第10話(副業シリーズ2)始動のバックオフィス - 帳簿に刻む、最初の意志【創作大賞2025作品】
週末の書斎。
池田浩二(いけだこうじ)、42歳は、数日前に届いたばかりの印鑑を、改めて手に取っていた。
「KIオフィスサポート」――彼自身が悩み、考え抜いて決めた屋号が、その真新しい印面に刻まれている。
傍らのノートPCの画面には、同じ名前が表示されたネットバンクの事業用口座の残高。
まだゼロが並ぶだけだが、確かにそこには、池田浩二個人のものではない、一つの事業体の「器」が存在していた。
形になった。
覚悟が、目に見えるものになった。
最初は、社長命令という不本意な形で始まった副業への道だったが、メンターである田栄人(あつた えいと)との対話を経て、自分の意志で屋号を決め、印鑑を作り、口座を開いた。
その事実に、池田は確かな満足感を覚えていた。
しかし、その満足感は長くは続かなかった。
印鑑をデスクに置き、口座画面を眺めているうちに、冷静な、そして現実的な問いが頭をもたげてきたのだ。
(印鑑と口座を作った。で、この先は? これだけで、事業が動き出すわけじゃないだろう?)
会社で新規プロジェクトの立ち上げに何度か関わった経験が、自然とそう問いかけてくる。
予算の確保、人員のアサイン、具体的な業務フローの設計、関係部署との調整…。
もちろん、個人で始める副業は、会社のプロジェクトとは規模も複雑さも全く違う。
だが、根っこにあるものは同じはずだ。
ただ待っているだけでは何も始まらない。
事業として動かすには、もっと基本的な「準備」が必要ではないか。
「一人で生き抜く力…か」
田栄人から投げかけられた、あの重い問いが蘇る。
それは、単に新しいスキルを身につけることだけではないのかもしれない。
会社という組織に守られ、分業化された中で見えにくくなっていた、事業を成り立たせるための地道な土台作り。
それを、今度は自分一人の力で考え、実行していくこと。
それこそが、「一人で生き抜く力」の重要な一部なのではないか。
池田の思考が、受動的なものから能動的なものへと、静かにシフトし始めていた。
気づけば、池田はノートを開き、ペンを走らせていた。
個人事業主「KIオフィスサポート」として、最低限整えておくべきバックオフィス業務のリストアップだ。
「会計処理…請求・入金管理…契約関連はどうだろう、当面はシンプルな業務委託だろうから、まずはテンプレートを用意するか?…そして、税務申告。これは避けて通れないな」
会社で管理部門に長く籍を置き、経理や総務関連の業務にも携わってきた経験が、自然とペンを動かした。
書き出したリストを眺めながら、池田は少しだけ驚いていた。
これまで、会社の業務として当たり前にこなしてきたことが、そのまま自分の事業の基盤作りに直結している。
(これは、俺の強みなのかもしれないな…)
田栄人との会話でぼんやりと気づき始めていた「本業スキルの価値」が、具体的な準備行動として、ようやく輪郭を帯びてきたように感じられた。
「よし、まずは会計周りを固めよう」
池田はリストの一番上に丸をつけ、PCに向かった。
個人事業主向けのクラウド会計ソフトをいくつか比較検討し、無料プランから試せるものを選んでアカウントを作成した。
会社の巨大で複雑な基幹システムとは全く違う、シンプルで直感的なインターフェース。
しかし、そこに自分の屋号「KIオフィスサポート」が表示されるのを見ると、バーチャルな存在だった事業が、少しだけ実体を持ったような気がした。
初期設定を済ませ、これから日々発生するであろう取引を入力するための準備を整える。
機能はまだ完全に把握できていないが、「これを使いこなせれば、ちゃんと事業管理ができるはずだ」という期待感が、不安を少しだけ上回った。
次に、請求書と領収書のテンプレートを作成した。
会社で使用していたフォーマットを参考に、自分の屋号とロゴ(まだないが、ゆくゆくは作りたい)を入れるスペースを設け、シンプルなデザインに整える。
そして、試しにプリントアウトした請求書のサンプルに、「KIオフィスサポート」の印鑑を押してみた。
朱肉の感触、紙にインクが染み込む音。
かつて、経理担当として月末に山積みになった伝票に、会社の角印を機械的に押し続けていた記憶が蘇る。
あの時は、ただのルーティンワークだった。
しかし、今は違う。
これは、自分の事業の、最初の意志を刻む行為だ。
この印一つにも、池田浩二個人としての責任が伴う。
会社の業務では感じたことのない、ずしりとした重みと、ある種の厳粛な感慨が、池田の胸を満たした。
一通りの準備が形になったところで、池田は田栄人にWebミーティングを依頼した。
画面越しに現れた田は、いつものように穏やかな表情だった。
「それで、池田さん、いかがですか? 屋号が決まってから、何か変化はありましたか?」
池田は、少しだけ誇らしい気持ちで、ここ数日の行動を報告した。
会計ソフトを導入したこと、請求書テンプレートを作り、印鑑を押したこと。
自分のバックオフィス経験が、意外な形で準備に役立っていること。
「素晴らしいですね!」田の声が弾んだ。
「池田さん自身の経験が、しっかりと活きていますよ。まさに『本業×副業』のシナジーの第一歩じゃないですか。その主体的な動き、本当に頼もしいです」
肯定的な言葉に、池田の頬が少し緩む。
自信が、じんわりと湧き上がってくるのを感じた。
勢いを得て、池田は次に調べていた「開業届」について切り出した。
「あの、開業届なんですが…もう出した方がいいんでしょうか? まだ売上も全くない状態ですし、タイミングがよく分からなくて…」
「なるほど、開業届ですね」田は頷いた。
「もちろん、事業を開始した証明として出すことに意義はあります。特に青色申告を考えているなら、提出期限もありますしね。ただ、焦る必要はありませんよ。例えば、最初の売上が立つ目処がついたタイミングとか、あるいは青色申告のメリット(節税効果など)をしっかり享受したいと決めた時でも遅くはありません。まずは、池田さんご自身が事業を継続していく意志を固め、具体的な活動を始めてからでも十分間に合います」
具体的なアドバイスに、池田は胸のつかえが取れる思いだった。
「ありがとうございます。よく分かりました」
しかし、安堵したのも束の間、根本的な不安が再び顔を出す。
「ただ…準備は進んだんですが、肝心の『何を売るか』『どう売るか』という部分が、まだ具体的に見えてこなくて…」
「焦らなくて大丈夫ですよ」田は優しく応えた。
「バックオフィスの準備が整うことで、『いつでも始められる』という自信が生まれます。その自信が、今度は『何を価値として提供できるか』を考える上での、しっかりとした土台になるんです。準備と価値提案は、車の両輪のようなもの。並行して、少しずつ進めていきましょう」
田の言葉に励まされ、池田はミーティングを終えた。
その夜、池田は再び書斎のPCに向かった。
まず、ネットバンクにログインし、個人の普通預金口座から、事業用の「KIオフィスサポート」口座へ、10万円を振り込んだ。
なけなしの小遣いを貯めた、自己資金だ。
振込実行のボタンをクリックする指が、わずかに震える。
(これは、会社のお金じゃない。俺自身の、事業への投資だ)
次に、クラウド会計ソフトを開き、この10万円の入金を記録する。
会社の経理知識が役立った。
「事業主借」ではなく、事業の元手を示す「元入金」として、日付と金額を正確に入力した。
(このお金が、KIオフィスサポートの始まりの資本になる)
続けて、先日購入した印鑑の領収書を取り出し、最初の経費として入力する。
日付、金額、摘要…「消耗品費」か「事務用品費」か、一瞬迷ったが、「事務用品費」を選んだ。
会社の大きな予算を扱う経費精算システムでの流れ作業とは、全く違う感覚だった。
自分の財布から出たお金が、事業のコストとして帳簿に刻まれる。
そのリアルな重み。
(この小さな支出から、KIオフィスサポートの歴史が始まるんだ)
会社の大きな予算とは比べ物にならない小さな金額だが、自分の事業のお金を、自分の手で管理する。
その事実に、期待とともに身が引き締まる思いがした。
「この元手を無駄にはできない。必ず事業を軌道に乗せる」というプレッシャーが、心地よい緊張感となって背筋を伸ばさせた。
会計ソフトへの最初の入力が終わる。
バックオフィスの基盤が整い、事業の「元手」も確保した。
漠然としていた不安が和らぎ、池田は具体的な手応えと、事業主としての確かな自覚を感じていた。
「何を、誰に、どう売るか」という本質的な課題は、より明確な形で目の前に現れている。
だが、以前のように立ち尽くすのではない。
『完璧なサービスメニュー』なんて、動き出す前に作れるはずがない、と自分に言い聞かせる。
「もちろん、世の中は甘くないだろう。プロはいくらでもいる。自分の提案なんて、すぐには相手にされないかもしれない。それでも、まずは動かないと始まらない。田栄人さんも言っていた、『試行錯誤』だ。失敗したとしても、それは次の一手を考えるための貴重なデータになるはずだ。」
池田はPCを開き、ブックマークしていたクラウドソーシングサイトを立ち上げる。
「よし、まずは…俺のこれまでの経験が活かせそうな、管理部門系の案件を探してみよう。資料作成とか、業務整理とか…そういう分野なら、何か貢献できるはずだ。いくつか良さそうな案件に絞って、先日考えたサービス概要を元に、熱意を込めて提案してみよう。」
その思考は、長年会社組織の中で「自分の役割」を全うしてきた池田にとって、ごく自然なものだった。
まだ、「市場全体で何が求められているのか(=森を見る)」という視点や、「相手の課題を仮説立てて、未来の解決策(=お役立ち)を示す」という発想には至っていない。
「もし、これで壁にぶつかって、どうしようもなくなったら…その時は、また田栄人さんに相談させてもらおう。一人で抱え込んで立ち止まるのは、もうやめたんだ。」
静かな、しかし確かな覚悟を胸に、池田は応募する案件を探し始めた。
その背中には、まだ見ぬ現実の厳しさと、それを乗り越えた先にある成長の可能性が、静かに影を落としていた。
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