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⓻直観の先行が深い思考を妨げる 〜考察は道徳的直観を乗り越える!~

【連載:教育心理学で読み解く「道徳授業の構造的バグ」】第7回

これまで6回にわたり、教育心理学や認知科学の視点から、従来型の道徳授業が抱える構造的バグ(エラー)を紐解いてきました。

·     自我関与の早期誘発
·     同一化の早期発生
·     未熟なスキーマへの固定化
·     感情優位処理
·     自己防衛的推論
·     自己中心的推論


これらすべての心理的メカニズムの根底には、現代の道徳心理学が最も重視する、ある人間の本質的な認知のクセが隠されています。

それが、心理学者ジョナサン・ハイトらが提唱する「道徳的直観の先行(moral intuition dominance)」です。

今回は、この「直観」の正体に迫り、「考察探究型」がなぜそれを乗り越えていけるのか、その到達点を明らかにします。

人間の道徳判断は、実は「直観」が先にある


現代の道徳心理学や認知科学において、定説となっている事実があります。
それは、
人間は何か道徳的な判断を下すとき、まず一瞬で感情的な『直観』が働き、そのあとに理屈や理由を後付けしている
ということです。

例えば、教材を読んだ瞬間に子どもたちは、
「これ、なんか嫌だな」
「この人は悪くない気がする」
「自分なら絶対に許さない」
といった
「直観(好き嫌いや瞬間的な感情)」を爆発させます。

私たちにも、思い当たるふしがあると思います。

そして、従来型の道徳授業はこの「直観」をそのまま授業の主役に据えてしまいます。

「みんなはどう思った?」
「どうしてそう感じたの?」
と問いかけることで、
子どもたちは自分の最初の直観を正当化するための理由づけを一生懸命探し始めます。

その結果、
授業の着地点は「最初の直観の再確認」に終わり、
認知のアップデートが起きないまま終わってしまうのです。

これが、従来型道徳授業が「感想のズレ」や「深まりのなさ」を生み出してしまう、最後の、そして最も根深い構造的バグの正体です

直観に頼る授業から、構造を考察する授業へ


発達途上の子どもたちの「道徳的直観」は、どうしても自己中心性に縛られていたり、その場の雰囲気に流されやすかったりします。

その直観をそのまま温存・強化するのではなく、一度立ち止まらせ、理性的なレンズで解体するプロセスが道徳教育には絶対に必要なのです。

それこそが、「考察探究型」の道徳授業です。
考察探究型は、子どもの「直観」や「感情」を頭ごなしに否定しません。
しかし、授業の順序を厳密にコントロールします。

まず、事象の構造や価値の条件、対立軸を冷静に「考察」する。
(マインドと意の働き)
直観のままに飛びつくのではなく、
「この場面における本当の公正さとは何か」
「責任の境界線はどこにあるのか」
という客観的な価値の枠組み(スキーマ)を全員で構築します。

その確かな価値の土台が築かれたあとに、自分の生き方や感情を「探究」する。
(志と豊かな情の働き)
自分の直観が、客観的な価値の光に照らされたときどう変わるのか、自分はこの価値をどう引き受けるのかを深く見つめ直します。

この
「価値の考察が先、自我・直観の探究が後」
という順序の徹底
(価値基盤型自我活性化・価値先行モデル)

こそが、
人間の持つ「直観の暴走」や「認知のバイアス」を
美しく乗り越えるための唯一にして最強の授業構造なのです。


道徳授業の未来を、構造から変える


「子どもの心に寄り添いたい」
「もっと本人の生き方に直結する深い感想を引き出したい」

現場の先生方のその純粋な情熱が、もし「従来型の授業構造(自我先行モデル)」のなかに閉じ込められていたとしたら、どれだけ努力しても子どもたちの認知は歪み、感想はズレていってしまいます。

それは決して先生の指導力不足でも、子どものせいでもありません。
「授業の順序(構造)」という見えないエラーが引き起こしていた必然でした。

今回紐解いた教育心理学の知見と、
現場から生まれた「考察探究型」の理論。


この二つが噛み合ったとき、
道徳の時間は単なる「お気持ちの共有」から、
子どもたちが自らの理性と意志で価値を選び取り、
自分の生き方として切り拓いていく
「本物の探究の時間」へと劇的に生まれ変わります。

「どのタイミングで、子どもの自我を動かすか

この小さな構造の転換を武器に、ぜひ明日からの道徳授業をアップデートしてみてください。

子どもたちのペンから紡ぎ出される感想は、見違えるほど鮮やかに、ねらいの価値へと輝き出すはずです。

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