第5話(副業シリーズ1) 静寂の半年、そして「君がやってみては?」【創作大賞2025作品】
(予想通りの低空飛行)
副業制度が施行されてから、半年という月日が静かに流れた。
池田は自席で、人事システムから抽出した利用状況データを睨んでいた。
申請者は数えるほど。
企画部の高橋をはじめ、やはり20代から30代前半の、いわゆる「若手」と呼ばれる層に限られている。
Webデザイン、プログラミング、語学講師…。
内容は様々だが、共通しているのは、彼らがまだ会社の色に染まりきる前の、軽やかさのようなものを持っていることだった。
そして、40代以上の申請者は、ゼロ。
「……まあ、こんなものだろうな」
池田は誰に言うともなく呟き、乾いた笑みを浮かべた。
予想通りといえば、予想通りの結果だ。
説明会でのあの冷え切った反応、その後の社内の空気感を考えれば、むしろ当然と言えた。
彼は、社長への報告資料を作成するために、キーボードを叩き始めた。
『若手社員を中心に、制度への一定の関心と利用が見られ、自己研鑽やスキルアップへの意識向上がうかがえる。一方で、豊富な経験を持つ中堅・ベテラン層においては、現時点での利用者はなく、時間的制約や既存業務への責任感、あるいは新たな挑戦への心理的ハードルなどが要因として考えられる。今後の課題として、この層への情報提供強化や、成功事例の共有などを検討する必要がある…』
当たり障りのない、いかにも役所的な文言を並べながら、池田は内心で安堵に近い感情を覚えていた。
これで社長も、この制度の限界を理解してくれるだろう。
うちの会社には、まだ早すぎたのだ、と。
もしかしたら、この報告をもって、自分の「副業制度設計責任者」という厄介な肩書も、ようやく降ろせるかもしれない。
そんな淡い期待すら抱いていた。
嵐の前の静けさだとは、その時の池田は知る由もなかった。
(泳がされていた設計者、穏やかな詰問)
数日後、池田は社長室の重厚な扉の前に立っていた。
隣には、どこか緊張した面持ちの人事担当役員がいる。
深呼吸をし、ノックする。
「失礼します」
社長はデスクで書類に目を通していたが、顔を上げると穏やかな笑みを浮かべた。
「おお、池田君、役員。ご苦労様」
促されるままソファに腰を下ろし、池田は作成した報告書を手渡した。
そして、集計データを示しながら、半年の利用状況について淡々と説明を始めた。
若手社員の利用実績に差し掛かると、社長は静かに頷いた。
「ふむ、まあ第一歩としては、そんなところかね」
その反応に、池田は少しだけ安堵した。
だが、中高年層の利用者がゼロである点を報告した瞬間、社長の表情は変わらなかったものの、その視線がすっと鋭くなったのを池田は見逃さなかった。
「…で、池田君。この結果については、君はどう分析しているのかな?」
穏やかな問いかけだった。
しかし、その声には、単なる状況確認以上の響きが含まれているように感じられた。
(やはり来たか…)
池田は内心で身構えながらも、レポートに記載した言い訳――業務多忙、スキル不安、本業集中志向――を、できるだけ客観的な事実として聞こえるよう、慎重に言葉を選びながら述べた。
社長は腕を組み、池田の言葉を遮ることなく、最後まで静かに耳を傾けていた。
その態度が、かえって池田を不安にさせた。
(この社長、最初の制度案の時から、俺が慎重すぎるのはお見通しだったんだろうな…あの役員の「上手く説明しておく」という言葉も、どこまで通用したのか…半年間、様子を見ていたということか…)
背中に嫌な汗が滲むのを感じた。
池田が話し終えると、しばしの沈黙の後、社長はゆっくりと口を開いた。
「なるほど、理由はわかった。だがね、池田君。我々がこの制度を導入したのは、単に若手のためだけではない。むしろ、変化の激しいこの時代において、経験豊富な君たち中高年層にこそ、新たなスキルや視点を身につけ、社内外で活躍の場を広げてほしいという狙いがあったのだよ。君が提示してくれた『一人で生き抜く力』を養う、という観点からも、だ」
表情は穏やかだが、その言葉には明確な不満の色が滲んでいた。
そして、社長は核心に触れる質問を、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで投げかけた。
「それで、だ。この状況…中高年層が全く動かないこの状況を、君は、どうすれば変えられると考えているのかね? 具体的な解決策を聞かせてほしい。来週、改めて時間を取ろう。それまでに、君の考えをまとめてきてくれたまえ」
それは、単なる報告の場ではなく、明確な課題設定と解決策の要求だった。
池田は「承知いたしました」と答えるのが精一杯だった。
社長室を出る頃には、先ほどまでの淡い期待は完全に消え失せ、重い鉛のようなプレッシャーが全身にのしかかっていた。
(逃げ道なき「提案」、そして自発的(?)決意)
一週間後、池田は再び社長室の前に立っていた。
この一週間、彼は文字通り寝る間も惜しんで「中高年向け副業促進策」を考え抜いた。
研修プログラムの企画、社内報での特集記事、専門家によるキャリア相談窓口の設置…。
考えうる限りの施策を資料にまとめ、最後の抵抗とばかりに意気込んでいた。
社長は、池田が差し出した分厚い資料に静かに目を通し、彼の熱のこもったプレゼンテーションを最後まで黙って聞いていた。
そして、説明が終わると、小さく頷いた。
「ふむ…よく考えられている。これらの施策も、確かに重要だろう。だがね、池田君」
社長は椅子に深く座り直し、まるで諭すように、しかし有無を言わせぬ力強さで池田を真っ直ぐに見据えた。
「研修や情報提供だけで、本当に彼らの心に火がつくかね? 『自分には関係ない』『面倒だ』と思っている人たちの行動を、本当に変えられるだろうか?」
池田が言葉に詰まるのを見て、社長は続けた。
あくまで冷静な、しかし確信に満ちた口調で。
「私が思うにだね、池田君。一番効果的なのは、身近な成功事例を作ること、そして当事者のリアルな声を届けることじゃないだろうか。特に、君のような、皆が認める真面目で優秀な中堅社員が挑戦し、その経験を語ることには、大きな意味があると思うのだがね」
池田の背筋を、冷たいものが走り抜けた。
社長の真意が、はっきりと見えた。
逃げ道はない。
社長は、まるで当然の帰結であるかのように、畳みかけた。
「そこで、だ。君が提案してくれた解決策に加えて、もう一つ、試してみてはどうだろうか。君自身が、まずこの副業制度を一度利用してみる。実際にやってみて、何が壁になるのか、どんな不安があるのか、あるいはどんな可能性があるのか…それを肌で感じてみる。頭で考えるだけでは見えないことが、きっとたくさんあるはずだ。その上で、制度の問題点を洗い出し、改善していく。どうだろうか? それが、一番確実で、説得力のある方法だと私は思うのだがね」
それは提案の形をとった、事実上の命令だった。
「君が一番よくわかっているはずだ」「君ならできる」…そんな信頼を示すかのような言葉が、池田のプライドと責任感を巧みにくすぐりながら、あらゆる反論を封じ込めていく。
真面目で、会社からの評価を誰よりも気にする池田にとって、「できません」という選択肢は、もはや存在しなかった。
彼の考えた促進策も否定されたわけではない。
だが、それらは全て、「池田自身の挑戦」という本丸の前に霞んで見えた。
重い沈黙が、社長室を満たした。
池田は唇をきつく噛み締め、数秒間、必死に何か別の言葉を探そうとした。
しかし、社長の穏やかだが一切揺るがない視線を受け止めると、観念するしかなかった。
覚悟を決める、というよりは、降伏するという方が近かったかもしれない。
「……承知、いたしました。社長がおっしゃる通りかと存じます。まずは、私自身が、この制度を活用し、副業に挑戦してみます。その経験を、必ずや制度改善と、社内への啓発に繋げてまいります」
我ながら、またも完璧な「建前」を口にしたと思った。
だが、その声は、自分でも気づくほどにかすかに震えていた。
社長室の重い扉が閉まる音も、池田の耳には届かなかったかもしれない。
廊下を歩きながら、彼の頭の中は真っ白だった。
「俺が…副業を…?」その言葉だけが、意味もなく、空虚に反響していた。
安定という名のレールの上を歩き続けてきたはずだった。
それが突然、足元から崩れ去り、荒野に一人、突き落とされたような感覚。
氷河期世代の池田浩二にとって、それは悪夢以外の何物でもなかった。
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