見出し画像

回覧板は、乳酸菌になった。

平日の夕方、近所の安いカラオケスナックへ行った。

客の入りは、マイクを独占するには申し分なく、家賃を払うには若干の勇気が必要な程度だった。

ビールの大瓶を二本。歌は五、六曲。

目的はストレス発散というより、声帯と肺と、ついでに社会的な存在感がまだ機能しているかを確認する健康診断に近い。

高い声が出れば、「まだ大丈夫だな」と思う。
出なければ、「そろそろ葬式で流す曲でも選んでおくか」と考える。

昨日は、ママさんと手伝いの娘さんに一杯ずつご馳走しても、店内には私を含めて三人しかいなかった。
客としては貸切りである。店としては、家賃という無口な客が、奥のテーブルに座っていた。

二曲ほど歌ったあと、話はなぜか回覧板になった。

失意の時期、私は鎌倉で十二、三年、一人で大きな屋敷に暮らしていた。

当時の私は、ドアチャイムが鳴っても出なかった。
出ないというより、玄関の向こうに用事のある人間など、だいたいろくなものではないと考えていた。

新聞、保険、宗教。
あるいは「皆さまの暮らしをより良く」という顔で現れ、月々の支払いだけを確実に増やして帰る人々。

だからチャイムが鳴ると、私はテレビの音を消した。
足音まで小さくした。家の中にいるのに、留守を演じる。

都会の独居者には、居留守という立派な避難訓練がある。

ところが、ときどき隣の家から回覧板が届く。
これは厄介だった。

誰も呼ばない。返事も求めない。ただ、玄関前に置いてある。

人間からは逃げられても、地域社会は紙になって侵入してくる。

開けば、公園清掃、盆踊り、防災訓練、資源ごみの日程。

要するに、
「あなたはこの町に住んでいる以上、完全な透明人間にはなれません」
という自治会からの穏やかな警告である。

ときには、近所の誰かの訃報も載っていた。
「○○様がご逝去されました」

会ったこともない人の死が、次の家へ回す書類としてやってくる。
町内会において、人の死は悲劇である前に回覧事項なのだ。

そして後で聞いた。

その亡くなった人は、玄関前の回覧板が何日も動かなかったことで発見されたらしい。

私は少し考えた。
回覧板とは、地域の連帯を象徴する紙だと思っていた。

違った。あれは、ときどき生存確認装置にもなる。

昨日まで流れていた紙が、一軒の玄関で止まる。
「おかしいわね」誰かが気づく。
人間の異変より先に、書類の渋滞が発見される。

なかなか日本的である。

本人が返事をしなくても、紙が「ここで止まっています」と報告してくれる。

私がそんな話をすると、店の娘さんが言った。
「うちの地域、もう回覧板ないですよ」時代である。
「その代わり、町内会費でヤクルトを配ってるんです」

私はビールを置いた。

ついに紙が乳酸菌になったか。

聞けば、配達員さんが定期的に各家庭を回ることで、住民の様子をそれとなく確認できるらしい。

なるほど。

回覧板には腸内環境を整える力はない。ヤクルトなら、そこまでやる。

「こんにちは。今日も一本どうぞ」その一言の裏には、
「よし。本日も返事あり」
という小さな生存確認が隠れているのかもしれない。

紙の回覧板なら、玄関前で三日止まってから問題になる。
ヤクルトなら、その場で分かる。

返事がない。出てこない。昨日の一本も残っている。

乳酸菌は、未読スルーに厳しい。

考えてみれば、不思議な仕組みである。
警察官でもない。医師でもない。民生委員でもない。
保冷バッグを持った人が町を歩き、腸内環境と生活の気配を同時に確認していく。

制度というものは普通、書類を持ってやって来る。しかし日本の一部地域では、冷えた小瓶でやって来るらしい。
しかも善意というものは、ときどき監視カメラより性能がいい。

監視カメラは映像しか見ないが、近所の人は、
「あら、今日はカーテン開いてないわね」
まで見る。

さらに翌日には、「最近どうしたのかしら」と情報共有が始まる。
地域ネットワークは、ときどき光回線より速い。しかも無料である。

いまの私はマンション暮らしで、回覧板はない。
隣人の名前も知らない。
廊下ですれ違えば、互いに軽く頭を下げる。

あれは挨拶というより、
「今後とも深く関わらない方向でよろしくお願いします」
という都市生活者同士の紳士協定に近い。

それでも週に一度、ヤクルトが届く。
もちろん、私が自分で注文している商品である。町内会費による安否確認ではない。

だから配達のお姉さんが、「こんにちは」
と言っても、そこに福祉的な意味はない。

ないはずである。
だが最近、ヤクルトを受け取るとき、私は少しだけ姿勢を正す。

髪をとかすほどではない。服を着替えるほどでもない。ただ、

少なくとも死体には見えない顔
を作って玄関を開ける。

「ありがとうございます」
声も少し大きめに出す。
これで今週も、生存確認は完了した。

冷蔵庫を開け、小さな容器を十本入れる。

そこで思う。

人生の終盤に必要なのは、誰かに毎日愛されることだけではないのかもしれない。
何かあったとき、「そういえば、最近見ないね」
と言ってくれる仕組みが一つあればいい。

家族でもいい。友人でもいい。隣人でもいい。
回覧板でもいい。
ヤクルトでもいい。

ただし――

死後に発見された理由が、
「乳酸菌飲料が三本たまっていたため」だけは、できれば避けたい。

せっかく七十年以上生きたのだ。

最後の社会との接点が乳酸菌では、少し話が出来すぎている。腸内環境を整えながら、死後の事務処理まで円滑にされる。

そこまでサービスがいいと、

私はたぶん、あの世で一度くらいクレームを入れると思う。

「すみません。そこまで頼んだ覚えはないんですが」


二冊目のKindle電子書籍、『72歳まで生きたから見えた景色 ― 人生の途中で気づいた小さな真実30』を出版しました。


もしこの記事が少しでも心に残ったら、「すき」を押してもらえると嬉しい
です。


いいなと思ったら応援しよう!

随和|記録と観察 そっと応援してもらえると嬉しいです。