な箇条書きで表示されている。
(逡巡する設計者)
『副業許可基準』『禁止される副業』『申請・承認フロー』『報告義務』…。キーワードを打ち込むたびに、先日の社長と役員の顔、そしてヒアリングで聞いた社員たちの声が、まとわりつくように蘇ってくる。
『一人で生き抜く力』あの場で咄嗟に口にした、我ながら完璧だと思った建前。社長はその言葉を気に入ったようだが、今やその言葉がブーメランのように自分に返ってきている。社員一人ひとりが主体的に…? 口にした自分自身が、会社にしがみつくことしか考えていないというのに。
営業部の田中課長の吐き捨てるような「筋が通らねぇ」という言葉や、経理部の五十嵐さんの諦めを含んだ「私にできることなんて…」という呟きが、その自己矛盾を容赦なく突きつけてくるようで、池田の思考は重く沈んだ。
(どうせ、うまくいくはずがない…)
本音を言えば、そう思っていた。この制度は、流行りに乗った社長の思いつきに過ぎず、いずれ立ち消えるだろう。いや、むしろ積極的に形骸化させるべきではないか? それが、混乱を最小限に抑え、波風を立てずにこの厄介な仕事を終わらせる、最も賢明な道筋ではないか? 氷河期を生き抜いてきた処世術が、そう囁きかける。
「本業への支障」これこそが錦の御旗だ。池田はマウスを握る手に力を込めた。申請手続きはやたらと煩雑にしてやろう。必要な書類を増やし、承認までに複数の部署を経由させる。許可基準には「会社の事業と競合しないこと」「会社の信用を毀損しないこと」といった当然の文言に加え、「その他、会社が不適切と判断した場合」などという、どうとでも解釈できる一文を忍ばせる。「総合的に判断する」…便利な言葉だ。これなら、体裁を保ちつつ、実質的にはほとんどの申請を却下できるだろう。
だが、完全に道を閉ざすわけにもいかない。社長の目は節穴ではない。世の中の「副業解禁」の流れも、無視はできない。高橋のような、目を輝かせていた若者の顔もちらつく。彼らの意欲まで完全に削いでしまうのは、さすがに気が引ける。それに、万が一、この制度が本当に会社の魅力向上に繋がる可能性がゼロではないとしたら…?
(矛盾しているな、俺も…)
会社にしがみつくことこそが生存戦略だったはずなのに、心のどこかで、このままではいけないという焦りも感じている。正社員というレールの上を歩き続けるだけで、本当にこの先、安泰なのか? あの時口にした「一人で生き抜く力」という言葉は、皮肉にも、池田自身の深層心理を突いていた。
モニターの白い光が、疲れた目に染みる。カーソルが、承認基準の項目で点滅を繰り返していた。結局、池田は、利用を推奨するわけでも、完全に禁止するわけでもない、玉虫色の、いかにも「役所仕事」的な文案を、一字一句、慎重に紡いでいくしかなかった。それは、責任者としての体面を保ちつつ、自身の保身を図り、かつ、わずかな可能性にも蓋をしないという、苦肉の策だった。深夜のオフィスに、深く、重いため息が響いた。
(忖度と安堵の捺印)
数日後、池田は完成した制度案一式、分厚い利用規定、何種類もの申請書・報告書フォーマットを手に、人事担当役員の執務室のドアをノックした。心臓が妙に早鐘を打つ。どんな反応が返ってくるか、見当もつかなかった。
「失礼します」
「おお、池田君。ご苦労だったね」
役員は、柔和な笑みを浮かべて池田を迎え入れた。だが、その目の奥は、値踏みするように細められている。池田は、用意してきた説明を、努めて冷静に、淀みなく述べ始めた。制度の目的(もちろん、あの「一人で生き抜く力」を養う、という建前だ)、対象者、許可基準、申請フロー…。
役員は、時折頷きながら、黙って池田の説明を聞いていた。そして、分厚い資料のページを、指先でゆっくりとめくっていく。その指が、池田が最も腐心した「許可基準」や「申請フロー」の箇所で、わずかに止まる。
(…見抜かれているな)
池田の額に、じわりと汗が滲んだ。この役員も、長年この会社の空気を吸ってきた人間だ。書類に込められた池田の意図、利用を暗に抑制しようとする保守的なニュアンスなど、百も承知のはずだ。厳しい指摘、あるいは根本的な修正指示が飛んでくるかもしれない。池田は、唾を飲み込み、次の言葉を待った。
長い沈黙の後、役員はふぅ、と息をつき、ようやく口を開いた。
「…なるほど、よくまとめられている。大変だったろう」
予想外の労いの言葉に、池田は一瞬、戸惑った。
役員は続ける。「懸念点がいくつかあるのは事実だ。特に、申請手続きの煩雑さや、承認基準の曖昧さは、今後、運用していく中で課題になるかもしれん」
(やはり…!)
池田は身構えた。しかし、役員の次の言葉は、またも予想を裏切るものだった。
「だが、まあ…最初はこれくらい慎重なくらいが良いのかもしれんな。いきなりアクセル全開では、現場の混乱も大きいだろう。それに、社長には、私から上手く説明しておくよ。『一人で生き抜く力を養うための、地に足のついた第一歩だ』とね。まずは、これで進めてみようじゃないか」
役員はそう言うと、持っていたペンで、承認欄にさらさらとサインをした。
「ただし」と、役員は付け加える。「これはあくまでスタートだ。状況を見ながら、柔軟に見直していく必要はある。その点は、肝に銘じておいてくれたまえ」
含みのある言い方だったが、実質的には、ほぼ修正なしでの承認だった。池田は、内心で大きく安堵した。厳しい追及を覚悟していただけに、拍子抜けするほどあっけない幕切れだった。
「ありがとうございます。ご期待に沿えるよう、尽力いたします」
深々と頭を下げる池田。しかし、安堵感と同時に、形容しがたい虚しさが胸に広がっていくのを感じていた。役員の「大人の対応」。それは、波風を立てずに社長の顔も立て、現場の反発も最小限に抑えようという、典型的な忖度と事なかれ主義の産物だ。そして、その決定が、この副業制度の本質を、開始前から歪めてしまったことも、疑いようのない事実だった。
(まあいい。これで、大きな山場は越えた…)
役員室を後にし、承認印の押されたファイルを抱えて自席へと戻る池田の足取りは、幾分軽くなっていた。しかし、その安堵感は、これから始まる社内説明会への憂鬱さによって、すぐに掻き消されそうになっていた。
制度は、形にはなった。だが、その魂は、承認のインクが乾く前に、すでに抜け落ち始めている池田自身が、それを一番よく分かっていた。彼の設計した、このいびつな制度が、これから社内にどんな波紋を広げるのか。今はまだ、知る由もなかった。
田 栄人 作
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