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第6話(副業シリーズ2) 暗中模索 - 泥沼の副業探し【創作大賞2025作品】【NotebookLM音声概要付き】


暗中模索 - 泥沼の副業探し 本文


社長室の重厚な扉が、まるで断頭台の刃が落ちる音のように、池田浩二(いけだこうじ)の背後で鈍く響いた。
「君がやれ」「身近な成功事例を」「君ならできる」――社長の穏やかだが有無を言わせぬ言葉が、壊れたレコードのように頭の中で繰り返される。
信頼? 冗談じゃない。

これは、厄介事の丸投げ、都合の良い押し付けに過ぎないではないか。
長年、会社のために滅私奉公してきた結果が、これなのか。
不条理だ。
怒りが沸々と込み上げてくる。

だが、それ以上に、副業という未知の荒野に一人突き落とされたような、途方もない不安が全身を支配していた。

安定

それこそが、氷河期という名の凍てつく時代を必死で生き抜いてきた自分たち世代にとって、唯一の拠り所だったはずだ。
会社という船にしがみつき、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶ。
それが正解だと信じてきた。

なのに、なぜ今、この船から荒海に漕ぎ出せと命じられなければならないのか。
帰り道の電車の中、窓の外を流れる見慣れた景色も、どこか色褪せて見えた。
吊革を握る手に力が入らない。

隣に座る若い女性が、スマートフォンで楽しげに何かを打ち込んでいる。
彼女はどんな仕事をしているのだろう。
もしかしたら、会社に縛られず、自由にスキルを活かして稼いでいるのかもしれない…そんな想像が、池田の胸を苦しく締め付けた。

家に帰り着いても、心は上の空だった。
妻の「おかえりなさい」の声も、どこか遠くに聞こえる。
夕食の味もよくわからなかった。
「少し、仕事で考え事があってね」
心配そうな妻の視線に、池田は無理に笑顔を作ってそう答えるのが精一杯だった。

社長命令で副業を探しているなどと、どう説明すればいいのか。
いや、説明したところで、このどうしようもない閉塞感を理解してもらえるはずがない。
結局、池田は重い秘密を一人で抱え込むしかなかった。
その夜、池田は寝付けなかった。
書斎のPCの前に座り、暗い部屋の中でモニターの光だけが煌々と顔を照らす。

「副業」「40代 スキル」「稼げる 副業 簡単」…震える指で、思いつく限りのキーワードを打ち込んでいく。
画面には、情報の洪水が押し寄せた。

『未経験OK!ブログで月収100万円を目指す方法』
『スマホだけで完結!動画編集で自由な働き方を手に入れよう』
『知識ゼロから始めるプログラミング副業!高単価案件を獲得する秘訣』
『今すぐ始められる!せどりで確実に利益を出すための完全ガイド』
『FX自動売買で不労所得?まずは無料セミナーへ!』

キラキラとした成功体験談。
楽して稼げるかのような甘い誘惑。
しかし、そのどれもが、池田には現実味のない、遠い世界の出来事のようにしか思えなかった。
特殊なスキル、センス、あるいはリスクを取る度胸。

自分には、そのどれもがない

ただ、会社という組織の中で、決められた役割を真面目にこなしてきただけだ。
「誰でも」「簡単」という言葉が、空々しく響く。
むしろ、それらの言葉を目にするたびに、「自分には何もできないのではないか」という焦燥感が、じわじわと心を蝕んでいくようだった。

怪しげな情報商材や高額なコンサルティングの広告も、次から次へと表示される。
「これさえあれば、あなたも成功者の仲間入り!」――そんな謳い文句に、一瞬、心が揺らぎそうになる。
だが、氷河期を生き抜いてきた警戒心が、かろうじて最後の理性を保たせていた。

これは罠だ、と。
何時間、検索を続けたのだろうか。
窓の外が白み始めていた。
得られたのは、具体的な道筋ではなく、目の下の濃いクマと、どうしようもない徒労感、そして深い絶望感だけだった。
「なぜ俺がこんな目に…」。

池田は力なく呟き、モニターの前で項垂れた。
翌週、会社に出勤しても、池田の気分は晴れなかった。
副業の件が重くのしかかり、本業の業務にも身が入らない。
自力での情報収集には限界がある。
誰かに相談したい。

しかし、同僚に話せるはずもない。
そんな時、ふと脳裏をよぎったのが、企画部の高橋の顔だった。
(あいつなら、何か知っているかもしれない…)
数ヶ月前、自分が「あまりのめり込むな」と釘を刺した若手社員。
その彼に、今度は自分が教えを乞わなければならないのか。
プライドが傷つく。

しかし、背に腹は代えられない。
「業務命令」なのだ。
これは、制度責任者としての情報収集の一環なのだ――そう自分に言い聞かせ、池田は給湯室でコーヒーを淹れていた高橋に意を決して声をかけた。
「高橋君、ちょっといいかな。…この前の、君がやっているという副業のことなんだが…」

突然の問いかけに、高橋は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに人懐こい笑顔を向けた。
「あ、池田さん。はい、動画編集のことですか?」
以前、釘を刺されたことを根に持っている様子はない。
池田は少しだけ安堵し、「制度の参考にしたい」という建前を使いながら、具体的な経験談を聞き出した。

「最初はクラウドソーシングで、簡単なカット編集とかテロップ入れから始めたんです。単価は安かったですけど、実績を積むのが大事かなって。で、いくつかこなすうちに、だんだん直接依頼をもらえるようになってきて…」
高橋は、使っている編集ソフトの名前、案件を探すのに役立ったサイト、クライアントとのコミュニケーションで気をつけていることなどを、楽しそうに語った。

Premiere Pro、After Effects、ポートフォリオ、Slack…池田にとっては、まるで外国語のように聞こえる単語ばかりだ。
「動画編集、面白いですよ。自分の作ったものが形になって、それを見た人から反応があると、すごく嬉しいんです。最近は、企業のプロモーション動画とか、少し凝った演出が求められる案件も増えてきて…」
目を輝かせながら語る高橋。
その姿が、池田には眩しく見えた。

同時に、自分の持っているスキル――資料作成、社内調整、規定の解釈といった、地味で、会社の中でしか通用しない(と思い込んでいる)能力――がいかに色褪せたものかを、改めて突きつけられているような気がした。
「池田さんなら、これまでのご経験も豊富ですし、例えば人事系のコンサルティングとか、業務改善のアドバイスとか…そういう方面でも、何かできるんじゃないですか?」

高橋が善意でそう提案してくれた言葉に、池田は思わず反射的に首を横に振っていた。
「いや、俺にはそんな、人に教えられるような大したものなんて何もないよ…」
卑下するような、消え入るような声だった。
その瞬間、高橋の表情がわずかに曇ったのを、池田は見逃さなかった。
気まずい沈黙が流れる。

「…そうですか。まあ、何か僕でお役に立てることがあれば、いつでも言ってください」
高橋はそう言って、足早に給湯室を去っていった。
一人残された池田は、ぬるくなったコーヒーを手に、立ち尽くすしかなかった。
後輩に教えを乞う屈辱感。
自分にはないスキルを持つ若者への嫉妬。
そして、自分の無力さに対する、どうしようもない絶望感。

高橋に相談したことで、状況は好転するどころか、むしろ悪化したようにすら感じられた。
焦りだけが募る日々。
そんな池田の目に、あるネット広告が飛び込んできた。
『40代からでも遅くない!安定収入を得るための副業スタートアップセミナー』
「専門家があなたの可能性を引き出す」「成功への最短ルートを伝授」――そんな言葉が、溺れる者の掴む藁のように見えた。
参加費は数万円。
決して安くはない。
自腹を切ることに、罪悪感と躊躇があった。

だが、「これで何か掴めるはずだ」「このままでは何も変わらない」という焦りが、池田の背中を押した。
震える手で、申し込みボタンをクリックした。
セミナー当日、会場となった貸会議室には、池田と同じような、どこか不安げな表情を浮かべた中高年の男女が集まっていた。
講師と名乗る、やたらとテンションの高い男が、自身の(真偽不明な)成功体験を派手に語り、参加者に「マインドセットが大事!」「まずは行動あるのみ!」と熱弁をふるう。

しかし、その内容は、ネットで少し調べれば分かるような一般的な情報――クラウドソーシングサイトの種類と特徴、SNS活用の重要性、自己投資のすすめ――の繰り返しで、具体性に乏しかった。
「あなたにもできる!」「限界を突破しよう!」
講師の言葉は、池田の心には全く響かなかった。

むしろ、その空虚な熱気に気圧され、会場の異様な雰囲気に居心地の悪さを感じるばかりだった。
何か具体的なヒントを得たい。
自分にもできることはないのか。
そう思って参加したのに、質問をする勇気すら湧いてこない。
他の参加者の中には、目を輝かせて熱心にメモを取っている者もいる。
自分だけが、この場の空気に馴染めず、取り残されているような気がした。
あっという間にセミナーは終了した。

手元に残ったのは、どこかで見たような内容が書かれた薄っぺらい資料と、クレジットカードの利用明細、そして時間とお金を無駄にしたという激しい後悔だけだった。
帰り道、冷たい風が身に染みる。
自分はなんて愚かだったんだろう。
こんなものに期待してしまった自分が情けない。
自己嫌悪が、鉛のように重く心にのしかかった。

週明けの月曜日。
池田は自席で、PCのモニターをただぼんやりと眺めていた。
検索しても、人に聞いても、金を払っても、何も見つからなかった。
副業というものは、やはり自分のような平凡なサラリーマンには縁のない、特別な人間のためのものなのだ。
もう、何をすればいいのか分からない。
どうすれば、この状況から抜け出せるのか、皆目見当もつかない。

「業務命令」という言葉だけが、重たい鎖のように心に絡みついている。
しかし、手も足も出ない。
まるで深い霧の中に一人で放り出され、方角も分からず立ち尽くしているような感覚。
思考は完全に停止し、ただただ無力感だけが全身を覆っていた。
オフィスの喧騒も、キーボードを叩く音も、電話の呼び出し音も、池田の耳には届かない。

彼は、ただ項垂れていた。
その背中は、誰が見ても分かるほどに打ちひしがれ、生気を失っていた。
深い、静かな絶望。
池田浩二は、副業という名の迷宮で、完全に行き詰まっていた

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