第8話(副業シリーズ2)逡逡巡の果て - 答えなき問いと再会【創作大賞2025作品】【NotebookLM音声概要付き】
逡逡巡の果て - 答えなき問いと再会 本文
田栄人(あつた えいと)から出された問いは、シンプルだった。
「今日の会話で、一番気になったことは何か? なぜか?」。
しかし、池田浩二(いけだこうじ)にとって、それは新たな思考の迷宮への入り口となった。
最初の数日は、比較的明確だった。
やはり、自分の内面にある「義務感、焦り、失敗への恐れ」を鋭く指摘されたことだ。
図星だったから、そして、それが自分の苦しみの根源だと無意識に感じていたからこそ、強く心に引っかかったのだろう。
これでいこうか。
そう思いかけた。
だが、時間が経つにつれて、別の言葉が頭をもたげてきた。
「試行錯誤を楽しむ」という、自分とは対極にある価値観。
会社での経験は本当に価値がないのか、という問いかけ。
あるいは、「信頼性という強み」という、思いもよらなかった視点…。
田との会話の断片が、通勤電車の揺れと共に、あるいは深夜の書斎の静寂の中で、次から次へと思い出され、どれもが「気になったこと」のように思えてくる。
(どれが「一番」なんだ…?)
池田はノートに向かい、気になった言葉とその理由を書き出してみた。
しかし、書けば書くほど、思考は拡散していくようだった。
「一番」を決めようとすると、他の候補が「いや、待て」と主張してくる。
まるで、自分の心の中で複数の自分が議論を戦わせているようだ。
(そもそも、「一番」を決める必要なんてあるのか? いや、でも田栄人さんはそう言っていた…何を期待しているんだろうか?)
結局、池田は長年染み付いた「正解」を探す癖から逃れられなかった。
優等生のように、求められた答えを的確に提示しなければならない。
そんな強迫観念が、再び彼をプレッシャーで縛り付けていく。
ドラッカーの言葉が頭をよぎる。
「正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである」。
分かっている。
頭では分かっているつもりだ。
だが、それをどう実践すればいいのか。
正しい問いとは何なのか。
考えれば考えるほど、足元がぐらつくような感覚に襲われ、思考は堂々巡りを繰り返すばかりだった。
結局、明確な「答え」を一つに絞り込むことはできなかった。
再会の日が近づくにつれ、池田の気分は再び重く沈んでいった。
あの穏やかな田栄人さんの前で、「すみません、分かりませんでした」と言うしかないのだろうか。
それは、あまりにも情けなく、不甲斐ないことのように思えた。
約束の日、池田は前回と同じホテルのラウンジに、鉛のような足取りで向かった。
席に着き、運ばれてきたコーヒーに口をつける気にもなれない。
窓の外の景色も、ただぼんやりと霞んで見える。
「池田さん、こんにちは」
穏やかな声に顔を上げると、田栄人(あつた えいと)がにこやかに立っていた。
その落ち着いた佇まいは変わらない。
しかし、今日の池田には、その笑顔すらも少し眩しく、そして恐ろしく感じられた。
「こ、こんにちは…」
挨拶もそこそこに、田は向かいの席に座ると、池田の硬い表情を認め、心配そうに尋ねた。
「どうされました? 少し、お疲れのようですが」
「いえ、その…」池田は言葉を濁した。
田は、無理に追求するでもなく、静かに続けた。
「先日の問い、考えていただけましたか?」
核心を突く問いに、池田は観念した。
意を決し、俯き加減に口を開いた。
「はい…あの、考えたのですが…。すみません、色々と考えすぎてしまって、結局、何が『一番』気になったのか、自分でもよく分からなくなってしまって…」
正直に打ち明けるしかなかった。
そして、考えた過程を、つたない言葉で説明した。
「義務感」のこと、「試行錯誤」のこと、「本業の価値」のこと…。
複数の候補が浮かび、どれもが重要に思えてきて、一つに絞りきれなかったこと。
そして、「正解」を探そうとして、かえって混乱してしまったこと。
「田栄人さんのご期待に沿えず、本当に申し訳ありません…」
最後は、消え入りそうな声で謝罪の言葉を口にした。
田栄人さんに呆れられても仕方がない。
そう覚悟していた。
しかし、田の反応は、池田の予想とは全く異なるものだった。
彼は、池田の報告を静かに最後まで聞くと、ふっと穏やかな笑みを浮かべたのだ。
「池田さん、素晴らしいじゃないですか」
「…え?」
予想外の言葉に、池田は顔を上げた。
田は、優しい目で池田を見つめていた。
「『答えが見つからない』ということは、それだけ真剣にご自身の心と向き合った、何よりの証拠ですよ。そして、複数のことが気になった、決められなかったというのは、それだけ多くの『気づきの種』が、池田さんの中に芽生え始めているということです」
田の言葉は、まるで固く閉ざされていた池田の心に、温かい光を注ぎ込むようだった。
「『正しい答え』は、一つである必要なんてないんです。むしろ、池田さんが経験された、その逡巡や葛藤そのものが、ドラッカーの言う『正しい問い』を探す、貴重なプロセスだったんですよ」
驚きと安堵で、池田の目頭が熱くなる。
答えを出せない自分を責めていた。
悩んだ時間は無駄だったと思っていた。
だが、田は、そのプロセスそのものを肯定してくれたのだ。
「少し、整理してみましょうか」田は促した。「池田さんが挙げられた『気になったこと』…例えば、『義務感』に強く反応したのは、やはりこれまでの会社員生活で、常に『〜ねばならない』というプレッシャーの中で働いてこられた経験が大きいのかもしれませんね。そして、『試行錯誤を楽しむ』という言葉に反発や羨ましさを感じたのは、安定を求める一方で、どこか変化や自由への憧れも持っていらっしゃるからかもしれません」
田は、池田がぽつりぽつりと語った言葉を丁寧に拾い上げ、決めつけるのではなく、「〜かもしれませんね」と問いかける形で、池田自身の内省を促していく。
対話を通じて、池田の中でバラバラだった思考の断片が、少しずつ繋がり、形を成していくような感覚があった。
「本業の経験やスキルについてもそうです」田は続けた。「『価値がない』と思い込んでいたものが、実は他の誰かにとっては非常に価値のあるものかもしれない。その可能性に気づき始めたからこそ、その言葉が気になったのでしょう」
田との対話は、まるでカウンセリングのようでもあり、同時に、霧の中で進むべき道を照らしてくれる灯りのようでもあった。
池田は、いつの間にか、身を乗り出して田の言葉に耳を傾けていた。
話がある程度整理されたところで、田はふっと、何かを思い出したように、しかし確信を込めたような口調で言った。
「池田さん、『答えが見つからない』と感じる時というのは、実は脳が新しい情報や経験を統合し、無意識のレベルで本当に重要な問いを探し出そうとしているサインなのかもしれませんね」
「脳が…ですか?」
「ええ。人間の脳というのは、実にうまくできています。日々、様々な経験をして知識を得る中で、それらが単なる情報として蓄積されるだけでなく、互いに結びつき、新しい神経回路を形成していく。そして、ある時ふっと、咄嗟に出た直感的な言葉が、意外と本質を突いていたりするものなんですよ。
それは、これまで蓄積された経験や知識が、無意識の中で熟成され、意味のある形として表層に芽生え始めてくる瞬間とも言えるかもしれません。生物学的に見れば、変化する環境に適応するための、潜在的な課題認識や生存戦略が、言葉として現れるのかもしれませんね」
田は、優しい眼差しで池田を見つめた。
「だから、池田さんが最初に副業制度を設計された時に口にしたという、『一人で生き抜く力』…あの言葉も、単なるその場の思いつきではなかったのではないでしょうか」
ドキリとした。
あの完璧な「建前」のはずだった言葉。
「池田さんは人事部で、会社や社員を取り巻く環境の変化を肌で感じてこられた。副業のことも、決して無視はしていなかったはずです。まじめな池田さんなら、きっと様々な情報を集め、色々と考えていらっしゃったことでしょう。そうでなければ、あの状況で『一人で生き抜く力』なんていう言葉は、咄嗟に出てきませんよ。」
池田は返す言葉もなかった。
田に言われて初めて、自分が無意識のうちに抱えていた問題意識の断片が、あの言葉に凝縮されていたのかもしれない、と思い始めていた。
「実は、私も社長から御社の人事制度のコンセプトを伺った時、驚いたんです。」田は続けた。「私が2020年4月から、まさにこの数年かけて副業などを通じて実感し、磨こうと思っていた『一人で生き抜く力』そのものが、そこに書かれてあって。池田さんが、あの言葉を選ばれたことに、深い共感を覚えましたし、もしかしたらご自身でも気づかないうちに、時代の本質を捉えていらっしゃるのではないかと感じたんです」
田の言葉は、池田の胸の奥深くに響いた。
それは、単なる慰めや励ましではない。
自分の内面にある、まだ形にならない可能性を信じてくれているような、力強いメッセージだった。
そして、田は改めて、真剣な眼差しで問いかけた。
「あの言葉…『一人で生き抜く力』。今、改めてどう感じますか? ご自身がこれから副業に取り組む上で、あるいは先ほど整理した『義務感からの解放』や『試行錯誤への許容』といったテーマと、何か関係があるように思えませんか?」
「一人で生き抜く力」――。
その言葉が、先ほどまでとは全く違う重みと意味を持って、池田の心に迫ってきた。
それはもう、単なる建前ではない。
自分がこれから向き合うべき、核となるテーマなのかもしれない。
今、直面している葛藤や困難は、まさにその力を手に入れるための試練であり、プロセスそのものなのではないか…?
まだ、明確な答えは見えない。
しかし、田から投げかけられたその問いは、池田の心に深く、そして重く響いた。
それは、これまでの悩みを包括し、未来へと繋がる、新たな、そして本質的な「問い」のように感じられた。
「…少し、考えてみます」
池田は、絞り出すようにそう答えた。
声には、先ほどまでの弱々しさとは違う、かすかな意志が宿っていた。
田は、満足そうに頷いた。「ええ、ぜひ。焦らず、ご自身のペースで。
難しく考えすぎず、例えばですが… もし池田さんご自身が、本当に『一人で生き抜く力』を身につけられたとしたら、日々の仕事や生活、あるいは将来の選択肢は、今とどう違って見えるでしょうか?
そんな風に、少し未来を想像してみるのも、考える上での助けになるかもしれませんよ。
また次回、そのあたりのお話ができれば嬉しいです」
カフェを出て、田と別れた池田は、午後の日差しの中を歩いていた。
空は、まだ雲が多いかもしれない。
しかし、彼の表情には、前回ラウンジを訪れた時のような暗さや焦りはなかった。
代わりに、深い思考に沈むような、静かな落ち着きが見えた。
答えが見つからないことへの不安は、問い続けることへの意志へと、わずかに変わり始めていた。
「一人で生き抜く力…か」。
その言葉を何度も胸の中で反芻しながら、池田は自分の足で、一歩一歩、前へと進んでいく。
その先にあるものが何なのかはまだ分からない。
だが、少なくとも彼はもう、暗闇の中で立ち尽くしてはいなかった。
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