『斜陽』 読了

読み切った。
読まなければ、という思いに駆られていた。

有名な文学作品を読もう。そう思った時に、頭の中にヨルシカさんの曲が流れた。
ヨルシカさんの曲は、文学作品をオマージュしていると知ったのは最近のこと。
『斜陽』がきっかけだったと思う。

文学作品を読もう。そう思った時に、『斜陽』が頭に流れた。
『斜陽』を読みたいと、強く思った。
その思いは、1ヶ月くらい消えなかった。

ちぐはぐした世界に、読み始めたことを後悔する瞬間もあった。
自分の気持ちを持っていかれそうになった。
不安で不安で仕方のない世界観。
晴れ間の中で、登場人物たちの悲しみが描かれる不穏な感じ。

それでも、読みたいという思いはやまなかった。

「私たちの本当の地獄が始まった」
さすがに、この一文を読んだ後は少し時間を置いた。覚悟が必要だった。
いざ読み進めると、そこからは読み方が変わった。どんどん読み進めることができてしまった。この感覚は何か。

「地獄」が始まって、ようやく雨が降って、逆に安心した。

一つあるのは、「母」の登場シーンが少なくなったこと。「母」は僕の祖母に少し似ている。
僕は、祖母に似ているところがある。
だから将来、絶対に祖母のようにはならないと決めている。
どうしようもないことに心を消耗して、結局自分の子どもにすがりつき、迷惑をかけている。

また「弟」も、僕の弟に少し似ている。
ゲームやスマホ中毒の弟は、薬を使う「弟」と重なる。

そんなふうに登場人物の変化があり、だんだんと今の自分の周りに状況が似てきたから、受け入れられた。中盤。
序盤の不安定さから、逆に安定してくる。
これが諦めかもしれない。開き直る感じ。
清々しさすら感じる。
雨が降って安心した、というのはそういうことでもある。


読み方が変わったのは、単純に構成が変わったというのもある。
途中から、弟の日記のパートがあったり、長らく「私」の手紙が続いたりする。
印象に残ったのは、「待つ」ことについての文章。

幸福の足音が、廊下に聞こえるのを今か今かと胸のつぶれる思いで待って、からっぽ。

『斜陽』

人は、何かを待っているのかもしれない。
「人生の99%は待って暮らしている」というようなことも書かれている。
そうかもしれない。

ただ、僕は「早く行動すればいいのに」と思いながら読んでいた。
人生、やれることは全てやって、そうして自分で幸福をつかみとっていける。
「幸福の足音」は、自分で鳴らせばいいと思う。
手紙を出すだけじゃない。「母」をおいて、今すぐに走り出すこともできただろう。

このように、手紙の内容に対して「自分ならこうする」と思いながらも、手紙に込められた「私」の気持ちが理解できる。
果たしてこれは、「恋」なのか。
登場人物たちが必死に生きていこうとしている。
でも、生きていくには世界が狭すぎる。

登場人物たちが、今の世界を生きていたら、もう少し楽だっただろうか。
まわりに理解してくれる人がいて、助けてくれる人がいて、「自分はこのままでいいんだ」と、考え方を変えることができたなら。

「母」は変わらないかもしれない。
今の世界でも僕の祖母のように、狭い世界で生きてきてしまった人はいる。
祖母は、どうしたら幸せに生きれるだろう。
2人の子に迷惑をかけて、いやもしかしたら、子どもたちが頻繁に会いに来てくれる今、それが幸せの形なのかもしれない。

でも、僕は自分一人でも幸福は見つけられると思っている。
人は一人では生きられないから、「本当に一人」では幸福になれないのかもしれない。
それでも、少し動けば誰かがまわりにいる今の世界では、幸福は意外と簡単に見つけられると思う。
「胸のつぶれる思いで」待つくらいなら、動いた方がいいだろう。

人はみな仲間だ。そう思えば、もっと楽しく生きていける。
考え方を変えて、もっと明るく、楽に生きる方法はあるはずだ。
どうせ生きるなら、楽しく生きたい。動けるだけ動いてから、ワクワクしながら待って居たい。


本の読み方が、少し変わった気がする。
『斜陽』、おもしろかった。おもしろかった、という感想がこの作品に良いのかわからないけれど。

僕はどうしようもないことは受け入れて、変えられることを変えていきたい。だからアドラー心理学に強くひかれている。エピクテトスも言ってたな。
祖母は祖母。弟は弟。自分は自分。
自分は、自分の理想を追い求める。
似ていても、意識で変われる。いつか祖母のようになることは、諦めることじゃない。
自分は、将来自分になる。

この物語に希望はあるのか。
そう思っていた。
希望は、自分の解釈次第だ。
希望は、自分で見出せる。

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