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フランキー・フリッシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランキー・フリッシュ
Frankie Frisch
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区
生年月日 1897年9月9日
没年月日 (1973-03-12) 1973年3月12日(75歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
165 lb =約74.8 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 二塁手
プロ入り 1919年
初出場 1919年6月14日
最終出場 1937年8月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
殿堂表彰者
選出年 1947年
得票率 84.47%
選出方法 全米野球記者協会選出

フランキー・フリッシュ(Francis "Frankie" Frisch、1897年9月9日[1] - 1973年3月12日) は、アメリカ合衆国・ニューヨーク市ブロンクス区出身のプロ野球選手(二塁手)、監督。右投両打。

ニックネームは"The Fordham Flash"(フォーダム・フラッシュ)。これは彼がフォーダム大学の出身であることから来ている。

経歴

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1897年9月9日、ニューヨーク州ブロンクス区でリネン製造会社を営む両親の下に生まれる[2]。

フォーダム予備校を経て、フォーダム大学に入学。大学時代は野球部・バスケ部・アメフト部・陸上部の4部活でキャプテンとして活躍するなど、抜群の運動神経を発揮した[2]。

現役時代

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1919年、大学卒業後にニューヨーク・ジャイアンツへ入団。入団当初はマイナーリーグへの降格が予定されていたが、「マイナーに落ちたら、野球界から足を洗って家業を継ぐ」と、監督のジョン・マグローに訴え、1年目からMLBでプレー[2]。8月には二塁手のレギュラーに定着すると、最終的には54試合に出場した。

3年目の1921年には打率.341、49盗塁で初の盗塁王を獲得。その後もジャイアンツのキャプテンとして、リーグ4連覇に貢献。1923年には最多安打、翌1924年にリーグ最多得点を記録している。

しかし、キャプテンという性質上、チームの引き締めのためマグロー監督から日常的に批判されることとなる。当初はチームのために耐えていたフリッシュだったが、チームの成績が低下していくと、次第に反発[2]。1926年頃には、マグローとの関係は修復不可能となるほど悪化した[2]。

そのため1926年オフ、ロジャース・ホーンスビーとのトレードでセントルイス・カージナルスに移籍。移籍初年度の1927年には、打率.337、208安打、48盗塁をマーク。自身二度目の盗塁王となるとともに、守備でも補殺、併殺数でリーグ最多を記録するなど、攻守で活躍を見せた。この年に記録した641補殺は、1シーズン補殺数(二塁手)のメジャーリーグ記録(2026年現在)である。

フリッシュは1930年代の「ガスハウス・ギャング」と呼ばれていたチームを牽引し、1928年以後4度ワールドシリーズに出場。1931年にはシーズンMVPを獲得。同年オフに行われた日米野球にも、全米代表として出場している[3]。

1933年途中には選手兼任監督に就任。同年行われた第1回オールスターゲームにて、オールスター第1号本塁打を放った[2]。1934年にはチームをワールドシリーズ制覇へと導いている。1937年限りで現役を引退し、監督専任となるが、翌1938年限りで成績不振のため解任される。

パイレーツ監督時代(1942年)

1939年の1年間はラジオの野球解説を務めたのち、1940年からはピッツバーグ・パイレーツの監督に就任[2]。在籍7年間でAクラス5回、1944年には90勝をあげるもののリーグ制覇はできなかった。

1946年の監督退任後は、ラジオ解説者として人気を博す[2]。1947年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。

1948年にジャイアンツのコーチで球界に復帰。翌1949年途中に、途中解任されたグリム監督の後任としてシカゴ・カブスの監督をつとめたものの、在籍時のチームの順位は毎年7位から8位と全く振るわなかった。監督としてリーグ制覇を成し遂げたのは、結局兼任監督であった1934年の1度きりだった。

晩年

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その後はラジオの実況解説などを行っていたが、1956年に心臓発作を起こしてから、それらの活動も制限するようになっていた。その後フリッシュは、アメリカ野球殿堂のベテランズ委員会の委員長職を務めた。その影響力は大きく、特に彼のチームメイトだった選手たちの殿堂入り選考については、多くの批判があった。

1973年、フロリダでのベテランズ委員会の会議から、車でロードアイランド州へ戻る途中に交通事故を起こし重傷を負い、1か月後にその後遺症が元で死去した。75歳没。

選手としての特徴

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大学時代は遊撃手だったが、守備範囲の狭さから、2年目の1920年からは二塁手としての起用が中心となった[2]。

スイッチヒッターであり、長打力のある右打席と、打率を重視した左打席とを使い分けていた[2]。

詳細情報

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年度別打撃成績

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年

度
球

団
試

合
打

席
打

数
得

点
安

打
二
塁
打
三
塁
打
本
塁
打
塁

打
打

点
盗

塁
盗
塁
死
犠

打
犠

飛
四

球
敬

遠
死

球
三

振
併
殺
打
打

率
出
塁
率
長
打
率
O
P
S
1919 NYG 541971902143322562415-3-4-014-.226.242.295.537
1920 110473440571231010416577341113-20-018-.280.311.375.686
1921 15368761812121131178300100491326-42-128-.341.384.485.870
1922 1325825141011681613522551311718-47-313-.327.387.438.824
1923 151703641116223321012311111291211-46-412-.348.395.485.880
1924 145675603121198331572826922914-56-224-.328.387.468.855
1925 12054250289166266112374821125-32-314-.331.374.472.846
1926 1355895457517129452234423-11-33-016-.314.353.409.762
1927 STL 1536936171122083111102917848-26-43-710-.337.387.472.858
1928 141631547107164299102418629-19-64-117-.300.374.441.815
1929 13859852793176401252557424-17-53-212-.334.397.484.881
1930 1336115401211874691028111415-16-55-016-.346.407.520.927
1931 1315705189616124442058228-5-45-213-.311.368.396.764
1932 1155134865914226231816018-2-25-013-.292.327.372.699
1933 1476465857417732642336618-10-48-31620.303.358.398.757
1934 1406055507416830632197511-10-45-11017.305.359.398.757
1935 103402354521041621127552-14-33-1167.294.356.359.714
1936 933483034083100196262-8-36-1109.274.353.317.670
1937 17343237200940-1-1-002.219.242.281.524
通算:19年 23111009991121532288046613810539371244419*74229-728-31272*55.316.369.432.801
  • 「-」は公式記録なし。
  • 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
  • 太字はリーグ1位。

タイトル

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  • 盗塁王:3回 (1921年、1927年、1931年)

表彰

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監督としての通算戦績

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2246試合、1138勝1078敗、勝率.514、ワールドシリーズ出場:1回 (1934年)

出典

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  1. ↑ 生前、フリッシュは1898年生まれを自称していたが、当時のパスポートなどでは1897年生まれと記録されている。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 “Frankie Frisch”. 2026年6月21日閲覧。
  3. ↑ “1931年 日米野球 出場メンバー”. 2026年6月21日閲覧。

外部リンク

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