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パパはボディガード。

「エンダァァァァーイヤァァァ」


金曜日の夜。家族全員で映画『ボディガード』を観ていた。ホイットニー・ヒューストンの地鳴りのような歌声がリビングに鳴り響く。画面の中では、ケビン・コスナーが演じるボディガードが愛する人を守るために命懸けで体を張っている。

映画が終わり、空になったお酒とスナック菓子を片付けていると、長女が言った。

「自分のためにあんなに体張ってくれる人がいるなんて、さすが映画。ワラ」

確かにそうだ。客席にプロの殺し屋が紛れ込んでいたり、別荘で襲撃されて湖に飛び込んだり。二十四時間体制のノーワークライフバランス。そんなことが出来る男は、スクリーンの向こう側にしか存在しないと思うのが普通だ。

だけど、長女よ。君は知らない。

パパはボディガードだった。


あれは二十年前の茹だるような夏の朝。君の母は戦っていた。ようやく入った陣痛室。気がつけば周りの妊婦さんたちは、どんどん分娩室に運ばれ、最後の一人になっていた。後から入ってきた妊婦さんたちにも次々と追い抜かされていく。分娩台が絶望的に遠い。

君は、まだ外の世界に出たくないと妻のお腹でしぶっていた。これ以上は待てないと医師が投入した陣痛促進剤。君との意地比べの始まりだ。午前七時、ついに根負けした君が「オギャー」と、この世界へ出てきてくれた。


「女の子ですね」

妊娠が判明して以来、通っていた産婦人科クリニック。医師から言われた瞬間、私の胸に走ったのは感動ではなく、不安だった。二人兄弟で育ち、男子校に通った私にとって、女性とは、家にいる母親一機だけだった。女の子という生き物が、どんな風に大きくなっていくのか、そのプロセスをこの目で一度も見たことがなかったのだ。

子育ては毎日が手探りだった。

風呂上がりに放たれる放物線を描くおしっこの洗礼。おむつ替えの最中に炸裂するうんち第二波。そして下手すぎる寝かしつけ。

我が家の育児は独占禁止法に抵触するレベルで妻に依存していた。私は子育てという名の戦場で、ただオロオロする役に立たない新兵に過ぎなかった。

だけど、あれはリビングでテレビを観ていたときのこと。君は画面に映るキャラクターに夢中で、「うーたん、げんきげんき!」にあわせて大はしゃぎしていた。

そして不意に、こちらを振り返り言ったのだ。

「パパ」


私はやっとパパを始められた。

寝ているだけの赤ちゃんが寝返りを打ち、つかまり立ちをし、自分の足でヨチヨチと歩き出す。そして玄関のドアを開けて外の世界へ出るようになるまで時間はかからなかった。私は気づいた。

パパは君のボディガード。


家を出る前には、右、左、もう一度右。不審な影がないか、周囲を確認しながら公園へと向かう。

敷地に足を踏み入れた瞬間、その場にいる全ての人間を捕捉し、危険度別に分類をする。

缶ビール片手にベンチに座る中年男性。時刻は午前十時だが手に震えはない。なら危険度はC判定。

ご婦人が子どもにお菓子を配っている。「知らない人からお菓子をもらってはならない」という我が家の教えに抵触するから危険度Bとしよう。

ジャングルジムで大騒ぎしている少年少女。早くもスクールカースト上位に君臨しそうな陽キャ予備軍の匂いがするから危険度Aだな。

砂場に犬のフンやガラス片が埋まっていないかを確認。ブランコを漕ぎ始めれば、弾道を計算しベストな落下地点へと先回り。すべり台では後ろから滑り落ちてくる後続のクソガキッズから守るための壁となった。

月日が経つのはあっという間で、君は大学生になっていた。

かつての前髪パッツンでメガネっ子の面影はもうどこにもない。今ではリビングのソファーでiPadを叩きながら、バリキャリOLみたいな顔をしている。最近では妹から「アネキングダム」というあだ名を授けられるまで逞しくなった。小さい頃、ベソをかきながら帰ってきたあの子は、もしかして別の子供だったのではないかと思うくらいに。

そんなアネキングダムが、ある日、言ったのだ。

「私、フィンランドに行きたい」


我が家の人気キャラクターといえばムーミンである。火付け役は、他でもない君だった。いくら部屋にグッズを飾って、何度も展示会に足を運んでも、ブームは終わる気配を見せなかった。そして、いよいよ発祥の地へ向かう。インフレと円安で我が家はノックダウン寸前。でも君の固い決意を前に送り出すことに決めた。

出発の当日、家族総出で羽田空港まで向かった。車内では、君のお気に入りのファントムシータの曲がエンドレスに流れてる。その日ばかりはみんなでサビを熱唱した。迫り来る別れを忘れようとばかりに、道中の車内はやけに賑やかだった。

しかし、楽しい時間は残酷なほどに過ぎ去る。あっという間に搭乗の時間は近づき、私たちは国際線の出発ゲートへと向かった。エコノミーで十三時間のフライト。いよいよ保安検査場へ進む直前、これが最後だと私は君の背中をポンと叩いて、言葉を贈った。

「来世で会えたらビジネスクラスにしてあげる」


君は笑った気がする。

チェックインの列は機械的に前と進む。パスポートを提示し、ゲートの向こうへと吸い込まれる君の背中。徐々に小さくなり、完全に見えなくなるまで手を振り続けた。

空港のコンビニで晩御飯を買い込み、帰路についた。行きとはうって変わって静かな車内。首都高を走っていると君からLINEが届いた。助手席の妻が言う。

「お土産なにがいいって。スナフキン?」

「無事の帰還って返信しといて」

フィンランドから無事帰国した君は就職活動をはじめた。

どの時代も女性がキャリアを築くのは簡単じゃない。やりたい仕事は見つかるだろうか。採用してくれる会社はあるのだろうか。そんなことを考えていたら、ボディガードの血がまたしても騒ぎだした。

働き始まっても、この家に残ればいい。部屋はそのままにしておくし、終電を逃した時は迎えにいこう。君が家を飛び出す夜があるかもしれない。そんな時は玄関の鍵をかけないで待つとしよう。パパがボディガードになる。

……違うな。

本音を言えば寂しいのだ。

帰宅した私に、お尻を丸出しにしてペンペンと叩きながら出迎えてくれた君も、妹にスカートをつかまれて半ケツ状態でソファーの上で熱唱していたあの日の君も、いつの間にか旅立ってしまっていた。そして、いよいよ本当の一人立ちの瞬間が近づいている。

だから私は嘘をついていた。もっともらしい理由を並べて、狭い鳥カゴに閉じ込めようとしている。自分に語りかける。

あの子を解き放て。

もののけ姫みたいになってしまったけど、そう、君を外の世界へ解き放そう。私が君の未来を遮る阻害要因になってどうするのだ。自分の足でこの世の中に踏み出そうとする君を、この特等席から見送るとしよう。


「エンダァァァァーイヤァァァ」


まだ歌声が頭の中で鳴っている。ソファーに座る君は、友だちとチャットしてる。

映画の中のフランクは任務を終えて去っていった。けれど私はいつだって、ここにいる。

パパはボディガードだった。




#創作大賞2026 #エッセイ部門


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