ワンパンマン160話からみる人間とAIの関係

ワンパンマンという漫画が好きだ。
好きすぎて、本題の160話に入る前に、まずこの漫画がなぜ面白いのかという話を少しさせてほしい。

結末が決まっているのに面白い、という珍しさ

物語の基本形は、問題が起きて、ハードルがあって、解決する、という流れだ(「漫画脚本概論」にて提唱)。この骨格自体はどの漫画もさして変わらない。
ワンパンマンが変わっているのは、このうち「解決」の部分だけが最初から固定値であることだ。最後は必ずサイタマがワンパンで倒す。読者は全員それを知っている。落ちが割れているのに面白い。
なぜか。解決が保証されているからこそ、読者は安心して絶望的な戦況を楽しめるし、「いつ、どういう形でサイタマがたどり着くのか」という導線そのものが見せ場になるからだ。160話には、ジェノス(サイタマの弟子)のこんな台詞まである。
「必ず勝つ。おそらくこのあとサイタマ先生が来てしまう前にな」
解決の固定を、作中のキャラクターまでもが前提にして動いているのだ。
(これは結果を知っている映画を見るときに、却って物語の随所でここは最終的にここに繋がるんだな、といったポイントを深く観れて逆に面白かった経験はないだろうか、、それに似ているかもしれない)

なろう系と何が違うのか

この構図、一見するとよくある「なろう系」と似ている。主人公が圧倒的に強く、「俺つえーの快感」で読ませる(よくある転生物もその構造)という骨格だけ見れば同じだ。
違いは、サイタマという人間の描き方にあると思っている。
サイタマは自分の強さを誇らない。強くなりすぎて、戦いに退屈している。これだけ聞くとなろう系の定型に聞こえるが、実際の描写はもっと生々しい。目標に向かってもがいていた時期を抜けて、望んだ場所に着いてしまったあとの、あの喪失感。お金を稼ぐために必死だった人が、ある程度稼いだときに「あれ、何のためだっけ」となる感じ。仕事を始めた頃に憧れた「できる人」に自分が近づいたあとの、妙な空白。誰もが人生のどこかで感じるあの感覚が、サイタマには丁寧に載っている。
だから読者は不快にならずに読める。なろう系の一部に感じる、身の程を知らない万能感の恥ずかしさがない(ここはONE氏自身の人生経験が乗っているのだろうと勝手に思っている)。
もう一つ、サイタマは他人にほとんど興味がない。ヒーロー活動だけが彼の趣味であり軸で、それ以外は極めて平凡な人間だ。スーパーの特売を気にし、長い話には露骨に飽きる。承認欲求がゼロなわけではなく、「自分のヒーロー活動はもう少し評価されていいはずだ」「モテたい」くらいの、一般人が持ち合わせる程度の欲は普通にある。ただ、それで軸は曲げない。この「普通さ」が作品を通してほぼぶれない。

サイタマを、五条悟のように描かない

そしてこの漫画の肝は、周囲の人間の描き方にある。弟子のジェノスを除けば、誰もサイタマを過度に褒めない。むしろ不遇な立場に置かれ続ける。サイタマの強さを知る人間は物語が進むにつれ少しずつ増えるが、その増え方が慎重にコントロールされている。
比較すると分かりやすい。五条悟やリヴァイ兵長は「誰もが認める最強キャラ」だが、物語の結末は必ずしも彼らの圧勝ではない。それどころか、彼らは物語の都合上、肝心な場面に居合わせなかったり、最後の敵には通用しなかったりする。つまり彼らは、絶望感を演出するための強力な舞台装置として使われている。最強であることと、解決役であることは別なのだ。
サイタマは逆で、解決役であることが固定されている。その上で「誰もが認める最強」という称賛まで与えてしまうと、物語の緊張が失われる。だからこの漫画の面白さは、次の二つの釣り合いで成立していると考えている。
一つ、サイタマが承認されることにさほど関心がない、極めて平凡な感性の普通の人間であり続けること。二つ、サイタマの強さを知る人間と知らない人間の比率を保ち、周囲から過度に持ち上げられない状況を維持すること。
このバランスは相当に繊細で、実際、村田版ではこの釣り合いがやや崩れたと感じる場面が時折あり、その都度コメント欄が荒れている(批判の意図はない。むしろ、いかにこの均衡が難しいかの証明だと思う)。ONE版の簡素な絵柄、あの雑なサイタマの顔つき自体が、称賛が過熱しないための装置として機能していて、精巧な絵柄では再現しにくいのかもしれない。
(あと絶対に女性からモテないというのも重要。変な恋愛を入れ出すと絶対に均衡が壊れると思う)

160話:すべての戦闘データを持つ敵

前置きが長くなった。160話の話をする。
この話では、ジェノスがAI兵器の軍団と対峙する。相手は「ハートギア」。その名の通り、心臓の形をした兵器で、世界中の破壊兵器から戦闘データを吸い上げている。蓄積した情報の量で言えば最強の存在だ。
心臓の形はしているが、心は持っていない。ハートの「形式」だけを備えた機械。データをいくら積んでも心そのものにはならない、というこの話の主題が、敵のデザインにそのまま織り込まれている(考えすぎかもしれないが、こういう読み方をさせてくれる余地があるのがいい)。
情報を大量に取り込んだものが最強になる。この設定は、昨今の「AIがすべてを解決する」という空気とも重なって見える。
これに対してジェノスが出す答えが、この話の核心だ。彼は日々サイタマを研究する中で、一つの結論に達している。それをAI兵器に向かってこう言い放つ。
「サイタマ先生の強さ・・・いや人類の強さは夢や憧れを心で再現するもの・・・吸収した情報が如何に膨大だろうとそこに力の根元である心は含まれない。自分の心一つで変われるのが人間の強さだ」
これはONE氏が今回込めたメッセージだと私は受け取った。

人間に残るのは、根拠なく夢想する力

この考え方には、実は思想的な裏付けがある。『サピエンス全史』では、人類とほかの動物を分けたのは「実在しないものを想像する力」だとされている。虚構を信じ、まだ存在しないものを思い描けたからこそ、人類は協力し、文明を作れた。ジャンプ+で連載中の『群脳教室』にも、人類の特異性を空想する力に置く設定が出てくる(あちらは宇宙人との対比だが、構図は同じだ)。この見立ては、時代も媒体も超えて繰り返し語られている。
AIは、既にあるデータの膨大な吸収と組み合わせにおいて、人間を圧倒しつつある。ハートギアはその極端な姿だ。だが、まだデータになっていないもの、つまり「現実にはまだ無いが、できるはずだ」という根拠のない夢想は、定義上、過去の情報の中には含まれない。
そして人間は、その根拠のない確信を持ったときに、心のどこかのリミットが外れて、想像を超えた出力を出すことがある。それが実際に現実になるかは分からない。ただ、この「情報に根拠を持たない飛躍」こそが、人類史を前に進めてきた原動力であり、AIの時代にも人間側に残る強みなのではないか。

ジェノスの結論は、AI脅威論への反論としてはあまりに素朴に聞こえるかもしれない。でも、すべての戦闘データを持つ最強の兵器に対して、お前の吸収した情報の中に心は入っていない、と言い切るこの構図は、データの量で競う土俵から降りろ、という話でもある。AIと同じ土俵で情報量を競うのではなく、まだデータに存在しないものを夢想する側に立つ。160話が示している人間の居場所は、そこだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!