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映画『プリティ・ウーマン』──ロータスが語った男の未完成さ

映画『プリティ・ウーマン』で、リチャード・ギア演じる実業家エドワードが運転していたのは、フェラーリでもポルシェでもなく、1989年製のロータス・エスプリだった。

製作当時、フェラーリとポルシェはいずれも「作品の内容がブランドイメージに合わない」という理由で出演を断ったとされている。表向きには企業として自然な判断だが、映画を観終えたあとに残る印象を思い返すと、この“断られた結果”は、むしろ作品にとって決定的に良い選択だったように思える。

もし、あの車がポルシェだったらどうだろう。 画面に登場した瞬間、観客はこう理解してしまうはずだ──この男は成功者で、勝者で、すでに完成された側の人間だと。

ポルシェは説明が要らない。 フェラーリはさらに強い。 どちらも「もう語り終えた男」を一瞬で成立させてしまう力を持っている。

だが『プリティ・ウーマン』が描こうとしたのは、完成された男の恋ではない。 金はあるが孤独で、人間関係を取引としてしか扱えなくなった男が、人生の運転を少しずつ学び直していく物語だ。

ロータス・エスプリは、そこにぴたりと重なる。 美しいが、派手すぎない。 高性能だが、癖がある。 成功の象徴でありながら、どこか不安定で繊細だ。

それはそのまま、エドワードという人物像でもある。

ロータスに乗る彼は、「上の世界の人間」でありながら、どこか途中にいる。 だからこそ、ヴィヴィアンとの関係は最初から固定されない。 教える側と教えられる側でもなく、救う側と救われる側でもない。 二人は、同じように“変化の途中”にいる人間として出会う。

もしポルシェだったら、物語は成立しただろう。 ヒットもしたかもしれない。 だが、記憶には残りにくかったはずだ。

ロータスは「代替」ではなかった。 フェラーリやポルシェが断った空席に、たまたま座った存在でもない。 この映画が語ろうとした未完成さ、揺らぎ、成長の余白を、最も自然に背負える車だった。

結果として、ロータスは大きな宣伝効果を得た。 しかしそれ以上に、この映画は「成功の象徴は、必ずしも完成を意味しない」という静かなメッセージを手に入れた。

人はしばしば、強すぎる肩書きや分かりやすい記号に安心しようとする。 だが、物語を動かすのはいつも、少し足りないもの、少し不安定なものだ。

ロータス・エスプリが画面を走るたびに、私たちは無意識にそれを感じ取っている。

成功していても、人生はまだ運転中なのだ、と。

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