⑴道徳授業を思考のトレーニングジムに ~思考の偏食と自我の壁を越えて~
【連載】道徳授業は「思考の筋肉」を鍛えるジムである:第1回
「〇〇さんの気持ちを考えてみましょう」
「あなたなら、どちらの立場を選びますか?」
道徳の授業で、私たちは日々子どもたちにこうした問いを投げかけています。
子どもたちは一生懸命に登場人物の気持ちを推察したり、自分の立場を決めたりして発言してくれます。
しかし、授業を振り返ったとき、どこか物足りなさや限界を感じることはないでしょうか。
「いつも同じような発言で終わってしまう」
「議論が深まらず、どこか表面的な話し合いになってしまう」
この停滞感の原因は、指導技術の問題ではありません。
子どもたちに経験させている
「思考活動の種類」
が極めて限定的になっていること
にあります。
従来型が陥る「思考活動の限定(偏食)」
従来の道徳授業の多くは、登場人物の「気持ち」を推察する活動が中心でした。
しかし、そこで行われている思考活動は、実は「感情の察知」や「同調」といった、ほんの数種類の活動に限られています。
例えるなら、これは「ジムに来て、腕立て伏せだけを延々と繰り返している」ような状態です。どれだけ腕の筋肉がついても、全身のバランスよい筋力は育ちません。
毎回「気持ち」ばかりを問われると、子どもたちは「こういう場面では、こう答えるのが正解だろう」と察するようになり、本来の「深く考える力」を止めてしまいます。
これこそが、道徳授業における「思考の偏食」です。
「自我先行モデル」の壁
ジレンマ授業でも思考が深まらない理由
「心情推察だけでは浅くなる」という課題を克服するために、モラルジレンマ授業をはじめとする「立場を選択させて議論させる手法」に取り組んできた先生方も多いでしょう。
これらは道徳授業を活性化させた素晴らしい実践です。
しかし、これらの手法においても、
時に「思考が深まりきらない」という壁
「議論が深まらない」という壁
「自説に固執してしまう」という壁
にぶつかることがあります。
なぜでしょうか?
それは、これらが基本的に
【自我先行モデル】
「自分ならどうするか」「どちらの立場か」という自分視点を最初に出すモデルだからです。
思考の材料(事実関係や構造)が十分に整理されないまま「自分」を主語にしてしまうと、子どもは自分の知っている狭い経験や直感に固執してしまいます。
結果として「A案が良い」「いやB案だ」という主張のぶつかり合い(感情や立場の平行線)に終始し、事態を客観的・構造的に分析する方向へ思考が広がりづらいのです。
「考察探究型」がもたらす圧倒的に多様な思考活動
この「思考の偏食」と「自我先行の壁」を突破するのが、「考察探究型」の道徳授業です。
考察探究型は、いきなり「自分ならどうするか」「どんな気持ちか」を問いません。
まず行うのは、教材の構造や事実を客観的に紐解く【価値理解先行・構造分析モデル】のアプローチです。
抽出・整理(材料を集める):事実や行動、状況の整理
考察(解釈・分析する):因果関係の解明、問題点の批判・比較・検証
俯瞰・探究(全体を見渡す):高次の価値の発見、社会や自分への還元
考察探究型を取り入れる最大の違いは、子どもたちが経験できる思考活動の多様さにあります。
批判的に問題点を指摘する思考
複数の選択肢の背景を比較する思考
意図と結果のズレを吟味する思考
行為の裏にある信念や構造を抽象化する思考
後に紹介する「17の授業類型」に示されるように、教材の構造に合わせてこれらの多様な思考回路を開くことで、子どもたちは初めて「根拠を持って多角的に物事を探究する思考の筋肉」を獲得します。
客観的な分析(考察)が先行するからこそ、特定の感情や立場に縛られず、フラットで深い議論が可能になるのです。
道徳授業を「思考のトレーニングジム」へ
道徳授業とは、決して「道徳的に正しい答え」を教え込む場でもなければ、単に自分の立場を主張し合う場でもありません。
さまざまな教材(構造)というマシンを使い分け、
多角的な視点から物事を整理し、分析し、探究する
いわば
「思考の筋肉を鍛えるトレーニングジム」
なのです。
では、この「考察探究型」は、低学年からの発達段階の中でどのように位置づけられ、接続されていくのでしょうか?
次回は、
子どもが授業にのめりこむ理由
~根拠・謎解き・自己有用感~
について考えていきます。
(第2回へ続く)
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