第7話(副業シリーズ2) メンターとの対話 - 覚悟への問い【創作大賞2025作品】【NotebookLM音声概要付き】
メンターとの対話 - 覚悟への問い 本文
週が明けても、池田浩二(いけだこうじ)の状態は変わらなかった。
むしろ、悪化しているようにすら見えた。
自席に座っていても、PCのモニターはただ虚空を映す鏡のようで、キーボードを叩く指は動かない。
オフィスの喧騒も、電話の呼び出し音も、まるで厚い壁の向こう側の出来事のように遠い。
時折、深く長い溜息が、無意識のうちに漏れる。
「池田さん、大丈夫ですか? 顔色、真っ青ですよ」
隣の席の後輩が心配そうに声をかけてくるが、「ああ、大丈夫だ」と力なく返すのが精一杯だった。
大丈夫なはずがない。
副業という名の重たい鎖は、日増に池田の心身を蝕んでいた。
検索しても、人に聞いても、金を払っても、何も見つからない。
ただ「業務命令」というプレッシャーだけが、寝ても覚めても頭から離れない。
(もう、辞めてしまおうか…)
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
この重圧から逃れられるなら、その方が楽かもしれない。
だが、すぐに現実が引き戻す。
住宅ローン、子供の教育費、そして、この年齢で再就職先が見つかる保証などどこにもない。
氷河期を生き抜いてきた身体に染みついた安定志向が、最後の防波堤のように、衝動的な行動を押し留めていた。
結局、池田は出口のない袋小路で、ただただ疲弊していくしかなかった。
その日の午後、内線電話が鳴った。
人事担当役員からだった。
「池田君、社長がお呼びだ。すぐに社長室へ」
(来たか…)
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
副業の件で進捗がないことへの詰問だろうか。
あるいは、この体たらくに対する叱責か。
重い足取りで社長室へ向かう。
ノックする手が、かすかに震えていた。
「失礼します…」
恐る恐るドアを開けると、社長はデスクで書類から顔を上げ、池田の顔をじっと見つめた。
その視線に射竦められそうになる。
「池田君、座りなさい」
促されるままソファに腰を下ろすと、社長は厳しい表情のまま切り出した。
「最近、元気がないようだが、どうした? 顔色が悪いぞ」
単刀直入な問いに、池田は言葉に詰まった。
何か言い訳を考えなければ。
しかし、もう嘘をつく気力も残っていなかった。
「…申し訳、ありません。その…社長からご指示いただいた副業の件ですが…正直に申し上げて、完全に、行き詰まっております」
絞り出すような声だった。
俯いたまま、社長の次の言葉を待つ。
厳しい叱責が飛んでくるだろう。
そう覚悟していた。
しかし、予想に反して、社長は大きなため息をついた後、少しだけ和らいだ口調で言った。
「…そうか。やはり、一人で抱え込むのは大変だったか」
意外な言葉に、池田は顔を上げた。
社長は腕を組み、難しい顔で何かを考えているようだった。
「実はな、池田君。君に会わせたい人物がいるんだ」
「…は?」
「社外の人間だが、副業や新しい働き方について、非常に見識のある男だ。君より少し先輩になるが、色々と経験もしている。一度、彼に相談してみるといい。何か、ヒントが得られるかもしれん」
社長はそう言うと、デスクの引き出しから一枚の名刺を取り出し、池田に差し出した。
そこには「田 栄人(あつた えいと)」という名前と連絡先が記されていた。
「アポイントは、君から直接取ってみなさい。費用はこちらで持つ」
社長の真意は読めない。
純粋な心配なのか、それとも単なる業務命令遂行のためのテコ入れなのか。
しかし、藁にもすがりたい心境の池田にとって、それは予期せぬ、そして断ることのできない提案だった。
「…承知、いたしました。ありがとうございます」
池田は、力なくそう答えるのが精一杯だった。
数日後、池田は都心にあるホテルのラウンジで、約束の時間より少し早く着き、落ち着かない様子で待っていた。
田栄人とは、電話で簡単な挨拶を交わしただけだ。
一体どんな人物なのだろうか。
厳しいコンサルタントのような人間だったらどうしよう。
また、自分の不甲斐なさを責められるのだろうか。
不安と警戒心で、コーヒーを持つ手が微かに震える。
「池田さんですか?」
声のした方を見ると、人の良さそうな笑みを浮かべた、池田より一回りほど年上に見える男性が立っていた。
歳の頃は50代半ばだろうか。
スーツを着ているわけではないが、清潔感があり、落ち着いた雰囲気を纏っている。
この人が、田栄人か。
「はじめまして、田 栄人(あつた えいと)と申します」
穏やかな口調だが、その目には鋭い観察眼のようなものが感じられた。
威圧感はない。
むしろ、相手を安心させるような、不思議な空気をまとっている。
「あ、はじめまして、池田です。本日はお忙しいところ、ありがとうございます」
緊張しながら挨拶をすると、田はにこやかに頷き、向かいの席に腰を下ろした。
「社長から伺っています。大変な状況のようですね」
単刀直入な切り出し方だったが、責めるような響きはない。
むしろ、池田の状況を理解しようとしているように感じられた。
田は、無理に話させようとはせず、池田が話し出すのを静かに待っているようだった。
その態度に、池田は少しだけ警戒心を解いた。
「あの…社長からは、田栄人さんが副業に詳しいと伺いまして…」
「ええ、まあ、少しだけ経験があるという程度ですよ」田は謙遜しながらも、続けた。
「池田さんは、今、どんなことでお困りなのですか? よろしければ、お聞かせいただけますか」
その穏やかな問いかけに、池田の中で何かがプツリと切れた。
堰を切ったように、これまでの経緯が口をついて出始めた。
社長からの突然の命令、何から手をつけていいかわからない混乱、ネット情報の洪水に溺れたこと、後輩の高橋への劣等感、期待外れだった高額セミナー、そして、自分には何のスキルもないという絶望感…。
話しているうちに、感情が高ぶり、声が震える。
途中、自己卑下や会社への愚痴も交じった。
みっともないとは思ったが、もう止まらなかった。
田は、その間、ただ静かに、時折「ええ」「なるほど」と相槌を打ちながら、池田の話に耳を傾けていた。
その真摯な態度が、池田には救いのように感じられた。
一通り話し終えると、池田は大きく息をついた。
胸のつかえが少しだけ取れたような気がしたが、根本的な問題は何一つ解決していない。
目の前には、依然として暗闇が広がっている。
「…すみません、愚痴ばかりになってしまって」
力なく謝罪する池田に、田は静かに頷いた。
「いえ。それは、お辛いですね。よくここまで、一人で抱えてこられました」
その共感の言葉に、池田の目頭が熱くなった。
誰かに、自分の苦しみを理解してもらえたのは、これが初めてだったかもしれない。
しばらくの沈黙の後、田はゆっくりと口を開いた。
「池田さん、お話を伺っていると、具体的な『何をするか』という以前に、もっと根本的なところで苦しんでいらっしゃるように感じました」
「…根本的な、ところ?」
「ええ。例えば、『業務命令だからやらなければならない』という義務感。これが、池田さんを一番苦しめているのではないでしょうか?」
図星だった。
池田は言葉を失う。
「そして、『すぐに答えを見つけて、正しい道に進まなければならない』という焦り。これも、かなり強いように見受けられます。まるで、間違うことが許されないテストを受けているような…」
まさに、その通りだった。
失敗は許されない。
早く正解を見つけなければ。
そのプレッシャーが、池田をがんじがらめにしていた。
「さらに言えば、『失敗したら評価が下がる、恥ずかしい』という失敗への恐れ。これも、新しい一歩を踏み出すのを、ためらわせている大きな原因になっていませんか?」
核心を突く言葉の連続に、池田はただ頷くことしかできなかった。
自分の心が、丸裸にされているような感覚だった。
田は、自身のカップに視線を落とし、静かに続けた。
「実は、私も副業を始めた当初はそうでしたよ。本業の傍らで、限られた時間で結果を出さなければ、と。焦れば焦るほど視野は狭くなり、簡単なことでも失敗する。失敗すれば、『やっぱり自分には向いていないんだ』と落ち込む。完全に悪循環でした」
田栄人さんのような人でも、そんな時期があったのか。
池田は意外に感じ、少しだけ身を乗り出した。
「その状態から、どうやって…?」
「ある時、気づいたんです。副業というのは、もしかしたら学校のテストのように、決められた時間内に一つの正解を出すものではないのかもしれない、と。むしろ、地図のない場所を、コンパスだけを頼りに、あちこち歩き回りながら、自分なりの道や、面白い発見をしていくような…そういう『試行錯誤』のプロセスそのものを楽しむものなのかもしれない、と」
試行錯誤を楽しむ? そんな考え方は、池田にはなかった。
仕事は、常に効率的に、正確に、成果を出すもの。
それが当たり前だと思っていた。
「ですから」田は、真っ直ぐに池田の目を見て言った。「具体的な『何をするか』を考える前に、まず池田さん自身が、この『試行錯誤』というプロセスに取り組んでみる覚悟を持てるかどうかが、今一番大切なのではないかと、私は思います」
「…覚悟、ですか」
「ええ。完璧じゃなくていいんです。失敗したっていい。それでも、『ちょっとやってみようかな』と、少しでも前向きな気持ちで一歩を踏み出せるかどうか。半信半疑でも構いません。義務感ではなく、ほんの少しの好奇心で動けるかどうか。それが分かれ道になる気がします」
田は続けた。「池田さんにとって、『失敗を恐れる気持ち』と、どう向き合っていくことができそうですか? そして、『義務感』ではなく、ほんの少しでも『好奇心』で動くためには、何が必要だと感じますか?」
田からの問いかけは、池田の核心に迫るものだった。
しかし、あまりにも根本的で、今の混乱した状態の池田には、すぐには答えられない重い問いに感じられた。
言葉に詰まり、視線を落とす池田。
その表情には、戸惑いと困惑の色が浮かんでいた。
田は、池田のそんな様子を見て取ると、ふっと息をつき、穏やかに言った。「…すみません、少し難しい問いでしたね。一度にたくさんのことを考えようとすると、かえって混乱してしまいますから」
池田がほっとしたような、申し訳ないような顔をするのを見て、田は続けた。「では、少し視点を変えて、もっとシンプルなことから考えてみませんか? 今日の私たちの会話の中で、池田さんの心が一番引っかかったこと、良くも悪くも気になったことは何でしたか? もしよろしければ、その理由も含めて、次回までに少し思い返してみていただけますか?」
田は、強制するのではなく、あくまで提案する口調だった。「それをきっかけに、一緒に次の一歩を考えていきましょう」
そして、付け加えるように言った。
「考える上で、一つだけヒントになるかもしれない言葉があります。経営学者のピーター・ドラッカーの言葉ですが…『重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。間違った問いに対する正しい答えほど、危険とはいえないまでも役に立たないものはない。』…焦って答えを出そうとせず、ご自身の心が何に反応したのか、そこに注目してみてください」
池田は、田の顔を見つめた。
難しい問いではなく、自分の心の動きに焦点を当てる。
それなら、今の自分にもできるかもしれない。
「…わかりました。少し、考えてみます」池田は、かすかに頷いた。
カフェを出て、一人になった池田は、夕暮れの迫る街をゆっくりと歩いていた。
手には、田から投げかけられた、よりシンプルな問い。
「一番気になったこと…か」。
まだ頭の中は混乱している。
長年染み付いた考え方が、そう簡単に変わるはずもない。
しかし、不思議と、カフェに入る前のような絶望感は薄れていた。
「すぐに答えを出なくていい」「失敗してもいい」という言葉が、重く沈んでいた心に、わずかな隙間を作ってくれたような気がした。
田からの問い。
それは、具体的な解決策ではなかったが、今の自分に必要なのは、まさにこれなのかもしれない、と直感的に感じていた。
「試してみるか…自分の心と向き合うことを」
池田は小さく呟き、空を見上げた。
まだ厚い雲に覆われているが、ほんの少しだけ、雲の切れ間から光が差しているような気がした。
その足取りは、まだおぼつかなかったが、確かに前へと進んでいた。
第8話(副業シリーズ2)逡逡巡の果て - 答えなき問いと再会 へ
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