杉本正 (野球)
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| 福岡トヨタ硬式野球クラブFTサンダース 投手コーチ #71 | |
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西武ライオンズのコーチ時代(2012年) | |
| 基本情報 | |
| 国籍 |
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| 出身地 | 静岡県駿東郡小山町 |
| 生年月日 | 1959年5月3日(67歳) |
| 身長 体重 |
172 cm 80 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1980年 ドラフト3位 |
| 初出場 | 1981年4月7日 |
| 最終出場 | 1992年10月10日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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杉本 正(すぎもと ただし、1959年5月3日 - )は、静岡県駿東郡小山町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]小学6年時に野球を始め、中学3年時に一塁手から投手へ転向した[2]。
御殿場西高校では甲子園こそ出場できなかったが、県内有数の左腕として知られ、1977年の夏の甲子園県予選3回戦で袋井高を相手にノーヒットノーランを記録。
高校卒業後は地元の大昭和製紙へ入社し、1979年の都市対抗では、後にプロで同僚となる大石友好(河合楽器から補強)とバッテリーを組み、1回戦の引き分け再試合で日本通運を完封。準々決勝でも先発し、日産自動車の名取和彦と投げ合うが惜敗[3]。同年の第4回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、日本の準優勝に貢献した。
1980年の都市対抗では準々決勝で日本鋼管を完封、準決勝に進出し兄弟チームの大昭和製紙北海道との対戦を実現する。この試合では日本代表のエース竹本由紀夫(新日本製鐵室蘭から補強)と投げ合い3-2で競り勝つと、決勝でも札幌トヨペットに大勝[3]、この大会で4勝を挙げチームの優勝に貢献し、最優秀選手の橋戸賞を受賞している[2]。この時のチームメートに上川誠二、佐々木正行らがいた。
同年のドラフト会議で西武ライオンズから3位指名を受け[2]、12月13日に契約金4000万円・年俸360万円(金額は推定)という条件で入団した[4]。背番号は20[5]。
西武時代
[編集]1年目の1981年は4月7日の日本ハムファイターズ戦(後楽園球場)でプロ初登板し、初勝利を完封で飾る[6][7]と、以降は先発ローテーションの一角として活躍。5月29日の対日本ハム戦(後楽園球場)では3点リードで迎えた9回裏からの救援登板で1回無失点でプロ初セーブを記録した[8][9]。8月22日の南海ホークス戦(上越高田)では4回1/3で降板したものの試合が6回で降雨コールドとなり西武が勝利し、公認野球規則10.17b項(勝利投手の規定)の適用外となり5回を投げ切らないままで勝利投手となった[10]。同年7月31日の南海戦では門田博光に当時の月間最多本塁打記録となる同月16本目の満塁本塁打を打たれた。
2年目の1982年にはオールスター前に全パの監督大沢啓二に懇願し、監督推薦でオールスターゲーム初出場を果たす[11]。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、第2戦と第5戦に先発するが、いずれも途中降板し勝敗はつかなかった。
1983年は3年目にしてシーズン12勝を挙げ、読売ジャイアンツとの日本シリーズでも第3戦と第6戦に先発するなどの活躍が認められ、寮を出て姉と2人暮らしを始めた[12]。
中日時代
[編集]1985年キャンプイン直前に田尾安志との交換トレードで大石と共に中日ドラゴンズに移籍[13][14]。
移籍初年度はなかなか勝てず、初勝利は4試合目となる5月3日の横浜大洋ホエールズ戦(ナゴヤ球場)であった[15]。オールスター前の最後の試合となる7月18日のヤクルトスワローズ戦(ナゴヤ球場)で130球以上を投げ、2-1で完投勝利[15]。そのままオールスター休みとなり、翌日には平野謙の実家がある愛知県岩倉市に何人かで食事に行った際に平野から「お、救世主」と冷やかされる。杉本はなぜかカチンと来て帰ると何も持たずに店を飛び出したが、皆に引き留められた事を機に平野と仲良くなり、同年は5勝に終わったがチームにはすぐに溶け込んだ[15]。
1986年にはチーム最多の12勝を挙げるも13敗を喫し、8月7日の巨人戦(後楽園球場)で両者無得点で迎えた9回裏一死の場面で中畑清の場面で捕手の大石が出したサインはカーブであったが、打ってこないだろうとストライクを取りに行きスローカーブを投げたところサヨナラ本塁打を打たれる。中畑には1983年の日本シリーズ第6戦でも打たれており、相性の良くない打者に安易な入り方、指導者になってから「絶対にそんな球を投げるな」と教訓にしている[15]。7月26日の広島東洋カープ戦(ナゴヤ球場)では山本浩二から通算500本塁打目[16]、9月11日の広島戦(広島市民球場)では2-2の同点で迎えた延長11回無死無走者の打席で、山本から球団最年長記録でもある39歳10か月[17]サヨナラ本塁打を打たれる[18]。
1987年にはオープン戦で好調であったこともあり、新監督の星野仙一に開幕投手に指名され、巨人戦(後楽園)に先発する[15]。杉本自身は小松辰雄が開幕投手だと思っていたが[15]、吉村禎章・駒田徳広に本塁打を打たれ、打線も西本聖に完封され、敗戦投手となった[15]。4月26日の対大洋戦(横浜スタジアム)で6回途中まで投げ、2失点でシーズン初勝利を挙げた[19]。5月に入ると2日の対広島戦(広島市民球場)で9回1失点でシーズン初完投勝利[20]。8日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)[21]、30日の対広島戦(ナゴヤ球場)で計2度の完封勝利を挙げる[22]など、5試合に登板し、5勝0敗、月間防御率0.66の成績で自身初の月間MVPを受賞した[23]。最終的に13勝を挙げた[15]。同年は父を亡くし結婚した年でもあり[15]、オールスターにも出場したが、石毛宏典に3点本塁打を打たれ敗戦投手となっている[24]。
1988年は優勝したが故障に苦しみ6勝6敗止まり[15]、7月3日の大洋戦(横浜スタジアム)で1回途中、4失点でKOされて、シーズン6敗目を喫し星野から2軍行きを通告[25]。1軍に戻ったのは8月に入ってからでその年の6勝のうち4勝は9月下旬と10月に挙げたもので5月10日の阪神戦(金沢)が唯一の完封した試合だった[25]。試合優勝決定試合の10月7日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)では5イニング無失点で勝ち投手[15]。西武との日本シリーズでは古巣相手に第4戦で先発するが2回に笘篠誠治の2点二塁打で先制され、4回に秋山幸二のソロ本塁打で4回途中3失点で敗戦投手となった[25]。杉本は日本シリーズに先発で5回登板して成績は0勝1敗に終わり、5回以上先発して一度も勝ち投手になれなかったのは高橋直樹・北別府学に次いで3人目となっている。
1989年は肘の故障もありリリーフに回り自己ワーストの3勝4敗に終わる。同年8月14日の広島戦では高橋慶彦からサヨナラ本塁打を打たれている。10月15日の広島戦(広島市民球場)では山﨑武司とバッテリーを組むが、5回に正田耕三に二盗、三盗決められ、焦った杉本は暴投で正田に生還された[26]。杉本、仁村薫、岩本好広、鈴木康友の4人で「“俺らは(現役が)終わりなんじゃないか”っていうような話をした覚えがあります。そしたら次の年(1990年)もみんないて。“あれ? まだいるやん”って思いましたけどね」[27]。
1990年には肘が悪くて開幕から2軍にいてやっと投げられる状態になった時にトレードが決まった[25]。
後に中日にいた5年間が一番楽しかったと振り返っている[15]。
ダイエー時代
[編集]1990年途中に山内和宏との交換トレードで高島覚と共に西武時代の先輩田淵幸一が監督を務める福岡ダイエーホークスへ移籍[2]。星野から「ブチを助けてやってくれ」と送り出された[25]。
8月8日の近鉄戦(平和台)で移籍初勝利を完封で飾り、15日の近鉄戦(平和台)も1失点完投で2勝目と2試合連続で抜群の投球を見せたものの、ダイエー1年目は16登板、3勝7敗、防御率4.91の成績で終わった[25]。左肘痛で好調が長続きしなかった[25]。
移籍後3年程は先発・リリーフとして一定の登板機会があったが、一軍登板無しに終わった1993年オフに戦力外通告を受け、同年限りで現役を引退[2]。
引退後
[編集]引退後はRKB毎日放送解説者(1994年)を経て、有本義明二軍監督の招聘でダイエー二軍投手コーチ(1995年 - 1997年)を務めた[28]。
杉本がダイエーの二軍コーチになる1週間後に西武時代の同僚であった東尾修が西武監督就任が決まり、東尾からは「一週間早かったらお前を呼んだのに」と言われるなど、ダイエーコーチ1期目は毎年のようにコーチの要請を打診されていた[28]。
1998年からは東尾に呼ばれて[29]前年優勝した西武一軍投手コーチに就任し、前年まで森繁和だけであったが、同年から森・杉本の二人体制になる。試合中はブルペン担当であったが、後にベンチ担当となり、開幕10試合で2勝8敗と低迷[30]。前年チーム防御率2位の投手陣は6月15日時点でチーム防御率4.26(前年のチーム防御率はリーグ2位の3.63)と低迷し、シーズン途中には投手陣の低迷の責任を取らされて森が二軍へ配置転換となり、加藤初が一軍に昇格した[31]。故意のボーク疑惑では芝﨑和広にボークでも構わないと指示し[32]、1998年は巻き返しリーグ優勝を果たすが、コーチ時代唯一の優勝となった[28]。
横浜との日本シリーズでは第5戦の7回途中から5点ビハインドの場面で新谷博が登板したが、8回に3点、さらに9回に7点を失っても降板させず、杉本は試合後に「先発も早々に降板しており、他の投手への負担を避けるため仕方なかった」[33]と述べている。森祇晶からは「日本シリーズにふさわしい采配と言えるか」と疑問を投げかけたほか[34]、守備・走塁コーチであった伊原春樹は「さらし者にような形で投げ続けた新谷は見ていて本当にかわいそうだった。試合後、新谷は意気消沈。他に投手がいたのに、なぜ、代えなかったのか。」[35]と述べている。
1999年に入団した松坂大輔を加藤と共に指導したが、杉本の後に投手コーチに就任した松沼博久は松坂について「特別な存在なだけ厄介でした。ちょっと厳しい練習をすると足の張りなどを訴えます。前の首脳陣が松坂に対して甘かったのでは。」[28] [36]と述べている。2001年に東尾退団に伴いコーチを退任し、2002年から2003年まで編成担当を務めた[37]。
2004年からはダイエー時代の同僚であった森脇浩司二軍監督の声掛けで[37]同球団の二軍投手コーチに就任し、2006年から2008年まで一軍投手コーチを務めたが、2008年は特に故障者が多く投手陣が低迷。チーム防御率4.05は2004年以来の防御率4点台となり、被本塁打128、失点641、自責点583はリーグ5位、四球420はリーグ4位と投手陣の成績悪化が12年ぶりの最下位の一因となり、同年限りで解任された。救援防御率も4.42と低迷し12球団最下位であり、当時東北楽天ゴールデンイーグルスの野村克也監督は「杉本がマウンドに行くとホークスの投手はよくストレートを投げるからそれを狙えと指示している。彼はダメコーチ」と杉本を酷評していた[38]。また、2007年5月31日、巨人との交流戦で矢野謙次に代打逆転満塁本塁打を打たれた際、評論家の豊田泰光に「稚拙な継投」、「投手の起用法も酷いし、指導力があるとは思えない」と酷評された[39]。後に、所属した全ての球団で投手成績を悪化させたことから「デス杉本」などと揶揄されるようになってしまった。
2009年からは大昭和製紙の先輩村上忠則がチーム運営部門統括を務める[37]横浜ベイスターズ一軍投手コーチに就任したが、前年同様セ・リーグ唯一の4点台にチーム防御率が低迷し[40]、被安打1326・被本塁打164・失点685・自責点612もリーグ最下位と振るわず1年で解任された。
2010年からは知人の紹介で[37]前年優勝した韓国プロ野球・起亜タイガース一軍投手コーチに就任したが[41]、チーム防御率は3.92から4.39と低迷し7月23日付で二軍投手コーチに降格となり、チームも6位と低迷、またも1年で解任された。
帰国後は2011年は元西武スカウトの編成部長楠城徹、中日時代の監督の星野の縁で[37]楽天編部成スカウト、2012年より、編成部長鈴木葉留彦の誘いで[37]西武の一軍投手コーチとして復帰[42]。同年はチーム防御率5位と低迷し[43]、2013年は救援防御率リーグ最下位、勝負所の8月に投手陣が防御率5.23と崩れ[44]、リーグワーストの被本塁打数を記録している[45]。2014年より二軍投手コーチに配置転換され[46]、同年10月2日に来季の契約をしないことを通知された[47]。
西武退団後は文化放送解説者・スポーツニッポン評論家(2015年 - 2016年)[48]を経て、2017年からは星野の側近の早川実や福田功が推薦で[37]楽天一軍・二軍巡回投手コーチに就任するが、一軍が最下位に低迷した2018年、10月5日に来季の契約をしないことを通知された[49]。
2019年からはスポーツニッポン評論家に復帰し、2020年は11月26日放送の宮崎フェニックスリーグ中継にて、スポーツライブ+のゲスト解説者として出演した。
2025年春、GM森脇の招きで福岡トヨタ硬式野球クラブFTサンダース投手コーチに就任した[15]。名誉監督は東尾が務めている[37] 。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1981 | 西武 | 36 | 21 | 7 | 1 | 0 | 7 | 8 | 2 | -- | .467 | 621 | 145.1 | 138 | 16 | 57 | 1 | 2 | 61 | 2 | 1 | 66 | 56 | 3.47 | 1.34 |
| 1982 | 26 | 22 | 6 | 4 | 0 | 7 | 12 | 0 | -- | .368 | 560 | 132.2 | 130 | 6 | 51 | 1 | 2 | 60 | 1 | 0 | 59 | 54 | 3.66 | 1.36 | |
| 1983 | 26 | 22 | 4 | 2 | 1 | 12 | 6 | 0 | -- | .667 | 571 | 136.1 | 133 | 16 | 39 | 2 | 0 | 44 | 0 | 0 | 56 | 52 | 3.43 | 1.26 | |
| 1984 | 22 | 22 | 5 | 3 | 1 | 7 | 8 | 0 | -- | .467 | 527 | 124.2 | 136 | 12 | 33 | 3 | 0 | 57 | 0 | 0 | 54 | 53 | 3.83 | 1.36 | |
| 1985 | 中日 | 23 | 15 | 4 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | -- | .556 | 426 | 98.2 | 105 | 14 | 32 | 4 | 5 | 60 | 1 | 0 | 49 | 47 | 4.29 | 1.39 |
| 1986 | 31 | 25 | 10 | 3 | 2 | 12 | 13 | 0 | -- | .480 | 733 | 182.2 | 163 | 16 | 44 | 4 | 0 | 106 | 2 | 0 | 70 | 61 | 3.01 | 1.13 | |
| 1987 | 28 | 28 | 5 | 2 | 0 | 13 | 9 | 0 | -- | .591 | 698 | 158.0 | 180 | 23 | 45 | 8 | 6 | 85 | 4 | 0 | 83 | 76 | 4.33 | 1.42 | |
| 1988 | 23 | 21 | 1 | 1 | 1 | 6 | 6 | 0 | -- | .500 | 501 | 118.2 | 119 | 13 | 36 | 1 | 1 | 92 | 0 | 0 | 56 | 52 | 3.94 | 1.31 | |
| 1989 | 23 | 7 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 0 | -- | .429 | 225 | 49.2 | 60 | 4 | 24 | 1 | 1 | 22 | 2 | 0 | 27 | 22 | 3.99 | 1.69 | |
| 1990 | ダイエー | 16 | 13 | 3 | 1 | 0 | 3 | 7 | 0 | -- | .300 | 359 | 78.1 | 106 | 9 | 29 | 3 | 2 | 47 | 0 | 0 | 47 | 43 | 4.94 | 1.72 |
| 1991 | 15 | 13 | 1 | 0 | 0 | 3 | 8 | 0 | -- | .273 | 352 | 82.2 | 88 | 13 | 19 | 0 | 2 | 41 | 1 | 0 | 46 | 39 | 4.25 | 1.29 | |
| 1992 | 29 | 7 | 2 | 1 | 1 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 278 | 62.0 | 81 | 6 | 15 | 1 | 1 | 29 | 0 | 0 | 37 | 34 | 4.94 | 1.55 | |
| 通算:12年 | 298 | 216 | 48 | 18 | 6 | 81 | 90 | 2 | -- | .474 | 5851 | 1369.2 | 1439 | 148 | 424 | 29 | 22 | 704 | 13 | 1 | 650 | 589 | 3.87 | 1.36 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
[編集]記録
[編集]- 初記録
- 初登板・初先発登板・初勝利・初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1981年4月7日、対日本ハムファイターズ1回戦(後楽園球場)[6][7]
- 初セーブ:1981年5月29日、対日本ハムファイターズ10回戦(後楽園球場)、9回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点[8][9]
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:3回(1982年、1986年、1987年)
背番号
[編集]- 20 (1981年 - 1984年)
- 14 (1985年 - 1986年)
- 21 (1987年 - 1990年途中)
- 28 (1990年途中 - 1991年)
- 31 (1992年 - 1993年)
- 76 (1995年 - 1997年)
- 70 (1998年 - 2001年)
- 71 (2004年 - 2005年)
- 85 (2006年 - 2008年)
- 77 (2009年)
- 78 (2010年)
- 88 (2012年 - 2014年)
- 73 (2017年 - 2018年)
脚注
[編集]- ↑ “LinQ卒業の杉本ゆさ、来季楽天コーチの父・正氏と“本音”対談 アイドルの親の心境は…”. スポニチアネックス (2016年12月15日). 2024年4月15日閲覧。
- 1 2 3 4 5 森岡浩 編『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年、289頁。ISBN 4-8169-1771-3。
- 1 2 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ↑ 「プロ野球情報 東尾にエースの勲章」『北海道新聞』(縮刷版) 1980年(昭和55年)12月14日付朝刊、14面(スポーツ面)。
- ↑ 「西武、岡村ら三人の入団発表」『北海道新聞』(縮刷版) 1980年(昭和55年)12月24日付朝刊、12面(スポーツ面)。
- 1 2 「初登板…いきなり完封 新人杉本が殊勲 日ハムを4安打料理」『北海道新聞』(縮刷版) 1981年(昭和56年)4月8日付朝刊、14面(スポーツ面)。
- 1 2 「最後と覚悟したプロ初先発 球場に両親招待…まさかの結末、元ドラ3が知った“立ち位置”」『Full-Count』2026年4月6日。2026年4月19日閲覧。
- 1 2 『読売新聞』(縮刷・関東版) 1981年(昭和56年)5月30日付朝刊、17面。西武対日本ハム10回戦の試合結果より。
- 1 2 『北海道新聞』(縮刷版) 1981年(昭和56年)5月30日付朝刊、15面(スポーツ面)。西武対日本ハム10回戦の試合結果より。
- ↑ 「アレっ、先発で4回途中KOなのに…杉本正、特例の白星」『スポーツニッポン』。2009年8月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年4月19日閲覧。
- ↑ 埼玉西武ライオンズ黄金投手陣の軌跡、2013年、ベースボール・マガジン社、P38
- ↑ 【プロ野球OBに会いに行く】広岡さんの食事制限が辛すぎて寮出ました【杉本正】【高橋慶彦】 - YouTube
- ↑ “中日・田尾安志、契約更改から4日後に西武へトレード”. スポーツニッポン (2011年1月1日). 2011年11月15日閲覧。
- ↑ 「オフの送別ゴルフ」冗談が本当になった。仰天!中日キャンプへ持参するものとは?【杉本正さん&大石友好さん1話】 - YouTube
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 月刊ドラゴンズ2025年9月号、ドライマ~元竜戦士の現在地~、杉本正さん、福岡トヨタで若い投手を指導、48-49頁
- ↑ 「山本浩500ホーマー 史上4人目」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)7月27日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ↑ 「【きょうは何の日】1986年9月11日 | 広島東洋カープ」『中国新聞』2020年9月10日。2020年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月8日閲覧。
- ↑ 「広島ジワリ1.5差 延長十一回 山本浩、サヨナラ24号」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)9月12日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ↑ 「先行中日 逃げ切り 大洋拙攻、好機つぶす」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)4月27日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ↑ 「昇り竜 コイひとのみ 中尾先制2号 小刻み加点 杉本が今季初完投」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)5月3日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ↑ 「落合が決勝アーチ 阪神、仲田見殺し4連敗 杉本完封 中日4連勝」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)5月9日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ↑ 「杉本、絶妙の6勝目 広島零敗」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)5月31日付朝刊、14面(スポーツ面)。
- 1 2 「ブリューワ 杉本が獲得 5月のMVP」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)6月6日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ↑ 近藤貞雄著『野球はダンディズム』朝日新聞社、1988年、P147
- 1 2 3 4 5 6 7 “[中日左腕、突然の大乱調に監督激怒 待っていた通告…“消えぬ”違和感「どんどん悪くなった」 https://full-count.jp/2026/04/18/post1945329/]”. Full-Count(フルカウント). 2026年4月22日閲覧。
- ↑ “山﨑武司 これが俺の生きる道星野監督は中村武志さんを張り倒した直後、3ランを打った隣の俺にも鉄拳制裁…メチャクチャ痛かった”. 日刊ゲンダイ (2025年9月6日). 2025年9月20日閲覧。
- ↑ “[敵将からトレード打診→直後に成立 指揮官から「これでいいんだろ!」も…最後に知った本心 https://full-count.jp/2026/04/19/post1946082/]”. Full-Count(フルカウント). 2026年4月19日閲覧。
- 1 2 3 4 “敵将から説得3年で「もう往生しろ」 “陥落”でライバル球団へ…待ち受けた「松坂フィーバー」”. Full-Count(フルカウント). 2026年4月22日閲覧。
- ↑ 東尾修著、負ける力、2023年、集英社インターナショナル、126頁
- ↑ ベースボールマガジン2022年6月号、横浜ベイスターズ盛衰記、伊原春樹の球界回顧録第62回、追憶は回る右腕とともに。回顧テーマ、横浜ベイスターズ、94頁
- ↑ スポーツニッポン2020年2月20日森繁和の我が道⑱、11版
- ↑ 日刊スポーツ 1998年10月13日
- ↑ 読売新聞、1998年10月25日付朝刊、P.19
- ↑ 週刊ベースボール、1998年11月9日号、P.29
- ↑ ベースボールマガジン2022年6月号、横浜ベイスターズ盛衰記、伊原春樹の球界回顧録第62回、追憶は回る右腕とともに。回顧テーマ、横浜ベイスターズ、95頁
- ↑ 『スポーツニッポン』2020年9月28日付(第11版)「松沼博久の我が道 松坂勝てず投手コーチ責任痛感」
- 1 2 3 4 5 6 7 8 “引退から30年も「戻って来ないか」 切れ目ないオファー…65歳で選んだ“初体験””. Full-Count(フルカウント). 2026年4月23日閲覧。
- ↑ 週刊ポスト2008年7月18日号
- ↑ 週刊ベースボール2007年6月18日号
- ↑ “横浜 杉本投手コーチ&駒田打撃コーチが退団”. スポーツニッポン (2009年10月5日). 2011年11月15日閲覧。
- ↑ “杉本正氏、KIAの1軍投手コーチに就任”. 聯合ニュース (2010年1月5日). 2011年11月15日閲覧。
- ↑ “2012年度コーチングスタッフ発表!”. 埼玉西武ライオンズ (2011年11月11日). 2011年11月15日閲覧。
- ↑ 2012年度 パシフィック・リーグチーム投手成績
- ↑ 西武 石井貴投手コーチが急転辞任 8月投手陣不振の責任取り Sponichi Annex 2013年10月19日
- ↑ 杉本投手コーチに2軍配置転換2013年10/15付サンケイスポーツ
- ↑ 2014年度 コーチングスタッフ発表! 埼玉西武ライオンズ公式サイト(2013年10月22日配信)2013年11月3日閲覧。
- ↑ 埼玉西武ライオンズコーチ来季契約について 埼玉西武ライオンズ公式サイト(2014年10月2日配信)2014年10月2日閲覧。
- ↑ 松坂を3年間指導…杉本氏は見た「力から技へ、松坂の変身」 2015年2月19日スポニチ
- ↑ 来季のコーチ契約に関して 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト(2018年10月5日配信)2018年10月5日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 杉本正 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)