2015年8月、さいたま市在住のジョイス津野田幸子(78)=ハワイ大学コミュニティーカレッジ名誉総長=のもとへ、宅配便の小包が届いた。中には古びた野球の硬式ボールが3つ入っており、うち1つに「西村ゆきお(幸生)」のサインがあった。
西村は戦前に職業野球と呼ばれたプロ野球の大阪タイガース(現在の阪神)のエース。巨人キラーとして名をはせたが、1945年にフィリピンで戦死した。ボールは西村が関西大学の主将として36年にハワイへ遠征したときのものだった。
幸子は西村の長女。ボールはハワイの民家で保管されていたのが見つかった。「父が直接握ったボールを自分の手にすることができた感動といったら…。父と触れ合えたような気がして涙が出ましたね」。幸子は6歳で別れた西村へ思いをはせた。
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西村は1910(明治43)年、現在の三重県伊勢市に生まれた。旧制の県立宇治山田中学時代から本格派の右腕として知られたが甲子園出場の夢は果たせず、卒業後はいったん名古屋市の愛知電鉄(現在の名鉄)に就職。同社のチーム「鳴海倶楽部」で2年間プレー後、31年に関大予科へ進学した。
入学時、すでに20歳だった西村は32年、関大の主力投手の1人として当時の関西六大学リーグの春秋連覇に貢献。翌33年春のリーグ戦も制覇すると、チームは6月13日に神戸港からの旅客船・秩父丸でハワイ遠征に出発する。ここで西村にとって運命の出会いが待っていた。
熊本県の親類宅を訪問後、ハワイへ帰るため秩父丸へ乗り合わせていた日系2世の東末子に西村はひと目ぼれ。日本語があまり得意ではない末子に、西村は知っている限りの英語を駆使し、猛アタックをかけた。
末子も西村に好意を覚えたようだ。「母は『ハワイへ戻ってから、関大の試合をときどき見に行った』と話していました」と幸子は回想する。
2人は3年の空白期間を経て再会を果たす。西村が最上級生で主将となった36年、関大は2度目のハワイ遠征へ出発。太平洋上で西村は思いもかけなかった電報を受け取り、飛び上がって喜ぶ。「ウエルカム ユキオ」の一文は、チームの来訪を現地の日系人向けの新聞で知った末子からのものだった。
実は西村も日本をたつ前、「3年前に会ったハワイの女性がもし、まだ独身だったら結婚を申し込みたい」と父の才吉へ打ち明け、承諾を得ていた。
チームがハワイへ到着すると、滞在先のホテルでは末子が花束を持って出迎えた。こうなると話は早い。関大はこのとき現地のチームと対戦し、20勝2敗の好成績を残した。エースとして、主将として大車輪の活躍を見せた西村は最優秀選手に選ばれたが、その表彰式で末子との婚約が発表された。
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今回、幸子のもとへ送られてきた3つのボールは関大が36年7月18日、オアフ精糖会社のチームと対戦し、6-0で破った試合のものだ。当時、チームにバットボーイ(用具係)として帯同し、マスコット的な存在でかわいがられていた日系人の少年、サムエル・コイデ・サブロウへチーム全員が記念にサインをして贈った。
幸子は昨年1月、大阪市内で開催された関大野球部100周年記念式典に出席した際にコイデの存在を知り、その後、コイデ本人が米本土で健在であることを突き止め、連絡を取った。医学の研究者として成功したコイデは今年93歳。幸子が自分の父の名を告げると、コイデは「ああ、ニシムラ・ユキオ! グッドピッチャー、グッドピッチャー」と80年前の記憶が鮮やかによみがえった様子だった。
ハワイ独特の赤土にまみれた3つのサインボールの存在はコイデ自身も忘れていたが、その後、実家に無事保管されていたことが分かり、幸子のもとへ届けられた。
関大がオアフ精糖会社と試合を行ったグラウンドのあるワイパフ地区の目の前には真珠湾が広がっている。わずか5年後の41年12月8日、ここで日米開戦の火ぶたが切られるとはだれもが予想できなかった。(三浦馨)
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今の阪神にこんな頼もしい投手がいてくれたら、と虎ファンは願っているのではないか。「初代巨人キラー」、あるいは「酒仙投手」の名で知られる伝説の名投手、西村幸生の知られざるエピソードを関係者の証言や資料などをもとに、上中下3回にわたってお伝えする。
=敬称略




