鉄道の歴史


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概要
[編集]最古の鉄道と呼ばれるものは16世紀半ばにまでさかのぼり、鉱山内における馬の引く輸送車両の使用が最初である。
蒸気機関車の登場と鉄道旅行の始まり(19世紀前半)
[編集]18世紀後半より、イギリスでは、蒸気機関を中心とする産業技術上の変革、すなわち「産業革命」とよばれる変化が経済の諸方面に多大な影響をおよぼし、社会生活の様相を根本的に変えていった。産業革命は人間や物資の移動手段にも変革をもたらした。綿工業は機械化され、そのために大量の物資の輸送が必要となって道路や運河の建設・整備を不可欠としたが、とりわけ蒸気機関車・鉄道・蒸気船の登場は単に輸送時間を短縮して輸送量を増大させたのみならず、鉄と石炭と蒸気という新しい時代のおとずれを人びとに印象づけた。そのなかで鉄道は、貨物や乗客を運ぶ手段として、他の運送手段に比較して効率性において優れていた[1]。鋼鉄製のレールに接する輪縁(フリンジ)の付いた車輪の摩擦は少なく、貨物列車が1トンを運ぶのに要する力はわずか1馬力にすぎない[1][注釈 1]。鉄道はまた、遠隔地に新産業の成果を運び、時刻表を通して各地の時間を中央に結びつける役割を果たした。
イギリスで最初に旅客輸送をおこなった鉄道は、1807年に開業したウェールズ地方のオイスターマス鉄道で、既存の路面軌道を用いた馬車鉄道であった。しかしながら、19世紀において鉄道がおそるべきスピードで整備拡充していったのは、それが蒸気機関車の技術と結びついたからである。

オイスターマス鉄道の開業に先立つ1804年、リチャード・トレビシックが、世界で初めて軌道上を走る蒸気機関車を製作した[1]。商業的に成功した最初の蒸気機関車は、1812年に製作されたサラマンカ号(The Salamanca)であり、これはラック・アンド・ピニオン式の機関車であった[注釈 2]。その後も蒸気機関車は改良が重ねられ、ジョージ・スチーブンソンは1814年、初めてフランジが1方向のみである車輪を用いた機関車を開発した。1821年、イギリスのヘンリー・ロランソン・パーマーによりモノレールが考案され、1825年には、世界初の鉄道として英国ダラム州のストックトンとダーリントンを結ぶストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開業した。以後、欧米各地で鉄道の建設が活発になり、1827年にアメリカ合衆国、フランス、1835年にはドイツでも鉄道が開業し、1830年代にはアメリカ全土で鉄道建設がさかんとなった[1]。ただしストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、運賃を定めて毎日定期的に運行する商業運転はおこなわず、線路もまた一般に公開され、通行料金さえ支払えばだれでも機関車や鉄道馬車を乗り入れることができた[2]。その意味では純然たる営利事業としての鉄道事業ではなかったが、しかし、このときすでに技術的・工学的には近代鉄道事業はほとんど成立していたといってよい[2]。
1830年に開業したイギリスのリバプール・アンド・マンチェスター鉄道は工業都市マンチェスターと貿易港リヴァプールの間の約50キロメートルを蒸気機関車が走り、時刻表を用いて定期運行する世界初の営利事業としての鉄道である[1][3][4][5][注釈 3]。馬車とちがって季節や天候に左右されず、大量、迅速かつ確実に輸送し、移動することのできる鉄道は交通事情を一変させた(交通革命)。この鉄道を走る機関車を公募で選んだところ、5件の応募があり、ジョージ・スチーブンソンとその息子ロバート・スチーブンソンの機関車「ロケット号」が採用された[3][4]。最高時速は58キロメートルであり、これは後の機関車の基準となった[3]。機関車製造の技術者であり、鉄道会社の主任技師、そして経営者でもあったジョージ・スチーブンソンは、各鉄道の接続のためにはすべての鉄道が同じゲージ(軌間)であるべきだと主張し、そして実際、1,435ミリメートルの軌間が採用された[4]。これが、今日でいう「標準軌」となっている。

1830年、蒸気機関車「トム・サム号」がメリーランド州のボルチモアとエリコットミルズの間21キロメートルを最高時速29キロメートルで結び、復路は馬と競争して敗れたもののアメリカ最初の商業運転となり、ボルチモアの経済的な重要性をおおいに高め、進展めざましい西部のオハイオ州とを連絡するボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の初代小型機関車として採用された[3]。
1830年代の後半から始まった鉄道網の整備は、「鉄道狂時代」と呼ばれる投資熱を生み出した。1835年、アメリカにはすでに1,600キロメートル以上の線路が敷設され、1850年代にはミシシッピ州以東のすべての州では鉄道が建設されていた[1]。このような投資熱さらには鉄道網の拡充は、当時、鉄道事業がきわめて収益性の高い事業だったからである。いっぽう、鉄道網の拡充は新たな旅行文化をももたらした。禁酒論者であったイギリスのトーマス・クックは、1843年に世界最初のパッケージツアーを考案して事業化し、大成功を収めて「近代ツーリズムの父」と呼ばれる。近代ツーリズムは欧州各地を経て世界各地に急速に広がる一方、対象地域を拡大して利害関係者を増大させ、マスツーリズムを生み出すなど旅行形態の多様化をもたらした[6]。
初期の鉄道建設には、地域的にみて大きな偏りがあった。1850年には、西洋諸国では4万キロメートル弱の鉄道が開業していたものの、アジア、ラテン・アメリカ、アフリカの地域では全部合わせても約4,000キロメートルの鉄道しか有しなかった[5]。
帝国主義時代(19世紀後半〜1913年)
[編集]19世紀中葉にあっては、ヨーロッパの工業化が飛躍的に進み、各国は先行するイギリスに対抗しながら殖産興業を進展させていった。諸国の経済はこうして相互に連関しあうようになり、世界的な資本制が形成されていった。 鉄道は大量の人や物資の移動を可能にし、こうした状況に対応して、多くの国が共通の関心をもつ事象について共同処理する機関がつぎつぎに設立された。1865年に設立された万国電信連合は世界最古の国際機関といわれ、1874年には万国郵便連合が設立された。赤十字国際委員会が組織されたのも1863年のことである。この年、イギリスの首都ロンドンでは世界初の地下鉄が開業しているが、当時は蒸気機関車が車両を牽引した。なお、世界で2番目の地下鉄は 1896年 ハンガリー(オーストリア=ハンガリー帝国)の首都ブダペストにおいてであり、1896年のことである。
ヨーロッパ大陸では、1870年ころまでに主要な鉄道路線が田園地帯を縫うように走るようになっており、アルプス山脈を抜けるトンネルや橋梁などは当時の土木技術の偉大な成果とみなされていた[1]。
- アメリカ合衆国

北アメリカ大陸を横断する鉄道を建設しようという考えは合衆国で鉄道が実用化された当初から存在していたが、同時に新聞の社説などでは批判の対象ともなっていた[7]。これが、1848年のメキシコからのカリフォルニア割譲、ゴールドラッシュ、1850年のカリフォルニア州成立によって事情が一変した[7]。1850年、アメリカ合衆国連邦議会は鉄道建設のために土地の払い下げを開始した[1]。さらに1853年、連邦議会はアメリカ陸軍省に対して15万ドルの予算を支出し、どの横断ルートが最も適切であるのかを調査させた[7]。その結果、南部に1本、北部に1本、中央には1本以上が可能であると報告された[7]。1854年成立のカンザス・ネブラスカ法も、元来はシカゴを起点とする中央部の大陸横断鉄道建設を目標としたものであった[7]。1862年にユニオン・パシフィック鉄道会社が創立されてネブラスカ州からカリフォルニアまでの鉄道建設が議会によって認可され、一方、カリフォルニア州ではサクラメントを起点にセントラル・パシフィック鉄道が東へ向けて鉄道を建設することが決まった[7]。
1861年に起こった南北戦争にあっては、北軍(連邦軍)が鉄道・機関車双方において優位に立っており、軍隊や物資の輸送能力の面では南軍(アメリカ連合国軍)を決定的に上回っていた[1]。北軍勝利で戦争が終結すると、大陸横断鉄道の建設には中国やヨーロッパからの移民労働者に加え、南北戦争の退役軍人が加わり、1869年5月に工事が完成した[8]。集められた中国人労働者の数は、最終的には1万2,000人に達したといわれている[8]。ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道はユタ準州(当時)のプロモントリーで接続した[8]。なお、19世紀末には、この路線含め4本の大陸横断鉄道が完成している。大陸横断鉄道の完成は、西部への移住をおおいに促進した[8]。
この間、列車は徐々に走行速度を速めていったが、アメリカ合衆国の蒸気機関車999号は、1893年に時速160キロメートルを記録している[1]。
- ドイツ
ドイツでは、1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争の勝利を経て、1871年に統一国家であるドイツ帝国が成立したが、鉄道については中央政府による一元運営ではなく、プロイセン邦有鉄道、王立バイエルン邦有鉄道、王立ザクセン邦有鉄道、王立ヴュルテンベルク邦有鉄道、バーデン大公国邦有鉄道など、連邦を構成する王国や大公国毎の単位で運営された。連邦の首都ベルリンの発展はめざましく、 1881年には世界初の路面電車が開業している[9]。
1888年、ドイツ帝国はオスマン帝国領内でアナトリア鉄道の建設を開始し、1893年に開通した。ドイツ資本はまた、1899年には