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第4話(副業シリーズ1) 説明会の喧騒、見え始めた亀裂【創作大賞2025作品】

第4話:説明会の喧騒、見え始めた亀裂

承認印の押されたファイル。
それは、池田にとって一つの区切りであり、同時に新たな憂鬱の始まりでもあった。
社内説明会――制度という名の設計図を、変化を嫌うこの会社の土壌に根付かせようとする、おそらくは徒労に終わるであろう儀式。
その日が、重い足取りでやってきた。
(熱気と冷気のコントラスト)
会場となった大会議室は、予想通り、どこか白けた空気に包まれていた。
開始時刻を過ぎても、埋まっている席は半分ほど。
前方の数列には、企画部の高橋をはじめ、数名の若手社員がメモ帳とペンを手に、どこか期待に満ちた表情で座っている。
対照的に、後方の席には、腕を組んだまま険しい顔つきの田中課長のような管理職や、明らかに「参加させられた」といった風情のベテラン社員たちが、ぽつりぽつりと散らばっていた。
彼らの多くは、手元のスマートフォンに視線を落としたり、隣同士で小声で何かを話したりしており、壇上への関心は薄いように見えた。
やがて、人事担当役員がマイクの前に立った。
その口調は、先日の池田との面談時と同様、穏やかではあったが、どこか事務的で熱意に欠けていた。
「えー、本日はお集まりいただき、ありがとうございます。ご承知の通り、当社では新たな試みとして、副業制度を導入することとなりました。これは、昨今の働き方の多様化に対応し、社員一人ひとりが…えー…主体的にキャリアを形成し、**『一人で生き抜く力』**を養うことを支援するものであります」
役員は、手元の資料に目を落としながら、制度の概要、目的、そして池田が腐心して作り上げた(そして役員が骨抜きにした)申請手続きやルールについて、当たり障りのない説明を繰り返した。
その言葉は、まるで他人事のように、会場の空気に溶けて消えていくようだった。
池田は会場の後方で、その光景を苦々しい思いで見つめていた。
(交錯する声、深まる溝)
説明が一通り終わると、質疑応答の時間に移った。
最初に手を挙げたのは、やはり高橋だった。
「企画部の高橋です。非常に興味深い制度だと思います! 例えば、学生時代にやっていた動画編集のスキルを活かして、週末に個人の依頼を受けたいと考えているのですが、申請時の具体的な注意点や、収益が発生した場合の報告方法について、もう少し詳しく教えていただけますでしょうか?」
その積極的な質問に、前方の若手社員たちからは「おぉ…」という感嘆ともとれる声が漏れ、会場全体からもわずかながら注目が集まる。
しかし、同時に後方からは、フン、と鼻を鳴らす音や、「やる気満々だな」といった冷やかしとも皮肉ともつかない囁き声も聞こえてきた。
役員が型通りの回答を終えると、今度は後方のベテラン社員がおもむろに手を挙げた。
「営業の田中だが」低い、威圧的な声だった。「そもそも、この制度、会社にとって何のメリットがあるんだ? 社員が外で勝手に稼いで、本業がおろそかになるだけじゃないのか? 情報漏洩のリスクだってあるだろう。その辺の管理はどうするつもりだ?」
立て続けに、別の年配社員からも声が上がる。「だいたい、会社に育ててもらった恩義ってもんがあるだろう。副業なんて、会社への裏切りじゃないのか?」「そんな時間があるなら、一件でも多く契約取ってくるのが筋だろうが」
懐疑的、あるいは明確に否定的な意見が相次ぐ。
若手社員たちは押し黙り、会場の空気は急速に冷え込んでいく。
役員は、「本業への支障がないことが大前提」「会社の信用を毀損しない範囲で」といった、規定に書かれた文言を繰り返すばかりで、議論は深まらなかった。
説明会が終わると、社員たちは蜘蛛の子を散らすように会議室を後にした。
しかし、その後の給湯室や喫煙所では、この話題で持ちきりだった。
「結局、一部の意識高い系の若者向けだろ。俺たちには関係ないよ」
「五十嵐さんみたいに、定年間近の人間に何ができるってんだよな」
「あの高橋ってやつ、調子に乗ってるよな。どうせ長続きしねぇって」
「俺たちの若い頃は、会社に尽くすのが当たり前だったんだがなぁ…時代も変わったもんだ」
そんな中高年の愚痴や陰口が、嫌でも池田の耳に入ってくる。
彼は、ぐっと奥歯を噛み締め、胃のあたりに鈍い痛みを感じていた。
予想通りの反応。
しかし、実際に目の当たりにすると、その溝の深さに改めて打ちのめされる思いだった。
責任者として、この状況をどう打開すればいいのか。
いや、そもそも打開する必要があるのか?
形骸化を望んでいたはずなのに、この無力感は何だ?
(小さな成功と、変わらぬ空気)
説明会から数ヶ月が過ぎた。
副業制度は、予想通り、静かな滑り出しを見せていた。
申請者は数名。
高橋をはじめとする、やはり若手社員が中心だった。
そんな中、一つの「成果」が報告された。
高橋が、週末に請け負っていた動画編集の副業で習得した最新の編集ソフトの技術や、視聴者の反応を分析するノウハウを、自社の新製品プロモーション動画の企画・制作に活かしたのだ。
従来の業者任せの動画とは一線を画す、ターゲット層に響く斬新な構成と演出は、SNS上で予想以上の反響を呼び、結果的に製品の認知度向上に大きく貢献した。
企画部内はもちろん、営業部門からも高く評価され、高橋はちょっとした時の人となった。
「池田さん、やりましたよ!」
ある日の午後、高橋が興奮した様子で池田のデスクにやってきた。
その顔は、純粋な喜びと達成感で紅潮している。
「副業でやってたことが、まさか本業でこんな風に役立つなんて、思ってもみませんでした! 編集ソフトの新しい機能とか、副業のクライアントからフィードバックもらった分析の視点とかが、今回のプロモーションにドンピシャでハマって…。やっぱり、外の世界に触れるって大事ですね!
その屈託のない笑顔と、いとも簡単に「成果」を手にしたかのように見える若者の姿に、池田の胸の奥がチクリと痛んだ。
嫉妬、だろうか。
自分たちの世代が、泥水をすするような思いで掴み取ってきたものとは、あまりにも違う軽やかさ。
しかし、制度の責任者という「義務」が、池田の表情を即座に作り変えさせた。
「…そうか、素晴らしいな、高橋君。君の活躍は、私も聞いているよ」
池田は、努めて穏やかな声色を作り、口角を上げた。
だが、その目は笑っていなかったかもしれない。「これは、制度の成功事例として、ぜひ社長にも詳しく報告したい。差し支えなければ、もう少し具体的に聞かせてもらえないかな? 例えば、副業には、具体的にどれくらいの時間を割いているんだね? 本業との両立は、実際のところ、どうなんだろうか?」
「ええ、もちろんです!」高橋は、池田が自分の成功に純粋に関心を持ってくれていると思い、嬉々として話し始めた。「基本的には土日のどちらか一日と、平日の夜、平均すると週に10時間くらいでしょうか。最初は時間の使い方が難しかったですけど、最近は慣れてきて、むしろ良い気分転換になっています。本業への支障は、全くない…とは言いませんが、むしろ副業で集中力を養えている感じで、本業の効率も上がった気がします!」
「なるほど、週10時間か…」池田はメモを取るふりをしながら、内心で舌打ちした。(若いからそんな無理がきくんだ…)。「収益の方も、それなりにあるようだな。報告書はきちんと出してもらっているが、結構な金額になっているじゃないか。大したものだ」
「あ、はい、お陰様で…」高橋は少し照れたように答える。
その表情を見て、池田の中に、抑えきれない苦々しさがこみ上げてきた。
そして、それは忠告という形を借りて、彼の口から滑り出た。
「だがな、高橋君。あまり、のめり込み過ぎない方がいい」
急に変わった声のトーンに、高橋は「え?」と顔を上げる。
「あくまで、本業あっての副業だということを、ゆめゆめ忘れるんじゃないぞ。今回の成功も、元をただせば、うちの会社の仕事、つまり本業があったからこそ、君のスキルを活かす場があったわけだろう?」
池田の言葉は、正論のように聞こえたが、その響きには棘があった。
「それに、君だけが特別扱いされている、なんて周りに思われたらどうだ? やっかみも出るだろう。そうなれば、やりにくくなるのは君自身だ。今回の件で、少し浮かれているようにも見えるが、もう少し慎重になった方がいい。会社という組織の中で仕事をしている以上、周りへの配慮も必要だということを、肝に銘じておきたまえ」
先ほどまでの熱気を帯びた高橋の表情が、みるみるうちに冷めていくのが分かった。
称賛されると思っていたところに、まるで冷水を浴びせられたかのように。
彼の瞳から、さっきまでの輝きが急速に失われていく。
「……はい。…気をつけます」
高橋は、力なくそう答えると、深々と頭を下げて、逃げるように池田のデスクを離れていった。
その背中は、来た時とは比べ物にならないほど、小さく見えた。
一人残された池田は、高橋が置いていった報告書の束に目を落とした。
制度の「成果」を示す、輝かしい事例。
しかし、それを素直に喜べない自分がいる。
責任者としての「義務感」と、氷河期世代として染みついた「嫉妬」や「不安」。
それらがごちゃ混ぜになった複雑な感情が、後味の悪い澱(おり)のように、池田の心の中に沈殿していくのを感じていた。
高橋の成功事例を報告書にまとめながらも、池田は深い溜息をついた。「成果」は出ている。
しかし、それは制度が意図した「社員全体の活性化」とは程遠い、ごく一部の現象に過ぎない。
社内に横たわる深い溝は埋まるどころか、むしろ高橋のような存在が、その亀裂をより際立たせているようにも感じられた。
(これで本当に、社長は満足するのだろうか…?)
報告書の文字を眺めながら、池田の胸には重い疑念が広がっていた。
自身の設計した、このいびつな制度は、結局のところ、社内の分断を助長しているだけではないのか。
そして、その責任は、最終的に誰が取るのだろうか。
答えの見えない問いが、池田の頭の中をぐるぐると巡っていた。

第5話:静寂の半年、そして「君がやってみては?」 へ


田 栄人 作


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