体温の乗らない言葉
言葉には、鮮度がある。
吐き出された瞬間に空気に溶けていく体温を孕んだそれと、どこまでも冷たく、硬質なままそこに留まり続けるそれ。
僕が惹かれるのは、いつだって後者だ。
感情を乗せすぎた言葉は、時としてひどく醜い。
それは、洗濯を繰り返して伸び切ったカットソーや、誰かの形に馴染みすぎた中古の靴に似ている。親密さという名の甘えが、本来その言葉が持っていたはずの輪郭をぼやけさせ、情報のノイズへと変えてしまう。
一方で、体温の乗らない言葉というものがある。
それは、職人が数十年前に誂えたウールギャバジンの重厚なコートや、静謐な空間に置かれた一脚の椅子が放つ、あの突き放すような美しさに近い。
そこには「私を見てほしい」という過剰な自己主張はなく、ただ、そのものが存在する理由だけが静かに、そして冷徹に置かれている。
ここに文字を綴るとき、あるいは誰かと服の話をするとき。小説の話をするときーー
僕はできるだけ、自分の体温を言葉から排したいと願う。
熱狂は、内側に秘めていればいい。表に出る言葉は、むしろ冷えている方がいい。
隙間風のような冷たさを持って初めて、対象となるプロダクトが持つ剥き出しの真実味が、かえって鮮明に浮き彫りになるからだ。
「美しい」という言葉さえ、使い古されれば体温を帯びて陳腐化する。
だからこそ、もっと別の角度から、もっと乾いた手触りの言葉を探す。
生地の組織図を眺めるような、あるいは冬の朝の乾いた道路を歩く靴音を数えるような、そんな無機質な視点。
結局のところ、僕たちが本当に求めているのは、誰かのぬくもりではなく、自分を律してくれるような「冷徹な美」ではないだろうか。
僕が綴りたいのは、心地よい共感よりも、背筋が伸びるような、体温の乗らない言葉たち。
これに何を読み取り、何を感じるかは、僕の知るところではない。
ただ、そこに置いておくだけ。ー
触れて指先を凍らせる者がいたとしても、あるいはその冷たさに救われる者がいたとしても。
冬の朝、誰にも踏まれていないアスファルトの上に、ただ白く息を吐き出すように。

また是非お立ち寄り下さい。
