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森弘太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
森 弘太郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県一宮市
生年月日 (1915-05-29) 1915年5月29日
没年月日 (1966-09-01) 1966年9月1日(51歳没)
身長
体重
172 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1937年
初出場 1937年
最終出場 1950年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 川島紡績

森 弘太郎(もり こうたろう、1915年5月29日 - 1966年9月1日[1])は、愛知県一宮市出身のプロ野球選手(投手)。

史上5人目のシーズン防御率0点台を1941年に達成した[2]。

来歴・人物

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一宮中(現:一宮高)卒業。一宮第四小学校では先輩に吉田正男が居た。関西大学(中退)から名古屋鉄道管理局に進む。創立当初の東京巨人軍との交流試合で好投し、一躍注目を浴びる存在となった[3]。

1937年に阪急軍に入団。当初は速球派投手として鳴らすもなかなか結果が残せず、それを見かねた村上實球団代表からの依頼を受けた大阪毎日新聞社の湯浅禎夫の指導を受けたことで、シュート、カーブを武器に技巧派としての才能が開花した[3][2]。

1940年夏、日本野球連盟は満州国において満州リーグ戦を行っているが、8月11日の対阪神軍戦において、若林忠志との投げ合いで、若林に打たれた三塁打をスクイズで返され0対1で敗れたが投球数77球で、一方の若林は80球完封勝利となったが、両軍合わせて157球の勝利となる[2]。公式では戦前の記録は除外されているため、この時の相手若林が8年後の1948年8月11日の対太陽戦での160球が日本プロ野球最少記録とされている。この遠征の途上、若林と二人で理想の投球について談義となり、お互いが「1人1球27アウト27球」で終わらせるのが理想と結論し、それなら二人で最少投球試合記録を作ろうという事となった[4]。

1941年、30勝8敗、防御率0.89で、最多勝と最高勝率のタイトルを獲得、防御率は2位に[2]。同年、8月2日に江田孝との継投によるノーヒットノーランを達成(江田7回2/3、森1回1/3)、10月27日に単独でノーヒットノーランを達成している[3]。

その後も阪急のエースとして活躍したが、肘の痛みなどが重なり1943年からは成績を落とす[2]。1949年に東急に移籍した監督の井野川利春の後を追って東急フライヤーズに移籍[5]。1950年には2リーグ分裂に伴い、宇高勲の誘いで西日本パイレーツに移籍するが、この年限りで現役を引退した[3]。

引退後は、社会人野球の川島紡績へ。川島紡績時代には、監督として山内一弘を育てたことでも知られる。

詳細情報

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年度別投手成績

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年

度
球

団
登

板
先

発
完

投
完

封
無
四
球
勝

利
敗

戦
セ
丨
ブ
ホ
丨
ル
ド
勝

率
打

者
投
球
回
被
安
打
被
本
塁
打
与
四
球
敬

遠
与
死
球
奪
三
振
暴

投
ボ
丨
ク
失

点
自
責
点
防
御
率
W
H
I
P
1937春 阪急 2000000--------469.11402--0800976.301.71
1938春 8610052----.71419345.129025--17301281.571.19
1938秋 2100000--------203.2603--0200636.752.45
1939 151372073----.700458107.097438--0250041322.691.26
1940 543530872813----.6831450377.1251682--7971081541.290.89
1941 482423112308----.7891262333.1200383--3851048330.890.85
1942 592924311917----.5281416369.1239188--31050082541.310.89
1943 8750015----.16724059.051114--0140021152.291.10
1946 8610023----.40014432.14419--261017174.641.64
1947 16820024----.33327564.169320--0140029141.941.38
1948 301650578----.467621154.2163620--0270061432.501.18
1949 東急 171041164----.60041695.0110826--0180053434.071.43
1950 西日本 2819903511----.313688154.2183939--0330084633.661.44
通算:12年 295174111251911278----.58972291805.1145642449--16441605443861.921.06
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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記録

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背番号

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  • 21 (1937年 - 1943年、1946年途中 - 1948年)[2]
  • 16 (1946年)[2]
  • 19 (1949年 - 1950年)[2]

脚注

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  1. ↑ 阪急ブレーブス 黄金の歴史 1936-1988、127ページ(2011年、ベースボール・マガジン社)
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 『月刊プロ野球ヒーロー大図鑑 先発右投手 パ・リーグ編①』ベースボール・マガジン社、2024年、79頁。
  3. 1 2 3 4 阪急ブレーブス 黄金の歴史 1936-1988、35ページ(2011年、ベースボール・マガジン社)
  4. ↑ ベースボールマガジン2011年11月号63-64ページ
  5. ↑ 『背番号への愛着』日本出版協同、1952年、107頁。
  6. ↑ ただし実際の勝率で見ると、須田博(ヴィクトル・スタルヒン)が.833(15勝3敗)で上回る。

関連項目

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外部リンク

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