ジョルジュ・クートン
| ジョルジュ・クートン Georges Auguste Couthon | |
|---|---|
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ジョルジュ・オーギュスト・クートン | |
| 生年月日 | 1755年12月22日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1794年7月28日 |
| 死没地 |
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| 前職 | 弁護士 |
| 所属政党 | ジャコバン派 |
国民公会 | |
| 選挙区 | オーヴェルニュ |
ジョルジュ・オーギュスト・クートン(Georges Auguste Couthon, 1755年12月22日 - 1794年7月28日)は、フランス革命期における政治家・弁護士。ジャコバン派(山岳派)の指導者として知られる。
貧しい人々のための弁護士として活動し「貧しい人々の擁護者」と呼ばれたクートンは[1]、議員となった後、友人でもあるロベスピエールの右腕として尽力した[2][3]。
生涯
[編集]法律の道へ
[編集]オーヴェルニュ地方のピュイ=ド=ドーム県にあるオルセ(フランス語版)に生まれる。下層中流ブルジョワジーの家庭に生まれた4番目の子供で、一家は公証業務と商業の両方に従事していた[4][1]。
父ジョゼフはクレルモン=フェランの公証人で、オルセでは第二参事会員と判事の職も務めている。母方の祖父マリー・ラフォンはクレルモン=フェランの牛商人であった[1]。
クートン自身も法律の道を選び、大学卒業後、リオム(英語版)の王室検察官の下で法律を学び検察官事務所で事務員として働き始める。ランスの法学部で学位を取得した後、クレルモン=フェランに移り、後に憲法制定議会議員となるジャン=フランソワ・ゴルチエ・ド・ビオザ(フランス語版)の事務所に勤務した[4][1]。
1781年、クートンはパリへ移り、首都の議会に弁護士として登録した。顧客が少なかったため、翌年にはクレルモン=フェランに戻り、1783年5月にオーヴェルニュの首都にある弁護士会に研修弁護士として登録している。市中心部にあるアパートに居を構え、1785年にオーヴェルニュの首都の弁護士会に正式な弁護士として認められた[1]。
貧しい人々の擁護者
[編集]他の多くの議員と同様、クートンは1780年代後半から地元の社交界に参加している。クートンは1786 年 12 月 2 日にサン・モーリス・ロッジとクレルモン・ロッジでフリーメイソンに入会し、すぐに重要な地位に上り詰めた。クレルモン=フェラン市の司法諮問委員会にも入っている。早い内から人文主義者として知られ、無料相談所も提供し、サン=ジャネにある慈善事業局の委員にもなった彼は「貧しい人々の擁護者」と呼ばれ、多くの貧しい人々を無償で助けた。博識な人物でもあり、クレルモン=フェランの文学協会の会員に認められた[4][1]。後の話になるが、議員時代の蔵書は116冊であり、これはリヨンの弁護士たちにおける平均 160 冊、ロベスピエールの200 冊以上、ペティヨン(英語版)の550冊近くよりは少ないが、サン=ジュストの67 冊よりは多い[4]。
健康状態が不安定だったクートンは、若い頃から体の痛みに苦しんでおり、1782年から徐々に足が不自由になり、杖をついて歩くようになった。1787年、オルセの弁護士の娘であるブリュネルという女性と結婚し、2人の子供をもうけている[1]。
革命の勃発
[編集]オルセ教区の代表として三部会選挙に参加したクートンは、1789年5月からは新議員となったビアザの書簡を配布し、クレルモン市民の気持ちを伝えようとする通信委員会における活動的なメンバーだった。7月14日以降はクレルモン=フェランの常任市議会議員であり、1790年1月24日に行われた第1回投票で同市の3人目の市政官となった。新市長ビアザが議会に出席し不在だった間、彼は同僚と共に代役を務めた[4]。
1790年3月17日、クートンは憲法友の会(ジャコバン・クラブ)の創設に関わった。後に(1793年)「革命はここで準備され、ここで起こり、ここで全ての偉大な出来事が準備されたのだ」と語っている。1791年7月にはフイヤン派に加わったビアザと、共和制を主張するクートンとその友人たちは決別した[4]。
1790年11月8日以降、クートンはクレルモン=フェランの地方裁判所長に選出され、市議会議員の職を辞している。一方、文学に惹かれていたクートンはクレルモンの印刷業者から協力を得て『改宗した貴族』という2幕の喜劇を匿名で出版した。この戯曲はユートピア的なビジョンを反映したもので、主人公は情熱的な平等主義と共和主義の宣言を唱え、新価値観の擁護者である熱烈な大佐であり、アンシャン・レジームの支持者を自らの大義に結集させる[4][1]。
立法議会への選出
[編集]1791年9月9日、ピュイ=ド=ドーム県の代表として立法議会に選出され、パリのサントノーレ通りにあるモーリス・デュプレ(英語版)の家に居を構えた。そこにはロベスピエールも住んでおり、2人は親しくなった[1]。ロベスピエールは1792年5月19日から1794年4月まで『憲法擁護者』という憲法の話題を中心に据えた新聞を創刊していたが、この活動をとりわけ助けていた者のひとりがクートンだった[5]。
クートンは優れた影響力のある演説家となった。彼は国王が「フランス国民全体の王」となるよう尽力した人物である。彼によれば、宮廷は「国民に対するあらゆる陰謀の温床」であった。 また、王について議長よりも高い地位に座るべきではないと主張した[4][1]。その他、議会の委員会の権限など、諸々の重要な問題について積極的に発言した[4]。
10月からパリのジャコバン・クラブの一員となり、同年11月後半の議長に選出された彼は、1792年4月と6月に「自由のための十字軍」である戦争を支持する演説を行ったが、同時にラファイエットにも反対した。7月にヴァランシエンヌを通過する際には立法議会に手紙を書き、ラファイエットの後任となったデュムリエに対して兵士たちが愛情を抱いていることを表明している[4]。
1791年の冬、彼は下半身麻痺となり、車椅子を使わざるを得なくなった[1]。

国民公会への選出
[編集]1792年9月には、ピュイ=ド=ドームの代議士として再選され、山岳派に加わった。元々、反君主主義者だったクートンは、ルイ16世の裁判では控訴も猶予もなしの死刑に賛成票を投じている[1]。
国立法令保管局局長でもあったルイ・ロンドンノーが構成した『革命歴史蔵書』は、ビヨー=ヴァレンヌが彼に革命法規集編纂を担当させたものだが、この仕事にはクートンも加わっていた。その計画は失敗に終わったものの、法令の激増を回避し、採択された法令とそうでない法令との間で選別を行い、また歯止めの利かない暴力行為を招く法令を取り除こうとする配慮が目立っていた[6]。
リヨンへの派遣
[編集]6月2日、蜂起民の威圧の元で国民公会はジロンド派議員29名と2人の大臣の逮捕を決定した。逮捕されたジロンド派への監視はゆるく、何人もが逃亡に成功している。ノルマンディなどに逃れた議員は、パリを批判する連邦主義の反乱を煽動した[7]。リヨンでは、穏健共和派が支配するセクションがジャコバンのシャリエ派が握っていた市政を奪還し、7月17日にジョセフ・シャリエ(フランス語版)らを処刑した。連邦主義の反乱では「敵の敵は味方」という戦術論から連邦主義者と反革命勢力が実際の運動で手を結ぶこともあり、リヨンの反乱の動きは反革命に近づいていた[8]。8月上旬から共和国軍との戦いが始まったが、10月17日に降伏した[9]。
1793年5月30日、彼は公安委員会のメンバーになり、8月には反革命的な行動をとったリヨンへの派遣議員となった。都市の包囲を強固なものにするため、国民皆兵の制度を整えた後、デュボワ・クランセが6万の兵員を集めてリヨンを包囲しているところに、監察に出向した。
クートンらが措置を担当したのは、1793年10月9日から11月3日までである[10]。公会議長ルイ=ジョゼフ・シャルリエの宣言の中で「リヨン市は破壊されるものとする」[11]とされたが、実際に徹底的な破壊は行こなわれていない。教会から鐘や典礼用の飾り付けが撤去され、倉庫あるいは集会用の会場に転用されるといった場面は見られたが、歴史的建造物や大きな建物に甚大な被害が及ぶことはなかった[12]。クートンは煽動的な発言を行い、特別軍事法廷を設置し、手続きを遵守する特別人民法廷を併設し、200名余りが有罪判決を受け処刑された。しかしこの訴訟手続きは、新たな派遣議員であるジョゼフ・フーシェ、コロー・デルボワらが派遣されるまでには、容赦ない報復を望むシャリエ支持派に不満を覚えさせていた。その後、フーシェとコロー=デルボワは訴訟手続きを過激化させた[13]。
1793年8月、家族の財産をめぐる決定における、妻の対等な役割に対する権利の問題について論じられた。メルラン・ド・ドゥエ(英語版)が「女性は一般的に管理能力を欠いており、男性は生まれながらに優越するのだから、男性は女性を守らなくてはならない」と主張したのに対し、クートンは「女性は男性と同じだけの能力を持って生まれる。もしこれまでの女性がそのことを示さなかったとしたら、それは自然のせいではなく、我々のかつての諸制度のせいだ」と反論した。クートンらは人々の支持を得たが、この考え方が反映された法が完全に適用されることはなかった[14]。
プレリアル22日法
[編集]10月半ば、「外国人の陰謀事件」と呼ばれる汚職事件が発生した。アンシャン・レジーム期の特権会社で革命期に廃止が決まった東インド会社の清算に関し、大がかりな横領や汚職が行われ、エベール派・ダントン派の議員たちや保安委員会の委員も手を染めた人々の中に含まれていた[15]。クートンは腐敗分子として粛清されたエベール派とダントン派の排除にも関与した[2][16]。4月1日、公安委員会に警察局が設置され、権限を制限された保安委員会はロベスピエール、クートン、サン=ジュストを恨むようになった[17][18]。同月23日、この3人を構成員とする治安維持局が新しく創設された[19]。この取り組みはサン=ジュストによって設置が布告されたもので、保安委員会の不利になる形で、ロベスピエールを中心とした公安委員会を一層強化するものだった。設置から5日後、北部方面軍に派遣されたサン=ジュストに代ってこの組織の責任者となったのはロベスピエールであり、『三頭支配』に対するさまざまな批判が可能となった。しかしながら、後にロベスピエールは裁判所の中央集権化を中断している[20]。
その後、6月10日(プレリアル22日)にクートンが1人で作成して国民公会に提出し[21]、後世には「大恐怖政治法」なる名称で伝わっている法案がプレリアル22日法である。この法令は「ヴァントーズのデクレ」の方向に沿って、反革命的な行為により明確に確認しうる人物のみを革命裁判所に出頭させるもので、特別人民法廷の原則を継承しつつも、革命裁判所に対する公安・保安委員会の統率をさらに強めるものだった。しかし手続きを極端に単純化したがゆえに、裁判の形態を加速させる危険をはらんでいるという印象を与えた[22]。
クートンが議会で説明したところによれば、これはダントン派の裁判に対する反省によるものだった。ダントン本人の法廷での雄弁が審理を長引かせ、革命裁判所や公安委員会を悩ませたのである。弁護士が巧妙な詭弁を弄して黒を白と言いくるめるのを避けようとしたのだった。同時に、これもクートンによると、弁護士が依頼人を恐喝して法外な弁護料を要求することもしばしば生じており、それを避ける必要もあった[23]。
この法令は、何が「人民の敵」となり得るのかの明確な定義について疑問点を残しており、その結果、犯意を考慮に入れることに、また、裁判官が自分の信条にもとづいて判決を下すことになっていた。この法令は、白色帽章あるいは武器を携行していた者すべてを、身許を記録する以外の手続きはせず、24時間以内に処刑するとした1793年3月19日の法の荒っぽさを改めたものだった(もっとも、多くの裁判機関は1793年3月19日の法を厳格には適用していなかった)[24]。この法令が初めて適用可能となるのは同月25日からだったが、6月11日にヴァディエ(英語版)が委員会を通す事なく革命裁判所に処刑させたのを皮切りに、プレリアル22日法が想定した特別人民法廷が機能しないまま、革命裁判所への出廷が激しく増加する結果を招いた[25]。この法令は議長のロベスピエールがクートンの提案を支持し、かなり強引な議事の運びでその日の内に採択したものだった[21]。一方で、クートンおよびロベスピエールの意思のみから生まれたとは見做し得ないものだったが、公安委員会内部および公安・監視委員会を前にしての、彼らの孤立を招いた[26]。
この時期の大量処刑で主要な役割を果たしたのはヴァディエ、バレール(フランス語版)、フーキエ=タンヴィルだった。6月以降、革命裁判所に送致される人物のリストを作る命令に対し、クートン、ロベスピエール、サン=ジュストの署名は滅多になされていない[27]。

テルミドール9日のクーデター
[編集]地方で過酷な弾圧を行っていたタリアンなどの派遣議員たちは[28]、自分たちではなくロベスピエール派を、エベール派・ダントン派に次ぐ第三の「打ち倒されるべき陰謀家」に仕立てる計画を立てていった[29]。
7月27日、テルミドール9日のクーデターが勃発する。国民公会は朝11時に開会した。正午過ぎにサン=ジュストが演壇に上がり、ロベスピエールを擁護する発言を始めたが、タリアンに遮られた。ロベスピエールも壇上に上がろうとしたが「暴君を倒せ」の声にやじり倒されてしまう。午後4時もしくは5時、ロベスピエール、その弟のオーギュスタン、サン=ジュスト、ルバ(英語版)、そしてクートンの逮捕が決定された[30]。クートンが連行されたのはラ・ブルブという留置所だった[31]。
パリのコミューンはロベスピエールを支持していたので、逮捕された議員は牢獄に向かう途中でコミューン関係者によって解放され、市庁舎に入った[32]。午後1時頃、ロベスピエールとクートンは軍隊に呼びかける決定を下し、クートンはこれを「国民公会の名において」呼びかけることを提案したが、結局「フランス人民の名において」が採用された[33]。パリの町を構成する48セクションは事件のニュースを聞いて集会を開いた。コミューンからの蜂起の呼びかけに応じて市庁舎に代表を送ったセクションもあるが、多くは情報収集に努め、ロベスピエール派の逮捕が国民公会の正式な決定であることを知ると、コミューンの指示を無視して市庁舎を離れた。コミューンはほとんど何もしないまま、夜が更けていった。国民公会はバラスに軍を委ねて、ロベスピエール派の逮捕に向かわせた。深夜2時頃、バラスは市庁舎に入り、ほとんど無抵抗のロベスピエール派議員を逮捕した[32]。
傷について
[編集]
公会側の部隊に襲撃され、クートンは重傷を負った[34]。この時のクートンについて、バレールは「転落して負傷した」と説明し、ブルドンは憲兵メダを紹介する語りの中で「刀剣をもって抵抗しようとした」とし[35]、メダ自身によれば「1本の短剣を武器として持っていたクートンにも打撃を与えた」「クートンを運びながら階段の中に逃げた1人の男に発砲して、負傷させ、クートンを転落させた」という[36]。バラスは「テーブルの下に身を隠していた」とする[35]。
傷を診察した外科医の申告書によれば、「クートンはテルミドール10日、午前5時に救護所に運ばれてきた。彼は左側の前頭部に、骨が露出するまでには至っていないが、骨まで達する1プース(2.54センチ)の斜めの挫傷を負っていた。彼の脈拍は弱くなっていた。彼は第15号手術室に寝かされ、包帯をされた。彼は到着した時には意識不明のように見えたが、そのあと意識を取り戻し、傷は転落の結果だと語った」とある[37]。歴史学者のミシェル・ビアールはこの傷について、肘掛け椅子からの転落や単なる衝撃によるものではできないと思われるとし、報告書の時間を鑑みて、自殺未遂だったのではないかと考察している[38]。
処刑台に向かう際は、瀕死のロベスピエールが乗せられた担架の近くを死刑囚運搬車が行くかたちだった。クートンとオーギュスタンは重傷を負い、ルバは死んでおり、国民衛兵司令官アンリオ(フランス語版)は半裸かつ血濡れで片方の眼が破裂していた。サン=ジュストのみ無言で変わらぬ態度だった。この光景はロベスピエール支持者への警告でもあった[39]。この後、10日から12日にかけて更におよそ100名が処刑された[40]。
クートンをギロチンにかけるにあたって、麻痺のある彼を台に横たわらせるのに死刑執行人は苦労した[41]。
未亡人となったクートンの妻ブリュネルは1843年9月17日、クレルモン=フェランにて78歳で亡くなり、オーヴェルニュの首都にあるカルムの墓地に埋葬された[1]。
クートンの登場する作品
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 https://www.amis-robespierre.org/?Un-auvergnat-meconnu-Georges-Couthon
- 1 2 マルタン2026、P.602
- ↑ マルタン2024、P.309
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 https://www.amis-robespierre.org/?George-Aristide-Couthon
- ↑ マルタン2024,P.203
- ↑ マルタン2026、P.570
- ↑ 山崎2018、P.161
- ↑ 山崎2018、P.163
- ↑ 山崎2018、P.179
- ↑ 小井2007、P.226
- ↑ 小井2007、P.228-229
- ↑ マルタン2026、P.575
- ↑ マルタン2026、P.575-576
- ↑ マクフィー2022、P.279
- ↑ 山崎2018、P.186
- ↑ 山崎2018、P.206
- ↑ 山崎2018、P.216
- ↑ 山崎2018、P.219
- ↑ マクフィー2022、P.350
- ↑ マルタン2024、P.357
- 1 2 山崎2018、P.212
- ↑ マルタン2026、P.620-621
- ↑ 山崎2018、P.213
- ↑ マルタン2026、P.621
- ↑ マルタン2026、P.626-628
- ↑ マルタン2026、P.622
- ↑ マルタン2024、P.376
- ↑ 山崎2018、P.191
- ↑ 山崎2018、P.220
- ↑ 山崎2018、P.222
- ↑ ビアール2023、P.162
- 1 2 山崎2018、P.222
- ↑ マルタン2024、P.389
- ↑ ビアール2023、P.61
- 1 2 ビアール2023、P.164-165
- ↑ ビアール2024、P.326
- ↑ ビアール2024、P.165
- ↑ ビアール2023、P.165-166
- ↑ マルタン2024、P.391
- ↑ ビアール2023、P.127
- ↑ マルタン2024、P.391
参考文献
[編集]- 山﨑耕一『フランス革命「共和国」の誕生』(刀水書房、2018)、ISBN 4887084439
- 小井高志『リヨンのフランス革命 自由か平等か』(立教大学出版会、2006年)、ISBN 978-4901988070。
- ミシェル・ビアール(フランス語版) 『自決と粛清 フランス革命における死の政治文化』2023年2月、ISBN 978-4865783780
- ジャン=クレマン・マルタン(フランス語版)『ロベスピエール 創られた怪物』法政大学出版局、2024年8月、ISBN 4588011731
- ジャン=クレマン・マルタン、「新フランス革命史」法政大学出版、2026年7月。ISBN 978-4588012068。
- ピーター・マクフィー 著、永見瑞木・安藤裕介 訳『フランス革命史――自由か死か』白水社、2022年。ISBN 978-4-560-09895-0。