太った方がええんちゃう
「『太った?』って言われたんやけど、太ったと思う?」
自分の頬を撫でながら恨めしそうに聞いてくる母に、私は生返事をした。肯定しても否定しても、たぶん母は満足しない。
久々にご飯を食べることになり集合した夜のファミレスには、私たちの他に若いカップルとおひとりさまの女性がいるだけだった。静かな店内に、母の声が響く。
昔から、母はふくよかな人だった。私にとって母とは、そういう姿をした存在だった。
ところが、初めて友人の家に遊びに行ったときに玄関で迎えてくれたのは、背が高くてすらりとしたお母さんだった。まるで雑誌から抜け出してきたようなその人と、遠目には単一電池のようなフォルムをしている自分の母が、頭の中で並んでいた。子どもの頃の私は、そんな母が少しだけ恥ずかしかった。けれど今となっては、このファミレスで大きな声で話される方が、やや恥ずかしい。
今日の本来の目的は食事ではない。最近母が始めたメルカリの売り上げ金を使いたいから、口座登録をしてくれ、というのだ。古着が中心らしいが、一丁前にそこそこ売れているらしい。
先に注文しておこうと伝え、メニューを開く。
「私はもうチーズハンバーグって決めてるから」
居酒屋の一杯目は当然生ビールで、みたいな顔をしている。
「セットもできるみたいよ」
「じゃあ、Cセット」
「ご飯大中小選べます」
「じゃあ…大、いっとこか」
1ミリの迷いもなく大盛りを選ぶ。「そんなんだから太ったか聞かれるんじゃ」という言葉は飲み込んで、私は豚しゃぶサラダ御膳を注文した。
「ところで今日のお会計はどっちが…?」
上目遣いで聞いてくる母。
こっちが出すよと伝えた途端、「じゃあドリンクバーもか!」と、再び店内に声が響き渡る。もはや逆に清々しい。
「で、メルカリは?」
「これ。『いいね!』もめっちゃ来てるねん」
そう言いながら突き付けてくるスマホを預かる。通帳は持ってきたのかと尋ねると、いそいそと取り出しながら「中身は見やんといて!」と言う。母なりの恥じらいなのだろうか。
口座番号が必要だと伝えると、躊躇いなく大声で読み上げたのですぐに辞めさせた。頼むから金額よりそこに恥じらい、いや危機意識を持ってほしい。カップルの視線を背中で受け止めながら静かに思う。
やいやいしている我々のもとに、女性の店員さんが配膳に来てくれた。彼女はチーズハンバーグを迷わず私の方に置いた。
そりゃそうですよね。どちらかと言えば私がハンバーグで、この女性が豚しゃぶサラダ食べそうですよね。すみません、逆なんです。心で詫びる私をよそに、母は特に気にした様子もなくハンバーグに箸を入れていた。
会うのは割と久しぶりだが、こちらから報告するようなことは特にない。いや、報告する隙もないほど、母のお喋りが止まらない。
「道に迷ったとき、ヤンキーみたいなお兄ちゃんに聞いたら、私のスマホもって一緒に歩いてくれてん!」
見知らぬ男性に介護をさせてしまって、非常に申し訳ない。
「こないだ車で一方通行のところ入りかけてさあ。すれ違う車のおっちゃんががジェスチャーで『戻れ戻れ!』ってしてくれて」
事故が起こらなくてよかったが、会話だけじゃなく車も方向無視してるのか。
「明日、お父さんとしゃぶしゃぶ行くねん。10%オフのクーポンあるから。クーポン集めにハマってんねん」
そんなんだから…さっきの言葉をもう一度飲み込む。
しかしよくもまあ、こんなスムーズにチーズハンバーグの咀嚼と与太話を同時にする技術があるものだ。うんうん言いながら適当に聞き流す。この豚しゃぶサラダ、美味いな。
「キョウスケくんのところのお母さん、亡くなったらしいわ。ガンやって。」
箸が止まった。
キョウスケ君というのは、姉の地元の同級生だ。私も小さい頃、よく一緒に遊んでもらったお兄ちゃん。
「そうなんや」
少しだけ、味がしなくなった気がした。確か母と同い年くらいのはずだ。
3年ほど前、母は病気になった。「結構危ないかもしれない」そう父から連絡がきた。結果として快復はしたものの、当時の私は仕事に忙殺されており、中々見舞いにも行けなかった。
単一電池だった母が単三電池になっていく、その過程を私は見ようとしなかった。見舞いに行けば、認めることになる気がした。父から「近々行ったれよ」とメッセージが来た夜、私は翌日の資料を作っていた。
「あの時は見舞いにいけなくてごめんな」
その言葉を口にすることは、未だできていない。
さっき、店員さんが私の前に置いたチーズハンバーグ。「食べるのは、この女性ではないだろう」と、店員さんが考えたチーズハンバーグ。
私は空いた食器を重ねながら、つぶやいた。
「太った方がええんちゃう」
ポツリとこぼした私の言葉は、たぶん聞こえていなかった。母は、チーズハンバーグと大盛のご飯をモグモグと掻き込んでいる。
聞こえなくて良いと思った。けれど、いつかもう一度口にできればいいと思った。
「ていうか、あんた痩せたんちゃう?食べてんの?寝てんの?仕事してんの?」
二杯目のコーラを飲み干しながら母は言う。
「食べてるよ、普通に」
ぶっきらぼうに答えた私は、母にどう見えているのだろう。
「これあげるわ」
別れ際、母はバッグをごそごそと探り始め、小さなクーポン券を大量に取り出した。鰻屋、焼肉、居酒屋…雑誌かフリーペーパーを切り抜いたものが、何枚も何枚も出てくる。
「一人でこんなに食えるわけないやろ」
断るのも面倒で、心の中でそう呟き、黙って財布にしまった。
「帰り気を付けて。逆走すんなよ」
そう言った私に、母は親指を立てながら車に乗り込んだ。赤い自動車は、そのまま夜の街に消えていった。
今日のご飯は美味しかった。
寝る前、一通のメッセージが届いていた。
「今日はありがとう、ご馳走様。鰻屋さん一緒に行ける日教えてー」
「え、一緒に行くの?」
そう入力して、やっぱり消した。
その代わり、空いている日をいくつか送った。どちらが会計をもつのかは、まだ決めていない。
