転んだのは、私。傷ついたのは、私たち。
何もない道路で、盛大にコケた。
スーパーで買った豆腐やきゅうりをぶちまけて。
慌てて左手を差し出したのだろう、
左手首が少し痛い。
左肘を地面で打ったし、左膝も擦りむいた。
一瞬、なぜ自分が転んだのか分からなかった。
でもその次の瞬間には理解した。
原因はオットの白杖だ。
彼の杖が、私の足にひっかかった。
前方の障害物を確かめるため、
視覚障害者は白杖を左右に振りながら歩く。
自分の肩幅くらいの振り幅で、
一定のリズムを保ちながら。
視覚障害者は白杖を振ることで、
未知の危険を事前に察知する。
白杖は視覚障害者にとっての目であり、足であり、時には手の役割すら果たす魔法の杖だ。
ただこの道は、ほんの少し左に傾斜していた。
しかも人には歩き方のくせがあるから、
どうしてもセオリー通りにはいかない。
オットの杖は、いつも以上に左側に
振れていたのだろう。
それで、彼の左にいた私の足に
絡まったのだろう。
「ぎゃっ!痛っ!」
私の声に驚くオット。
加えて、ついさっきまで横にいたはずの私が、突然いなくなったのだから当然だ。
でも何が起きたかは、すぐには分からない。
だから「どうした?何があった?」と、
無駄に慌てる。
少しの間があり、私が地面に転がっているのにようやく気付いたオットは、
私がコケたことがわかったらしい。
でもこの時点では、その原因はわかっていない。
だから、すぐ「ごめん」とは言わない。
それが私を苛立たせる。
こういう時、晴眼者(目の見える人)の夫婦だったらどうだろう。
「もう、危ないじゃない!なんでもっとちゃんと杖を使わないの!」
「ごめん、ちょっとぼーっとしてたんだ」
とか?
……晴眼者は、杖なんか使わないだろうけど。
でも、それが言えないのが辛いのだ。
『彼は見えないんだから、仕方がない。
わざとじゃないんだから、仕方がないよね』
でも私はコケし、ケガもした。
それをすぐにわかってもらえないことが、私を二重に傷つける。
やりきれない痛みが、心の奥から湧いてくる。
膝はたいして痛くないのに。
すりむきはしたけど、血だってほとんど出なかったのに。
でも痛いのだ。
本当に痛くて、そして悲しくて。
こういう時、視覚障害者の夫婦だったらどうだろう。
「もう、危ないじゃない!なんでもっとちゃんと杖を使わないの!」って、
見えない相手に自分の怒りをぶつける?
「ううん、大丈夫。ちょっと足に当たっちゃって、コケちゃった」と、
見えない相手をおもんばかって、自分の痛みや悲しみをのみ込む?
以前、二人で買い物をした時のことを思い出した。
店から出て、駐車場の脇を歩きながら表通りへ向かう途中。何かの拍子に私のサングラスが落ち、車道に転がった。
お気に入りのサングラスが車に轢かれるとまずいと思い、オットの手を離し、サングラスを拾おうと身を乗り出した時 ――
背後から一台の車が音もなく通り過ぎ、危うくぶつかりそうになった。
ヒヤッとする瞬間。
周囲の人も「あっ!」と声を出すくらい、接触ギリギリ。
車は何事もなかったかのように、そのまま駐車場を出て行った。
オットも自分の歩行に集中していたのだろう、そのままひとりで歩き続けた。
「あ、そうか。この人はもう私を助けられないんだ。私が車に轢かれても、気が付かないんだ」
この時の感情は、今も忘れられない。
悲しみと絶望と諦めと。
オットよ、あなたは何も悪くない。
でも、「君をずっと守る」って、言ってくれたよね?
「なにがあっても私を助ける」って、言ってくれたよね?
30数年前のプロポーズにしがみ付くなんて、みっともない。
でもあの時、私は本当にうれしくて、幸せだった。
家に戻った後も、しばらく口をききたくなかった。
自分の杖が原因と知ったオットの「ごめんね」の声を聞きながら、
折れたきゅうりと、少し潰れたパック入りの豆腐を冷蔵庫にしまった。
しばらくして落ち着きを取り戻した私は、
オットが白杖をチェックしているのに気が付いた。
無言で白杖を振ったり、床についたりしている。
え?もしかして、白杖が壊れた?
幸い折れたり曲がったりはしなかったが、
衝撃で継ぎ目にあるオ―リングがちぎれたようだ。
それと、少しグラつくらしい。
一瞬、「私のケガより、白杖が大事なのか」と、思ってしまった。
私ってほんと、嫌な女だ!
そう思うと、またイライラが募ってきた。
募って、募って、募って……深呼吸。
そうだよ!
白杖のほうが大事じゃないか!
彼にとって白杖は足であり、手であり、
そして目なのを、知ってるくせに!
なんですぐに、白杖の状態をチェックしてあげなかったんだろう?
ごめん、ごめん、ごめん。
白杖を定位置に置いたオットが、「さっきはごめんね」と言った。
私もオットに「ごめんね」と言った。
二人でぎゅっと、お互いをハグする。
言いたい事を言えぬまま。
でもこれ以上、傷つきあうのは嫌だから。
こうしてまた日常に戻る。
これが視覚障害者がいる夫婦の暮らし。
オットと私の、毎日。
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