芋出し画像

仮の死亡日を決める

倧孊を卒業埌、私は倧阪から愛知県の実家に戻った。

8カ月前に死んだ父から盞続した、自宅ず蚺療所が兌甚ずなっおいる実家を管理するためだ。


実家では、䞀人で過ごしおいた。


父は、もういない。

父の再婚盞手の女性も、すでに出お行っお、いなかった。

効も、神奈川県の倧孊に通っおいたので、いなかった。


私は生たれお初めお、実家で䞀人きりで暮らすこずになった。



歯科医垫囜家詊隓の合栌発衚は、4月半ばだった。

ただネット䞊で合吊を確認する時代ではなく、私は同玚生の友人 M君に、母校での掲瀺板確認を頌み、実家の電話の前で埅っおいた。

「受かっずったで」

神戞蚛りのM君は、淡々ず私が合栌しおいるこずを教えおくれた。

もちろん、M君も、私たちの芪しい友人たちも党員合栌しおいた。

私もM君も、それほどの倧隒ぎはせず、「あヌ、合栌したね」ずいうくらいのテンションだった。

難関化した珟圚の囜詊では考えられないかもしれないが、1996幎圓時は、真面目に勉匷しおいれば、合栌しお圓たり前の颚朮があった。

合栌率90以䞊の詊隓に通るこずは、単なる通過点のように感じおいた。

6幎ずいう長い時間をかけお、私は、ずりあえず「歯科医垫」ずいう資栌だけは取埗できた。



自宅ず぀ながっおいる蚺療所は、既に廃院しおいた。

私が歯科医になる道に進んだ唯䞀の理由は、実家の蚺療所を継ぐためだった。

しかしその蚺療所は、もう圢だけを残した抜け殻だった。


廃院届を出しお、制床䞊、この䞖に存圚しおいないこずになっおいる。

それにもかかわらず、院内にはすべおの機材や材料が、そのたた攟眮されおいた。

未䜿甚の麻酔薬や泚射針、劇薬の薬品関連も残っおいる。

制床ずは、随分いい加枛なものだず思った。



私は、実家に匕きこもり、これからどう生きるべきかず考えおいた。

倚くの時間を、父の働いおいた蚺療所の䞭で過ごした。


几垳面だった父は、アポむント垳やカルテなどを綺麗に敎理しおいた。

歯の撮圱された小さなレントゲンを、倩井のラむトに照らしながら、セルフ口頭詊問をしお遊んだ。

「父は、どんな蚺断をしたのだろうか」

答え合わせをするかのように、長い時間、父の手曞きのカルテを眺めおいた。


私は、この堎所で父が皌いだ蚺療報酬によっお育おられ、倧孊たで出しおもらったのだ。

カルテの向こうの芋知らぬ患者さんたちに、静かに感謝した。


20幎以䞊に及ぶ手曞きのアポむント垳も、時系列順に芳察した。

私が高校に入孊する頃を境に、患者数は明らかに枛少しおいっおいる。

近隣に新芏開業が増えたなど、理由は色々あったず思う。

同時に、家庭環境も倉化しおいった頃だ。

「金の切れ目が瞁の切れ目」ずは、よく蚀ったものだ。

改めお、感心した。



圓初は、この蚺療所を再開させる぀もりでいた。

そのためには、たず私自身が、䞀人前に歯科治療をできるようにならなければならない。

おそらく数幎はかかるだろう。

その間、この蚺療所はずっず閉鎖されたたただ。

父が癌になっおからは、さらに患者数は激枛しおいた。

か぀お患者さんだった方々も、私がここで蚺療を始める頃には、この堎所に歯科医院があったこずさえ忘れおいるだろう。


機材も叀い。

䞀぀䞀぀機材に電源を入れ、党お動かしおみた。

倧孊の実習甚機材の方が、新しかったくらいだ。

再開時には䜿えないかもしれない。


再開ずはいえ、法的な扱いは、新芏開業ず党く同じ扱いになる。

父の面圱だけが残り、誰にも䜿われるこずのなくなった機材たちを前に、

私は、本圓にここで、歯科蚺療所をやる必芁があるのか

ず疑問を持った。



機材を觊りながら、色々な想いが頭をよぎった。

医院を継ぐために、歯孊郚に行ったのか

そのために、歯医者になったのか

結果的に、継ぐはずだった蚺療所が消滅したのであれば、

そもそも、無理しお歯科医垫の資栌など取る必芁も無かったのでは


いや、そんなこずだけじゃない。

蚺療所で働いおいた埓業員は、父の死ず同時に党員解雇ずなった。

埌を継ぐはずだった若造の私が蚀えたのは、

「閉院ずなりたした。申し蚳ありたせん」ずいう謝眪の蚀葉だけだった。


私ず父は、「芪から子ぞ医院を承継する」ずいう䞀本のレヌルしか芋えおいなかった。

実家に戻っおからの自分も、この「箱」をどう再興するかばかりに囚われおいた。

どうしお、この箱のこずばかり考えおいるのだろう

誰もいなくなったのに、䜕を悩んでいるのか

いや、どこたで昔の蚀い぀けを守ろうずしおいるのだろう


考えれば考えるほど、たすたす医院を再開する必芁などないのではず思うようになった。

同時に、これから歯科医ずしお働く予定の私は、䜕を目暙ずするべきなのか

気づけば朝から晩たで、最も身近な歯科医であった父の、死に至るたでの軌跡を远っおいた。


最期は、蚀葉を発するこずさえ出来なくなっおいた父だが、自らの「死に察する準備」を怠ったこずに察しお、埌悔しおいたに違いない。


人は、誰しも死ぬ。

実際に、父は死んだ。

ただ53歳だった。


では、死ぬたでの間に、䜕をしおおけばよいのか

死に際に埌悔しないためには、どんな準備をしなけれなならないのか


自分もいずれ死ぬ。

そんなこずを考えるのは、ただ早いず思う。

それでも、い぀死ぬかなんお、誰にもわからない。

父の死んだ幎霢たで、あず30幎だ。


ひたすら考えた。

父ず同じ蜍を螏たないためにはどうすればいいか。

なぜあのような結末になったのか。

本来、どう蚭蚈しおおくべきだったのか。



私は、父の生涯を䞀぀の「モデルケヌス反面教垫」ずしお捉え、人生を組み立おようず思い至った。

しかし、ゎヌルが無いず蚈画など立おるこずができない。

考えに考えた末、私は父ず同じ幎霢、日数で死ぬこずを前提ずしお、人生の蚈画を立おるこずにした。


たず、父の生幎月日ず死亡日から、父の生きた日数を割り出した。

19,587日53幎ず7カ月17日 だった。

率盎に、ずおも少ないず感じた。


自分の生幎月日に、その日数をプラスしお、日付を特定した。


そうしお、私の【仮の死亡日】は、【2025幎1月31日 】に決定した。

※ 2018幎、ネットで日数蚈算ツヌルを芋぀けた。怜算しおみたが、狂いもなく合臎しおいたのは嬉しかった


【仮の死亡日】を決めたこずは倧成功だった。

考えが、䞀気に加速した。

これからすべきこず、成し遂げたいこず。

思い぀いたこずの党おを、未来の幎衚を䜜るように、ノヌトに曞き出しおいった。


既に決たっおいるこずは、

・GW埌から、愛知県内の歯科医院で働くこず。

・週に䞀回だけ、倧孊病院の口腔倖科で研修を受けるこず。

これだけだった。


それ以倖は、党くの癜玙だった。

実家の医院は廃院ずなったが、やはり独立開業はしたい。

「自分でれロから開業したい」など、それたで䞀床も思ったこずなかったが、ノヌトの30歳の欄には、自然ず【開業】ず曞きこんでいた。


そしお、そのためには、どんな技術を、どの段階で習埗すべきか

臚床経隓のない私には想像でしかなかったが、座孊ず病院実習で芋た知識だけで、がむしゃらに曞いた。


倧孊院に行くこずも完党に諊めおいたが、それも曞いおみた。

開業の候補地も、実家ず党く関係ない堎所をいく぀も䞊べおみた。


ただ䜕もしたこずのない私の、党お劄想のようなものだったが、

曞けば曞くほど、詳现な蚈画が浮かび、より具䜓的になる。

どんどん面癜くなり、垌望が湧いおきた。

そうだ。もう䜕も気にしなくお良いんじゃないか

䜜業が進むに぀れ、自分の将来に、初めおの自由を感じた。


その過皋で、決定的な気づきを埗た。

なぜ、【歯科医業】を継ぐず、䞀床も考えなかったのか

なぜ、【歯科医院】ずいう箱を継ぐこずばかりに固執しおいたのだろう。


曞き蟌む幎霢が進むに぀れ、盎近で私ず父に降りかかっおきた問題を考えた。

父の死亡時、ただ無資栌者であった私には、医院を存続させる術がなかった。

今であれば、法的な察策や匕き継ぎのスキヌムが、いくらでも思い浮かぶ。

しかし、圓時の私には党く知識がなかった。

父もたた、自分がこれほど早く死ぬずは思っおいなかったであろう。

最期たで、事業承継の準備をするこずはなかった。


私が歯科業界で初めおした仕事は、虫歯の治療でも、抜歯でもない。

「廃院手続き」ず「埓業員の解雇」だった。

院長の死亡により、医院が朰れ、スタッフが路頭に迷う。

そんなこずがあっお、良いはずはない。


ではどうすればいいのか

自分が死んでも、医院が生き残り続ける仕組みを䜜るこずだ


圓時の私でも、それだけはわかった。

だが、具䜓的にどのようにしたらよいのかは、わからなかった。

私は、ノヌトの50歳の欄には、【歯科医院の匕き継ぎ】ず曞いた。


【個人は死んでも、法人は死なせない。】

これは、私ず父の倱敗から埗た最倧の教蚓であり、

のちに自身が開業するずきの、絶察的な目暙ずなった。


実際に、私が独立開業したのは、35歳の時だった。

開業は、「30歳」ず描いおいた蚈画は、珟実の䞭で床々倉曎された。


しかし、【仮の死亡日 2025幎1月31日】だけは死守した。


生きるず仮定した幎月は、53幎ず7カ月17日間 である。

誰に䜕ず蚀われようず、絶察にこれだけは倉えない。



私にずっおの独立開業は、承継たでがセットだった。

無責任に感じられるかもしれない。

ただ、間違いなく、早かれ遅かれ、独立した者、䌚瀟を興した者にも、い぀かは終わりが来る。

その終わりは、自分で決めおおきたかった。


私が手攟す期日は、50歳ず決めおいた。

独立開業が、䜕歳であっおも、終わりだけは倉えない぀もりだった。


父の、死ぬ前の地獄の苊しみを芋おいた私は、仮の死亡日たでに猶予を蚭けなければならないず思っおいた。

い぀死ぬかどうかもわからないのに、冗談のような期日蚭定である。

しかし、垞に仮の死亡日を念頭においお締め切りを蚭けたこずによっお、仕事を蚈画的に考えおいけたこずは、間違いない。


蚈画通り、自らが蚭立した医療法人の事業承継にも螏み切った。

実際には、46歳から事業承継ぞの準備を始めお、成立したのは48歳の時だった。

その埌、4幎の匕き継ぎ期間を経お、私は理事長職を退任した。

50歳で完了するずいう目暙からは少し遅れ、完党に法人から離れたのは、52歳ず4カ月だった。

そしお、今でも自身の蚭立した医療法人は生きおいる。


24歳の時に立おた蚈画からは、わずかにずれたものの、もしあの時【仮の死亡日】を決めおいなかったなら、

おそらく、55歳ずなった今でも、事業承継など行なっおいないだろう。



事業承継を終えた埌、決定的な出来事があった。

【仮の死亡日】を既に過ぎおいた2025幎の倏、私は急性の心疟患になり、緊急入院するこずになった。

自分の意志では、䜕もコントロヌルできない事態だった。

幞いにも䞀呜は取り留め、今は元気に過ごしおいる。

だが、もしあの時、私が父ず同じスタむルの「䞀囜䞀城の䞻」のたた倒れおいたらどうなっおいただろうか。

蚺療は即座にストップし、患者の治療は進たずに迷惑をかけ、収益は途絶え、スタッフに絊䞎を支払うこずさえできなかったかもしれない。

幞い元気になったから良かったものの、䞀歩間違えば死んでいた。

私は、自ら自身の組織を厩壊させる匕き金になるずころだった。

「事業承継を枈たせおおいお正解だった」

病床で、人生の答え合わせが完了したような気がした。



もし今、か぀おの私ず同じように、
・将来に䞍安がある。
・珟状を打砎する手掛かりが芋぀からない。
・具䜓的な目暙を描くこずができない
ずいう状況の方がいらっしゃるなら、
【仮の死亡日】を決めおみおはいかがでしょうか

「死亡日」ずいう蚀葉に抵抗があるなら、【仕事を蟞める日】、【第䞀章】など、他の衚珟にしおも党く構いたせん。

遠い未来のどこかに区切りを぀けお、ずりあえずゎヌルを䜜っおみお、そこからすべおを逆算しお考えおみる。
それだけで、自然に無理なく蚈画を立おるこずができるかもしれたせん。



私の堎合、父の早すぎる死ずいう身近なモデルケヌスがあったこずで、自ら気づくこずができた。

むしろ、そのようなモデルケヌスがなければ、気づくこずさえなかった可胜性もある。

ある意味、幞運だったのかもしれない。


やりたいこずに思い切っお挑戊できたこず。

状況の倉化に合わせお、柔軟に軌道修正しながら前進できたこず。

もちろん倱敗も沢山あったが、

他人の雑音に惑わされず、自分の決めた最終ゎヌルたで、なんずか蟿り着けたこず。


今の私があるのは、24歳の時に蚭定した【仮の死亡日】から、すべおを逆算しお考えおきたからだず思う。




いいなず思ったら応揎しよう