第2話(副業シリーズ1) 動き出す世界、動かない空気【創作大賞2025作品】
第2話:動き出す世界、動かない空気
鉛のように重い足取りで自席に戻った池田は、投げ出すように椅子に座った。副業制度設計責任者。その重たい響きの肩書を、池田は内心で反芻(はんすう)した。社長の鶴の一声で降ってきた、厄介な仕事だ。
(『一人で生き抜く力』、ね…)
応接室で自分が口にした、あの完璧な建前が蘇る。そんな大層なものを、なぜ自分が設計しなければならないのか。しかも、この変化を嫌う社風の中で。溜息しか出ない。
しかし、責任者に任命された以上、仕事は仕事だ。やるしかない。まずは形だけでも整えなければ。池田は、あくまで業務として、渋々PCに向かい、「副業 制度 事例」「副業 市場規模 動向」といったキーワードを打ち込み始めた。どうせ、一部の意識高い系や、切羽詰まった人間がやるものだろう。そんな先入観を持ちながら。
画面に次々と表示される検索結果を追ううちに、池田の表情から余裕が消え、険しさが増していった。まるで、知らなかった世界の扉が無理やりこじ開けられていくような感覚だった。
「なんだ、これは…?」
思わず声が漏れる。最初に目に飛び込んできたのは、大手シンクタンクが発表した副業市場に関するレポートだった。推計される日本の副業による経済効果はすでに数兆円規模に達し、今後も加速度的に拡大していくと予測されている。さらに、別の調査では、副業を希望する個人の割合は半数を超え、実際に何らかの副業に従事している人の数も、この数年で倍増しているというデータが示されていた。
(数兆円…? 副業希望者が半数超え…? 俺が知らない間に、世の中はそんなことになっていたのか?)
池田の額に、じわりと汗が滲む。それは、「一部の意識高い系や切羽詰まった人間」というレベルの話ではなかった。統計データは、ごく普通の会社員たちが、ごく当たり前に副業という選択肢を視野に入れ、行動に移し始めている現実を突きつけていた。
さらに衝撃的だったのは、企業の動向だ。かつてはITベンチャーや外資系が中心だった副業容認の流れは、今や名だたる大手製造業や金融機関にまで波及している。導入理由は、単なる福利厚生やイメージアップではない。「優秀な人材の獲得・リテンション」「従業員の越境学習によるスキル向上とイノベーション創出」「事業ポートフォリオの多角化」――そこには、変化の激しい時代を生き抜くための、明確な経営戦略としての意図が読み取れた。
政府の動きも、池田が考えていた以上に本腰だった。「働き方改革実行計画」に基づき、「副業・兼業の促進に関するガイドライン」は毎年のように改定され、企業が懸念する労働時間管理の簡略化や、社会保険適用のルール明確化などが具体的に進められている。そして、極めつけは「骨太の方針」に明記された一文――「2027年を目途に、希望者全員が安心して副業・兼業に取り組める環境整備を目指す」。これは、もはや努力目標ではなく、国策としての明確な意思表示だった。
(国が本気で、社会構造を変えようとしている…? 会社にしがみつくだけの時代は、本当に終わるのかもしれない…)
背筋を冷たいものが走る。これまで自分がよすがとしてきた「正社員としての安定」という価値観が、足元から揺らぐような感覚。それは、焦りであり、同時に、これまで目を背けてきた現実を突きつけられたことによる、一種の恐怖にも似ていた。
知らなかった。いや、薄々気づいていながら、認めたくなかったのかもしれない。変化の波は、すぐそこまで、いや、もう自分たちの足元まで押し寄せていたのだ。会社という防波堤の内側に安住し、外の世界の変化から目を逸らしていたのは、他ならぬ自分自身だったのではないか。
池田は、ぐっと奥歯を噛みしめた。この副業制度の設計は、単なる社長の思いつきへの対応ではない。自分たちがこれから否応なく向き合わなければならない、大きな時代の変化そのものなのかもしれない。
(だが、うちの会社で、本当にそんな流れに乗れるのか?)
世の中の動向と、自社の現状とのギャップが、池田の頭をもたげる。制度設計の参考にする、という名目で、彼はいくつかの部署の社員にヒアリングを試みることにした。
まずは、入社3年目の若手、高橋。企画部に所属し、普段から新しいツールや情報に敏感なタイプだ。
「副業制度、すごく興味あります! 実は、学生時代にやっていた動画編集のスキルを活かせないかなって思ってて。週末とか夜とか、うまく時間を使えば、お小遣い稼ぎにもなるし、スキルアップにも繋がるかなって」
高橋は目を輝かせながら語る。
「もちろん、本業に支障が出ないようには気をつけますけど、会社が認めてくれるなら、挑戦してみたいです!」
次に話を聞いたのは、池田と同世代、営業部の課長、田中。典型的な体育会系のモーレツ社員だ。
「副業? 池田、お前も物好きだな。そんなもん、やる暇あったら一件でも多く契約取ってこいって話だよ。だいたい、会社に育ててもらっておきながら、外でコソコソ稼ぐなんて、筋が通らねぇだろう」
田中は、あからさまに不快感を示した。
「俺は反対だね。そんな制度、社員の忠誠心を削ぐだけだ」
最後に訪ねたのは、経理部のベテラン、五十嵐。定年も視野に入ってきたであろう、勤続30年近い女性社員だ。
「副業ですか…。興味がないわけではないんですけどねぇ」
五十嵐は、困ったように微笑んだ。
「でも、今さら私にできることなんて、何かあるんでしょうか。PCだって、若い子みたいに使いこなせるわけじゃないですし…それに、本業だけでも毎日くたくたで。新しいことを始めるエネルギーも、時間も、正直言って、ないですねぇ…」
諦めと不安が入り混じったような表情だった。
短いヒアリングを終えて、池田は自席で再び深くため息をついた。世の中は、確かに副業容認へと大きく舵を切っている。高橋のような若手は、その流れを敏感に感じ取り、前向きに捉えている。だが、田中や五十嵐のような中高年層には、依然として強い抵抗感や、諦めに似た無関心さが根強く存在している。そして、自分自身も、頭では世の中の変化を理解しつつ、心はまだ田中や五十嵐に近いところにいることを、認めざるを得なかった。
(こんな状況で、『一人で生き抜く力を養うための副業』なんて、本当に実現できるのか…?)
調査結果と社内の生々しい声。理想と現実の大きなギャップを前に、制度設計の具体的な作業に取り掛かろうとする池田の手は、重く、鈍かった。進むべき方向は見えているようで、しかし、足元には深い霧がかかっているような、そんな心許ない感覚だけが、彼を包んでいた。
田 栄人 作
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