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パワースポット


チェックアウトしてから旅館の口コミを見てみると、そこには星5か星1のどちらかしかついていなかった。いまとなっては、ニヤリと笑みがこぼれてしまうが。


「チェックインは17時までです。それまでにお越しください!」

唐突に鳴り響く大音響を聞きながら、わたしは腕時計を見やった。16時30分。目の前の間欠泉はあと数分で噴き出すところだったのに……

新婚旅行で訪れていたこの別府で、もくもくと立ちのぼる蒸気の中、真っ赤な血の池地獄や熱湯が噴き出す竜巻地獄を眺めていた。北海道から、四国・九州の温泉地をめぐる五泊六日の旅、その三泊目のこと。17時までに間に合いそうにないと伝えたが、なぜだか聞き入れてもらえない。

わたしたちはレンタカーの性能が許す限りのスピードで走り、ブレーキをキキーッと鳴らして旅館に乗り入れた。門をくぐり、ガラガラと引き戸を開けると、すぐ目の前にロビーがあった。木製のテーブルや椅子、大きな額縁の風景画、民芸調の置物などが並んでいる。和の旅館というよりもむしろ、どこかジブリめいた、しかしロマンティックではない幻想的な空間が広がっていた。

「チェックインしたいんですが」夫が荷物を抱えながら、難しい顔で書類に目を通している初老の男性に声をかけた。
「えーと……素泊まりですよね?」男性は宿帳をめくりながら、やや曖昧な口調で言った。
「素泊まり?」夫がわたしの代わりに言った。「いや、食事付きで予約したはずですが……」
「え?」
夫はあらかじめコピーしていた予約票を鞄から取り出して見せ、ひと言ひと言はっきりと言いなおした。「じゃらんで、一泊二食付きで予約したマキノです」
男性はびっくりしたような目でわたしたちを見つめ、「こちらでは素泊まりで承っていますからね……」とこれまで以上に疑わしげな顔つきになった。絶句したわたしの代わりに、お腹の虫が鳴いた……新婚旅行で、素泊まりだと?
夫はあわてふためいた。
「あっ!」男性は出し抜けに叫んだ。ことさら声を張り上げて「別のお客さんの予約を見てました!」と屈託なく笑った。

それからすぐ館内の大見学ツアーが始まった。その初老の男性は、この旅館の多彩で興味深いあれこれ──奇跡の温泉水や、オーナーが四代目であることなど──をペラペラしゃべった。彼の熱心な話しぶりに圧倒されて、わたしたちはただ相槌を打つばかりだった。

ようやく部屋にたどり着くと、窓から湯けむりの街並みが見える。室内に目を走らせると、わたしは不意にあるものに目を奪われた。トイレにあるワインの香りの芳香剤だ。わたしはかすかに身震いした。あのロビーの光景が思い出され、これが諸悪の根源だと確信したのだ。


食事付きの予約であることが無事に確認され、夕食は17時30分開始と案内された。
「夕食の時間なのですが……」と夫は言った。「少し遅らせられませんか?」
「それはできませんね〜」先ほどの男性──この宿のオーナーだ──が制した。「すぐに召し上がっていただかないと!」
「えっ?」夫は急いで続けた。「それは困ります……レンタカーの延長料金がかかってしまいます。先にレンタカーを返却してから食べたいんですよね……僕の分は冷めてもいいので、取り置いてもらえませんか?」 
「レンタカーを延長すればいいでしょ?」
「ん?」夫は明らかに信じられないといった顔つきで、語気を強めた。「それだと延長料金が……夕食を食べている間も無駄にお金がかかっちゃうじゃないですか!」
「うちの夕食時間は決まっていますから。温かいうちに召し上がってください!」

さらに踏み込んで尋ねてみたが、満足のいく答えは得られない。オーナーは一方的に話を切り上げて、そそくさと薄暗い奥の部屋へと姿を消してしまった。わたしはこの宿を予約した夫に非難の目を向けた。これ以上、最悪な展開なんてあるのだろうか?もしこの旅館が地獄めぐりの名所の一つに加えられていたとしても、わたしはきっと驚かない。


たとえ生ぬるい刺身だったとしても、夕食をいただけたのは幸運だった。少しでも盛り上げようと夫がわたしにカメラを向けたものの、わたしはショックから立ち直れず、その向けられたカメラのレンズをただ睨むばかりであった。壁の時計が時を刻む。

チクタク、チクタク、チクタク。

わたしはその音色が少しだけ変わったことに気がついた。

チャリン、チャリン、チャリン。

一円、また一円と、お金が発生している!

わたしたちは夕食をかきこみ、レンタカーへ飛び乗った。咀嚼などしていられない。

車は苦しそうにうめきながらしゃにむに目的地へと向かった。レンタカーを返却したその帰り道、わたしたちはコンビニに寄ってビールやチューハイを物色し、わたしは「大分限定!本格激辛地獄スナック」を棚からひったくるようにして買い物かごへ叩きこんだ。旅館の門限である21時に間に合うよう、パタパタと小走りで戻る。

夫はやさしく諭すように言った。
「温泉は源泉かけ流しだから」
オーナーの声も耳元でしつこく鳴り響く。
「真水はいっさい混ぜていませんから!」


温泉は月並みであった。浴場は露天風呂と内風呂の二種類。それぞれ貸切風呂になっていて、利用時に札を裏返すシステムだ。内風呂から上がったわたしは、一階の廊下で露天風呂の順番待ちをしている夫のもとへと小走りで向かった。すべての扉に「入浴中」の札がかかっている。わたしは並べられた座り心地の悪いパイプ椅子にどっかりと腰をおろし、ほっとため息をもらすと、それに呼応するように、隣で夫もため息をもらした。

やけにしんと静まり返っている。

一時は気が動転したが、それもおさまった。騒ぎ立てたからといってどうなるわけでもない。時間を縛られるのはいかにも癪に障るけれど……

そのときだった。どこからか、くぐもった物音が聞こえてきた。ロビーのほうからだ。

「あいつ、逃げたんすよ」
今度ははっきりと聞こえた。誰かが電話で話している。わたしは貪るように耳を澄ませた。
「いえね。あいつの家に行ったら、車はあったんすよー。けど姿は現さない」
力のこもった、押し殺したような男性の声。先ほど案内してくれたオーナーの声ではない。ひょっとして、宿泊客か?
「母親はいたんですがねー」
くるりと振り向くと、わたしたちの他にもう一人、露天風呂の空きを待っている男性客が心得顔で座っている。三人はお互いを盗み見るようにして、ちらちらと視線を泳がせた。ロビーに声が反響する。

「貸した金はぜんぶ返してもらわないと!」

夫と目がかち合った。今度は、その場の誰もがじっと前を見つめながら、息を殺して微動だにしない。わたしは壁に貼られた観光ポスターを穴があくほど凝視した。

ほどなく、露天風呂の札が裏返される音がした。

温泉に入り終えたわたしたちは部屋へ戻り、テレビをつけて、コンビニで手に入れたお菓子をむさぼってみる。しかしこの「大分限定!本格激辛地獄スナック」、辛すぎて旨みがいっさいない!わたしはすぐさまスナックを放り出し、髪を逆立てて、トイレにあるワインの香りの芳香剤に向かってきんきん声を上げた。

「もう、いまいましい!」 


チェックアウトとは、なんて甘美な響きだろう。わたしは異様なほど早起きをした。カーテンの向こうからは、神々しい朝日が差しこんでいる。

そんなつもりはないのに、思わず声に出してしまった。
「やっと、ここから抜け出せるんだ……」

天にも昇る心地でふらふらと朝食会場へ向かい、特筆するほどでもない漬物やらご飯やらをかきこむと、すぐにスーツケースを引いて受付へすっ飛んで行った。

「うちの旅館、いかがでしたか?」相変わらずいささかオーバーな愛想を振りまいているオーナーが、陽気な声でさえずった。わたしはいち早く逃れようと機械的に相槌を打ち、喜びを隠しながらチェックアウトを済ませ、いつ果てるともしれない話が途切れた隙に玄関の扉に飛びついた。すると、ぴったりと調子を合わせたように、オーナーの親切そうな声に呼び止められた。わたしはぎょっとして飛び上がった。彼はひょいっと受付から身を乗り出し、意味ありげに言った。

「いまキャンペーン中でしてね、これどうぞ!」

手元に視線を移すと、なにやら一枚の紙が握られていた。わたしは唖然とした表情でそれを見つめた。それは千円札だった。彼は顔の近くで大きく手のひらを広げてみせ、轟きわたるような声で言った。

「星5ですよ、5!」


はたして、千円をもらって口コミに星5をつける人なんているのだろうか?

その問いはずっと頭に残っていた。一年経ったいま、意を決してあの旅館を調べてみる。

そこには、星5か星1のどちらかしかついていなかった。

星1の口コミをくまなく見てみると、断末魔の叫びが聞こえてくる。当時の違和感を掘り起こして書いている人もいれば、モヤモヤがおさまらない宿泊者本人に代わって友人が書いたコメントも残されていた。また、同じ目に遭ってほしくない一心で、生まれて初めて書きたいと思った、と書いている人もいた。揃いも揃って、みんな同じ言葉で締めくくっている。

「二度と行きません」


どうやら、ここを訪れた人はどうしようもなく書きたくなるらしい。書くことで、折り合いでもつけられるのだろうか。わたしにはそれが必要だった。書いて、手放したかったのかもしれない。

その旅館ではろくに写真も撮れなかった。かろうじてわたしが眉間にしわを寄せて、レンズを睨む夕食時の一枚が残っているだけだが、こんなにも新婚旅行を楽しんだ者はいないとわたしは信じている。

忘れてやる!と当時は憤ったものの、時間と言葉でそれは笑いへと変わっていった。行き詰まったら、わたしはきっとまた訪れてしまうだろう。書かずにはいられなくなる、このパワースポットへ。



*文章中の時刻や商品名などは、細部を少しずつ変えています。



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