なぜ人は権力者の支配を求めるのか──ボードリヤールから考える
普段は勇ましいのに、上司にはへこへこする先輩会社員。権威主義を嫌うのに、権威を担ぐ自称右翼。人前ではカッコつけるけど、恋人には支配されたいわたし。
自由を気取り、権力を嫌う一方で、権力者には惹かれてしまう。こんな心理がなぜ生まれるのか。ボードリヤールを参照しながら、この謎について考えてみます。
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政権批判を批判するひとたち
以前の記事でも書いたように、わたしは改憲反対のデモ活動に参加しています。Xでデモの話をすると、ときどき数千いいねがつく程度のバズが起きるのですが、そうなると決まって、自称右翼さんたちから妙な返信が飛んできます。
「バカ」「アホ」といったストレートな罵詈雑言から、「中華のスパイご苦労様ですw」「バカ左翼乙w」みたいな冷笑混じりの罵倒まで、リプライ欄はちょっとしたお祭り騒ぎです。
ここで不思議に思うのです。彼らが擁護しているのは、現在の日本政府という「権力」です。一方で、彼らの多くは中国共産党には強い忌避感を持っています。
彼らのプロフには「天安門」の文字をよく見かけます。体制がデモを鎮圧したこの事件を批判する彼らが、なぜわたし達のデモを腐すのだろう。
全体主義、デモの弾圧、犠牲者──そうした権力には敏感に反応するのに、なぜ日本の政権には盲目的なまでに肩入れするのか。
この矛盾、気になりませんか?
シミュラークルとハイパーリアル
最近、ジャン・ボードリヤールを読んでいます。
彼は、現代社会が「シミュラークル」に塗れた「ハイパーリアル」であると指摘しました。いきなり聞き慣れない単語が2つ出てきたので、まずはこれらについて紹介していきます。
シミュラークル
シミュラークルは「オリジナルが今や存在しない、まがいもの」を指します。例えば、偉人の伝記映画や、存命でない俳優を再現するAI映像のようなものと言えば分かりやすいでしょうか。
実在する何かを「写した」のではなく、ゼロから「生成された」幻想でしかない。そんなまがいものの幻想にもかかわらず、まるで実在するかのように振舞う。これがシミュラークルです。
ハイパーリアル
ハイパーリアルとは、シミュラークルが世界に塗れ、覆い尽くしてしまった現代社会を指します。
ボードリヤールは、これがあらゆる活動において蔓延していると指摘します。現代社会においては、コピーが現実に先行して、まるで実在するかのように振舞いはじめた。というのです。
例えば消費活動です。
本来わたし達の消費活動とは、必要だと思うものを必要な分だけ手に入れ、基本的な欲求を満たすことであるはずです。しかし、現実はそうなっているでしょうか。例えば、こんな光景をよく目にしませんか?
「みんなが持っているから手に入れる」
「差をつけたいから手に入れる」
「SNSで自慢したいから遠出をする」
上に挙げた消費の例は、どれも「必要だから」ではなくもっと別の理由で行われていることに気付きます。例えば「集団に所属したいから」「誰かより優位に立ちたいから」「安心したいから」…
このように、現代における消費活動は本来的な消費活動のコピーでしかありえません。これがボードリヤールが指摘する、物自体でなく記号を消費する「消費社会のハイパーリアル」です。
大衆の隠れた欲望
先に挙げたようなハイパーリアルを、ボードリヤールは「権力者」を求める社会についても適用します。
ボードリヤールは主張します。
現代において絶対的な権力はすでに消滅している。しかし大衆は、誰も社会をコントロールしていないという事実に直面することを、極端に恐れている。
そして、その恐怖から逃れるために、大衆は失われた強い権力へのノスタルジーを抱く。自ら支配されているふりをすることで、安心感を得ようとする。
この「強いリーダーシップの幻覚」をヒステリックに求める心理的な隙こそが、独裁やファシズムを生み出す土壌になるとも、彼は指摘します。
以上の話を例えるならこうです。「誰も舵を握っていない船に乗っている」と認めるのが怖いから、わたしたちは進んで「誰かに舵を握られているふり」をしている。支配されているふりをしたがる。
SNSに載せるために行動を選ぶ、あの感覚の延長線上に、政治への態度もある。つまり、自分が安心するために、本来は面倒なはずの権力を、むしろ求めてしまう。そういう構図です。
ボードリヤールへの反論
もっとも、ボードリヤールの議論には批判もあります。中でも大きいのが、「シミュラークルは近代に始まったものではない」というものです。
例えば、ユヴァル・ノア・ハラリが「サピエンス全史」で指摘したように、ホモ・サピエンスは言葉を獲得した時代から、集団としての「物語」によって結びついてきました。
定住が始まったあとには、アニミズム、宗教、国家といったシミュレーションがすでに先行していたとも言えます。
さらに、古代ギリシャの哲学者ソクラテスはこんなことを言っています。「人は自然と自治へ向かうのではない。むしろ、後ろをついていける強い指導者を求める傾向がある」。
以上のようなことを考えると、ボードリヤールが指摘する現代よりもっと以前から、人には「権力による被支配へのノスタルジー」があったように思えます。
もしかすると、権力者を求める志向は、遺伝子レベルでわたしたちに染みついたものなのかもしれません。
ネアンデルタール人と違って、ホモ・サピエンスは群れで行動する社会性を持っていました。それを成り立たせたのは、「強い指導者に率いられる」という共通合意が、遺伝子レベルでインプットされていたから──そう考えることもできそうです。
だとすれば、ボードリヤールが言う「ノスタルジー」の対象は、案外、はるか昔のサバンナの記憶なのかもしれません。なんだかロマンがありますね。
でも、ハイパーリアルからは逃げられない
以上のような批判はあれ、ボードリヤールが指摘するハイパーリアルという概念の価値は揺るぎません。
わたし達はすでに、ハイパーリアルとなった世界を生きている実感がある。わたし自身も、幻想のために飽くなき消費を繰り返し、名前のつかない不安から逃れるために非合理な行動を繰り返している。
何もかもがシミュレーションに先行される世界で、どんな価値を信じればいいのか。これは個々人の判断であり、それぞれが自分の旅のなかで見つけていくしかありません。
ただ、少なくともわたしは、こう思います。
一部の権力者にすべてを委ねて、その代わりに自由と安心を得る──そんな「現実」だけは、ご免こうむりたいものです。
そしてこうも思います。わたし達が知識を蓄え、知恵を耕すのは、そうした構造を知ったうえで、乗り越えていくためなのだと。
あなたは、どんな「リアル」を選びたいですか?
