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ADHDという言葉に、逃げていいのだろうか。 

最近、「ADHD」という言葉を、あちこちで耳にするようになった。

バスワードのように、みんなが口にする。

そして私には、そのADHDの傾向に思い当たる節が、あまりにも多い。もしかしたら私もそうなのかもしれない。

でも、そう思うたびに、呪いのように感じることがある。


思い当たる節が、多すぎる。


たとえばこんな節がある。

  • ワイヤレスのイヤホンをすぐになくす。年に5〜6回は買い直しているし、両耳が揃っていることはほとんどない。

  • 指定の曜日に出さないといけないゴミを、毎週のように出し忘れる。カレンダーでリマインドを設定してもすぐに忘れてしまう。

  • 古着屋に出そうと思ってまとめた古着は、数ヶ月経った今も部屋の隅に積まれたまま。

  • 部屋はとにかく散らかっている。片付けや整理整頓がどうしても苦手。

  • 本を読んでいても、内容が頭に入ってこない。同じ行を何度も読み返して、その合間に何度もスマホを覗いてしまう。

  • 衝動的に航空券だけ買ったけど、旅行直前は全然気乗りがしない。旅行先に着いても「なんで大金を払ってここに来たのだろう」とか思ってたりする。(でも最終的には気を取り戻して最高の思い出になるので、結果オーライ)

  • 仕事でも、一つのことに集中し続けるのが難しい。複数のタスクを行ったり来たりして、どれも中途半端なまま夕方になっている。

  • 人に言われたことをすごく気にする。何ヶ月経っても、過去に言われた一言を思い出しては落ち込む。


思えば、幼少期からそうだった。家族に頼まれていたことをすっぽかして、よく怒られていた。

人間関係でも、空気の読めない発言で人が離れていったことがある。それならもう、誰にも気を遣わなくていいように、一人で過ごしている方が楽だと思うようになった。

ただ、勉強は好きだったし、学力もそこそこあった。だから「自分は普通じゃない」とか「社会に馴染めない」と、深刻に問題視したことはなかった。


ADHDと診断されても、社会は寛容にならない。


今、世間ではADHDという言葉がすっかり浸透した。脳の機能の特性によるものだから、本人のせいじゃないと肯定される傾向になってきた。

でも、たとえ私が「私はADHDです」と公言したところで社会が寛容になるわけではない。

目の前で仕事を待っているクライアントが、それで寛容になってくれるわけではない。

普通の人であっても仕事でミスをすることはあるし、公言したところで甘えられるわけではない。


診断を受けたことがないので確かなことは言えないけれど、私はおそらく、グレーゾーンと呼ばれるあたりにいる人間だと思う。日常が回らなくなるほどの支障が出ているわけではない。

だから、これは本当に生活が立ち行かないほど困っている人の話とは、きっと重さが違う。

その前提の上で、私の場合はギリギリ個性だと片付けられる範囲だと思っている。


むしろ、この個性があるから、私は輝ける気がする。


私を困らせているこの"衝動性"や"多動性"らしきものは、本当に呪いだけだったんだろうか。

好奇心旺盛で衝動的に行動をする性格のおかげで、新卒でカンボジア就職をしたり、海外22ヶ国を巡ったりと、たくさんの景色を見ることができた。

大学時代は6社、全部違う業界のアルバイトを経験して、社会人になった今も転職スパンが早い。でもその分、視野は広くなったかな...と思う。


ADHDという言葉に逃げてしまえば、落ち込むことは減るかもしれない。

でも、一種の自分の個性を見極めて、自分に合う適職や環境、働き方や仕組みづくりをすることが大事だと思う。


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