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職人の最期、資格の妄想

父は、私が大学4年生の時に癌になった。
右手の親指にできた皮膚癌である。


既に切除しか選択肢のなかった父の右手親指は切断された。
親指を失った父は、術後、義手を使うことになった。


1993年、入院先の大学病院のH先生に描いていただいた、父の指の絵


私の父は一般的な開業歯科医、いわゆる街の歯医者だった。

私も歯医者だからわかるが、利き手の親指がなくなったら、臨床歯科医の生命はほぼ絶たれる。


それでも父は歯医者を続けた。
その理由は「それしか収入を得ることができない」からだ。

父のやれる歯科治療の範囲は、大幅に減った。
当然、以前のように細かい作業ができない。

不自由な手で、どんなに頑張っても、できないものはできない。
入れ歯の治療など、口腔内を比較的触らずともできる治療に限定される。

必然的に、医院の患者は激減した。



私立の歯学部に通っていた私には、多額の学費がかかった。

妹も大学生だった。

父は、再婚もしていた。


とにかくお金が必要だった。
だから、父は歯医者の仕事を続けざるを得なかった。


父が癌になるまでは、私は仕送りとアルバイト代で生活していた。
私を大学に通わせてくれたこと、父には今でも深く感謝している。

父が癌になった後、私は奨学金を借りて大学に通い続けることもできた。


6年間の私の大学生活は、前半と後半で大きく変わった。
ただ私にとって変わったのは金銭面だけで、毎日の学校は楽しく過ごしていた。
しかし、父は無念であったに違いない。


私は、父からお金がなくなっていくのを目の当たりにしていた。
3回目の入院の時、いよいよ私は父の通帳の管理を任され、明確に現金がないことを知った。
その金額に愕然とした。


残念ながら、癌は全身に転移しており、3回目の入院中、父は死んだ。

私が大学6年生の夏だった。


私は、職人の最期を身近で見ていた。

資格さえあれば安泰であるという言説は、完全な妄想に過ぎないと思った。


歯科医を職人と呼ぶかには議論があるかもしれないが、自らの肉体一本で現金を稼ぎ出す構造である以上、本質的には職人そのものだ。

肉体が損壊し、手が動かなくなった瞬間、職業人として収益を生む力は無くなる。

時に、資格は「一生モノの資産」と錯覚される。
しかし、不動産やその他の資本と違い、資格に紐づく技術は他人に譲渡することも、遺産として相続することもできない。

その人間が倒れれば、磨き上げた技術も、一瞬でゼロリセットされる。
一代限りの消費財であるとも言える。

全ての資格に当てはまるものではないと思う。
ただ、身体を使わざるを得ない資格においては、動く身体があって初めて、資格という道具が成立しているに過ぎないのではないか。

父の死の直後、24歳の私はそのように考えていた。



私に家を継いでほしかった父は、自分が築いた城を、いずれ息子が継ぐことだけを前提にしていた。

父は、代診も勤務医も雇っていなかった。
医療法上、無免許の者が診療所の開設者や管理者になることはできない。
簡単に言えば、私など何の役にも立たなかったのである。

順当に行けば、歯科医師免許取得まであと8カ月。
そのわずかな猶予すら制度は待ってくれるはずもなく、引き継ぎ手のない父の医院は、そのまま廃院となった。

廃院時の事務的な手続き、患者や従業員の対応は、私が全て行なった。
何のために、歯医者になるための大学に行ったのか。
当時の私は目標を失い、虚無感しかなかった。



父が死んだのは、53歳の時である。
父はこんなに早く自分が死ぬとは思っていなかったであろう。

必死で目の前のことをこなすだけで精一杯だったのかもしれない。
死に対する全ての準備は、後回しになっていたと思う。

私は既に父の生きた年月を超えているが、私自身の死に対する準備は、かなり早い時期から始めていた。
そのきっかけとなったのは、まぎれもなく父の職人としての最期を見てきたことにある。
動けなくなってしまった父には申し訳ないが、私は、自分の終わりが職場の終わりになるという状況にしたくなかった。



父の死後8カ月の時、予定通り歯科医師免許を取得した。
まだ何もできないけれど、とりあえず歯医者には、なった。
しかしまだ、かつての従業員の方に対する罪悪感や、自身の虚無感から脱してはいなかった。

父と同業者となった私には、父の闘病生活から死、医院の廃院までの約2年間は、極めて強烈な体験だった。

職人の方々、
どうか、ご自身の為にも、大切な方の為にも、自身のお身体を大事に扱って欲しい。



そして、その体験から、私は資格取得後、自身の「仮の死亡日」を決めた。


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