「戦争に備える」ためじゃない。僕たちが自給自足を目指す本当の理由。
前回は、僕たちが平塚・大磯の畑で動かしている「泥臭い現在地」の話を書いた。
食や地域の安心基地を作っていく中で、よくこんなことを聞かれる。 「やっぱり、これからの世界情勢も怪しいし、有事に備えて食料を自給できるようにしておくためですか?」
確かに、食料危機や自給率の話になると、どうしても「戦争などの有事」とか「防衛」っていう、恐怖の文脈で語られることが多い。
もちろんそれも一つの現実だし、無視はできない。 でもね、僕個人としては「戦争や有事を前提にしたモデル」って、なんだかすごく寂しいなと思っちゃうんだよね。
恐怖に怯えて、敵に備えてシェルターを作るような気持ちで農業をやるのって、僕たちが目指したい「be organic!(自分らしく、喜びから生きる)」な世界観とは、なんか違う。
僕たちが目指したいのは、恐怖から逃げるための自給自足じゃない。 もっと根本的な、地球と僕たちの「関係性」の話。
「石油のカロリー」を食べている、現代の農業
そもそも「石油がなくなったら」「肥料がなくなったら」という問題には、3つの視点があると思っている。
有事の視点:戦争などで日本に石油や肥料が来なくなるリスク
限界の視点:そもそも石油などの化石資源が「有限」であること
地球の視点:それを大量に消費し続けている限り、地球環境に大きな負担がかかっていること
僕たちが本当に向き合いたいのは、2つ目と3つ目。
実は、現代の効率化された農業って、一見「お米」や「野菜」という命を作っているように見えて、その実「石油というカロリーを投入して、それ以下の食物カロリーを得ている」という奇妙な構造になっている。
トラクターを動かすガソリン、化学肥料や農薬を作るためのエネルギー、畑を覆うプラスチックフィルム、遠くへ運ぶ燃料……。 投入している石油のカロリーの方が、できてくるお米のカロリーより多いなんてことが、平然と起きている。
つまり僕たちは、お米を食べているようで、実は「石油を食べている」のに近い状態なんだよね。
そう考えると、ただ「自分たちでお米を作れるようになりました!」と言っても、石油や化学資材に依存したままなら、結局は元も子もない。本当の意味での持続可能性とは言えないんじゃないかな、と思う。

「有事への恐怖」ではなく、「地球の悲鳴」に誠実でありたい
有事や戦争を前提にした「防衛のための自給」は、なんだか心がザラザラする。 でも、「地球が悲鳴を上げている」という現実からは、目を背けたくない。
地球に過度な負担をかけず、有限な資源を奪い合わず、自然の循環の輪の中で生きられるラインを探していくこと。
「石油が止まったら困るから」という恐怖起点ではなく、 「この地球と、次の世代に、優しい生き方をしたいから」という愛起点で、自給のラインを考え直すこと。
だからこそ僕たち「いかす」は、肥料や農薬に頼らない有機農業をやっている。そして、それを進化させ続けていく。
もちろん、昔の苦しい手作業の農業に戻りたいわけじゃない。人類が培ってきたデータや新しいテクノロジー、自然の仕組みを賢く使って、「人間も無理をせず、地球にも負担をかけないスマートな循環」を実験したいんだ。
完璧に石油から脱却するなんて、今の社会ですぐにできるわけがない。僕たちだって軽トラに乗るし、プラスチックの資材も使っている。ストイックな聖人君子になりたいわけじゃない。
でも、「恐怖」で武装するんじゃなくて、「地球への配慮」から始める実験なら、きっともっと温かくて、ワクワクするものになるはず。
「生き延びるために備える」から、「地球とともに心地よく生きる」へ。
次回予告
じゃあ、この「地球への配慮と愛」を起点にしたとき、僕たちはこれからどんな未来を描いていくのか?
次回はいよいよ最終回?! お米やたんぱく質の自給、最先端エネルギー、そして誰もが自分らしくいられる「未来のビレッジ構想(be organic!)」という、僕たちの具体的な妄想をお話ししたい。
……もちろん、すべては僕の勝手な仮説。
さてさて、どうなることやら。
