❶なぜ「従来型道徳授業」はこれほど支持され続けるのか?
【連載第1回:道徳授業の構造論争「従来型vs考察探究型」の向こう側】
前回の連載では、教育心理学や認知科学の視点から、従来型の道徳授業に潜む「自我の早期活性化」という構造的バグを指摘してきました。
「自分だったらどうするか?」と早期に問うことが、かえって子どもたちの認知バイアスを強め、ねらいの価値からのズレを生んでしまう。
だからこそ、まずは客観的に価値の構造を見つめる「考察探究型(価値理解先行モデル)」が必要である、というのが前の連載での主張点です。
しかし、この主張を展開すると、従来型の道徳授業を大切に実践されてきた先生方から、必ずと言っていいほど強烈な反論や非難の声が挙がります。
今回の新連載では、あえてその「反論」を真正面から受け止めます。 自分の理論の強みを本当に理解するためには、対立する立場の「理」を知らなければなりません。
第1回は、従来型の道徳授業がなぜこれほどまでに現場で支持され、愛され続けているのか、その根底にある「道徳観の魅力」に迫ります。
「自我の早期活性化」こそ道徳の本質であるという信念
従来型の授業を擁護する立場から見れば、「自我の早期活性化(自分ならどうするかを問うこと)」は、決してバグ(エラー)などではありません。
それどころか、「道徳教育の本来の目的そのもの」であると反論されます。
彼らの主張は、極めてシンプルかつ情熱的です。
・道徳とは、自分自身の生き方を見つめる時間である
・だからこそ、授業の最初から最後まで「自我」を中心に据えるべきである
・「自分ならどうするか」「自分の経験ではどうだったか」を問う発問は、主体性を引き出すための正当な手段である
従来型を支持する先生方にとって、道徳とは
「客観的な価値を頭で理解する(認知する)こと」
ではなく、
「主観的な自分の心と向き合うこと」
なのです。
価値理解より「感情」と「経験」が先でよい
「考察探究型」は、価値の構造や条件(例えば、本当の公正さとは何か)を先に理解させ、そのあとに自我を働かせるプロセスをとります。
しかし、従来型の立場からは、この順序に対して次のような批判が飛んできます。
・子どもはまず、自分の経験や感情を基盤にして考えるべきである
・「かわいそうだから助けたい」「自分だったらこうする」という素朴な感情こそが、道徳的な出発点として尊い
・ 抽象的な「価値の理解」などは後回しでよく、まずは心が動くことが最優先である
この主張の根底にあるのは、
道徳教育は「認知(頭)」ではなく、
「情緒・共感(心)」が中心であるべきだ
という強い哲学です。
教材の主人公に感情移入し、心を痛め、涙し、他者の心情に深く共感する。
そうした「情緒的な揺さぶり」こそが道徳授業の醍醐味であり、美しい姿であるという考え方です。
従来型の「自我中心の道徳観」が持つ圧倒的な魅力
なぜ、この「従来型」の哲学は、これほどまでに現場の教師を惹きつけるのでしょうか。
それは、多くの教師が抱く
「子どもの心に寄り添いたい」
「一人ひとりのありのままの感情や個性を大切にしたい」
という純粋な教育的愛情と、見事に一致しているからです。
客観的な正論や理屈よりも、その子が今どう感じているか(自我・感情)を最優先に扱う。
この「情緒と共感のペダゴジー(教育学)」は、教師自身の心をも温かく満たしてくれます。
だからこそ、
「客観的な価値の考察から入るべきだ」
という主張は、
時に
「冷たい」
「頭でっかちだ」
「情緒を軽視している」
と映ってしまうのです。
その「情緒」と「ズレ」は本当に放置してよいのか?
従来型の先生方が持つ「子どもの感情や経験を大切にしたい」という願い自体を否定するつもりは全くありません。
それは教育者として非常に尊い姿勢です。
しかし、道徳を「情緒」と「自我」だけで押し通そうとするとき、現場には必ず「子どもの感想がねらいからズレる」という現実的な問題が立ちはだかります。
従来型の先生方は、この「ズレ」すらも「個性だ」「自然な発達の姿だ」と肯定しようとします。
果たして、本当にそれでよいのでしょうか?
第2回では、
「考察探究型は情緒を軽視している」
「ズレは個性である」
という従来型からの批判に対し、
教育心理学の視点から
鋭く、かつ誠実に応答していきます。
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