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短編小説|君の好きなものを全部

海の向こうに、橋の灯りが連なっていた。

波が、防波堤の下で小さく鳴っていた。

待ち合わせ場所の時計は、
短針が6を、長針が12を指していた。

俺は海沿いのベンチの前で、
花束を持っていた。

ナナは時間ぴったりに来た。

淡い色のワンピースの裾が、海風で揺れた。

俺を見つけると、ナナは足を止めた。

「リョウくん、こんばんは。ぴったりだね」

「うん、こんばんは。ぴったり」

花束を渡すと、ナナは黄色いユリを見て笑った。

「花?
 わたし、黄色い花が好きなの、覚えてたんだ」

「もちろん」

ナナは花束を見た。


「……これ、ずっと持って歩くの?」

「持ち歩けるように、小さくしたよ」


「……うん。小さいね」

ナナは笑って、花束の中から1輪だけ抜いた。

鼻先に近づける。

「いい、におい……」

ナナはユリを、花束の中へ戻した。

「ごはん行こうか」

俺が言うと、ナナが顔を上げた。

「うん」

「そのあと、船に乗ろう」

「えっ、まさか、ナイトクルーズ?」

「そう」

ナナは、桟橋のほうを見た。

「乗ってみたかったんだよねー」

「知ってる。出会った時に言ってたから」

「それって、だいぶ前だよね?」

「さあ」

俺は笑ってごまかした。

いつのことか、俺は正確に知っている。

でも、言わなかった。

ジャケットの内ポケットに触れた。

黒い箱がある。

小さな指輪が、1つ入っている。

今日、ナナに渡す。

ナナは、花束の向こうから俺を見た。

「何か企んでる?」

「企んでない」

「その顔のときは、だいたい企んでる」

「どんな顔だよ」

「右の眉だけ上がる顔」


レストランは18:15。

ナイトクルーズの乗船受付は19:40。

出航は20:00。

帰港は20:30。

21:00までに、言う。

頭の中で、何度も順番をなぞっていた。



レストランの窓際席から、海が見えた。

ナナがメニューを開いた。

俺はメニューを見ながら聞いた。

「白身魚のレモングラス蒸しと、
 スパークリングワインにする?」

ナナが顔を上げた。

「え、あるの?
 ありがとう。好きなんだー」

笑って、メニューへ目を戻す。

俺も同じものを頼んだ。


料理が運ばれてきた。

白身魚の湯気に、
レモングラスの香りが混じっていた。

ナナはフォークを持ったまま俺を見た。

「なんか、今日こわい……」

「何が?」

「好きなものばっかりで。
 できすぎてて……」

ナナは窓の外を見た。

海の向こうで、夜が濃くなっていく。

「前にさ……」

ナナが言った。

「わたしが急に泣いちゃった日、あったよね」

俺はグラスから手を離した。

「あったな」

「あの時、何も聞かなかった」

「聞かれたくなさそうだったから。
 帰ろうって言った」

ナナは黙った。

グラスの縁を、指先でなぞっていた。

俺は、窓の外の橋の灯りを見た。

「きれいだな。こうしてる時間、
 ずっと続けばいいのにな……」

ナナは、フォークを置いた。

窓の外を見たまま、ナナは言った。

「そうだね……」

返事まで、間があった。

ナナは笑った。


俺は席を立って、トイレへ向かった。

洗面台の前で、
ジャケットの内ポケットからスマホを出した。

黒い箱を、洗面台の端に置いた。


スマホが震えた。

ナイトクルーズの予約確認から、通知が届いていた。

『ご予約の便は20:00出航です。
 19:40までに乗船手続きをお済ませください』

俺はスマホを伏せた。

それをポケットに戻し、手を洗った。

それから、トイレを出た。

席に戻ると、ナナは窓の外を見ていた。

「遅かったね」

「ごめん」

ナナは笑って、グラスのワインを飲んだ。


食後のコーヒーが冷めるまで、
俺たちは席を立たなかった。

最近あったことや、乗る船のことを話した。

ナナが笑うたび、俺もつられて笑った。

窓の外では、
橋の灯りが水面に長く揺れていた。



会計を済ませて、レストランを出た。

乗船受付まで、あと20分あった。

海沿いの遊歩道をゆっくり歩いて、
桟橋に向かった。


橋の灯りが、
さっきより近く見えてきた頃、

ナナは花束を抱えたまま、
アクセサリーの店の前で足を止めた。

「見て、かわいいー」

「買う?」

ナナは、アクセサリーを見たまま笑った。

「ううん。見るだけでいい」

「今日くらい、いいだろ」

それでも、
俺は財布を出そうとして、
ジャケットの内ポケットに手を入れた。


ない。



もう一度、探る。

スマホと財布しかない。

指輪がない。

洗面台の端に、黒い箱を置いた。

通知を見た。

手を洗った。

そのあと。

俺は、箱をどうした。

俺はポケットから手を抜いた。

「どうしたの?」

アクセサリーを見ていたナナが、俺の顔を見た。

「……ちょっと待ってて」

「何?」

時計を見る。

あと10分。

「先に桟橋の受付に行っててくれる?」

「え、1人で?」

俺は、すぐに答えられなかった。

「ごめん。すぐ行く。
 絶対に、乗り遅れさせない」

ナナは俺を見た。

花束を抱えたまま、首をかしげた。

「何をなくしたの?」

「大事なもの……」

ナナは黙った。

それから、うなずいた。

「……分かった」

俺はその背中を見送ってから、
人の多い遊歩道を逆に走った。

橋を撮る人たちの間を、

「すみません!」

と縫うように走った。

息が上がる。


レストランへ駆け込み、スタッフに言った。

「すみません。洗面台に、
 黒い小箱を忘れたかもしれなくて」

「確認してまいります」

少しして、
スタッフが黒い小箱を持って戻った。

「こちらでしょうか?」

「……それです。ありがとうございます」

受け取る。

時計を見る。

あと6分。

桟橋まで、走れば間に合う。

俺は走った。


桟橋の入口に、ナナがいた。

時計を見る。

あと1分。

花束を抱えたまま、
受付の明かりの下に立っていた。

俺を見つけると、すぐに顔が変わった。

「見つかった?」

「……見つかった」

ナナが息を吐いた。

「よかった……」

2枚の乗船券を出すと、
係員が乗船口のロープを外した。

俺たちは並んで、船へ向かった。

ナナは、船に乗るまで何も聞かなかった。

俺は、内ポケットの箱に触れた。

船が岸を離れる。

足元から、エンジンの低い音が響いた。

水面に、橋の灯りが揺れていた。

デッキへ出ると、風が冷たかった。

ナナは手すりの前に立って、
岸に並ぶ街の灯りを見ていた。

「きれい……」

「うん」

ナナは俺を見た。

「リョウくん、さっき、すごく焦ってた」

「焦ってた」

「間に合ってよかった……」

「うん」

ナナは、それ以上聞かなかった。

船が橋の下に入ると、
デッキの上が1度暗くなった。

エンジンの音だけが、橋げたの下で低く響いた。

抜けた先で、遠くの灯りがまた見えた。

ナナは俺の腕に手を添えた。

しばらく、2人とも何も言わなかった。



船がゆっくり向きを変えた。

さっきまで見えていた街の灯りが、
横へ流れていく。

「もう戻るのかな」

「たぶん」

ナナは、水面を見たまま言った。

「終わってほしくないね」

俺は何も言わなかった。

船を降りてから。

ナナの顔を見て。

その時に言うと、決めていた。



船が桟橋へ戻った。

人の流れが落ち着くまで、
俺たちは船内でしばらく待った。

最後に船を降りて、
海沿いの遊歩道をゆっくり歩いた。


ナナは花束を腕に抱えたまま、柵にもたれた。

俺も隣に立って、海を見た。

橋の灯りが、水面の上で揺れていた。

「船、どうだった?」

俺が聞いた。

ナナは、考えてから笑った。

「すごくよかった!」

「ほんとに?」

「うん」

ナナは海のほうを見た。

「思ってたより、ずっと……」

風が吹いて、
花束の包装紙が小さく鳴った。

波の音だけが、2人の間にあった。


俺は柵から手を離した。

「ナナ」

ナナが振り向く。

「今日、ちゃんと伝えたいことがある」

ナナは、何も言わなかった。

「俺、これから先もナナと、
 こういう夜を過ごしたい」

息が整わない。

俺は、ジャケットの内ポケットから
黒い箱を取り出した。

ナナの前で、膝をつく。

箱を開く。

指輪がある。

ナナへ見えるように向きを変えた。


「結婚してください」


ナナは、指輪を見た。

すぐには顔を上げなかった。

俺は、ナナの顔を見ていた。

ナナの指が、花束の包装紙をぎゅっと握る。


その時、ナナのスマホが鳴った。

アラーム音。


ナナは自分のバッグを見た。

スマホは取り出さなかった。

代わりに、待ち合わせ場所の時計を見た。

短針は9を、長針は12を指していた。

ナナは、しばらく時計を見ていた。


花束の包装紙を、指先で押さえる。


「受け取れない……ごめんなさい……」


ナナは、ゆっくり顔を上げた。

花束を胸に抱えたまま、俺を見た。


「だってわたし……レンタル彼女だよ?」


俺は、箱を差し出したまま動けなかった。

ナナは続けた。

「そんなお客さんに、
 いきなりプロポーズされても困るから」

腕から力が抜けた。

差し出していた箱が傾く。

指輪が、街灯の光を返した。

ナナは俺の前にしゃがんだ。

「今日、すごく嬉しかった」

俺は、箱を見たままだった。

「こんなこと、してもらったの初めて」

ナナは、花束の中の黄色いユリに触れた。

「でも、無理。順番めちゃくちゃだよ」

俺は箱を閉じた。


「……そっか……仕事だもんな……」

閉じた箱の角が、手のひらに当たっていた。

「でも、会うたびに……」

うまく続きが出てこなかった。

「帰る前に、
 次はどこ行こうかって……
 ナナも言ってくれたから」

ナナは、すぐには答えなかった。


花束を持っていないほうの手で、俺の手を取った。

そのまま、俺を立たせた。

立ち上がっても、ナナは手を離さなかった。


「でも今日は……」

ナナは笑った。

「もう少し、リョウくんのそばにいたいな」

「え……21時以降……予約してないけど」

ナナは花束を抱えたまま、
空いた腕を俺の腕に絡めた。

ユリの匂いに混じって、ナナの髪の匂いがした。


「今日は、まだ帰りたくないってこと」


海沿いの遊歩道を、2人で歩き出す。

「終わってほしくないね」

俺が言うと、
ナナは小さくうなずいた。


「今日は遅くなりそうだから、
 先に連絡してもいい?」

「うん」

ナナは腕をほどいて、
バッグからスマホを出した。

ナナは画面を見たまま、
親指を動かした。

ナナとまだ一緒にいられると思って、
口元がゆるんだ。



俺のポケットの中で、スマホが震えた。

通知を開いた。


『ナナさんが2時間の延長を希望しています。
 延長しますか?』


さっき閉じた黒い箱が、
内ポケットの中で胸に当たっていた。


俺は画面を見た。

それから、『はい』を押した。




読んでくださって、本当にありがとうございます。

※本作はフィクションです。他の作品はこちら👇

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